-1- 蒐集家
気づけば、私が滴水古書堂で働きはじめてから一年が経っていた。
「ああ、そういえばこのくらいの時期だったかな」
わずかな隙間から寒風が忍び込む店内。私が年月の巡りに言及すると、古戸さんはぼんやりと偽ネクロノミコンのページを繰りながら、勤めはじめたころと同じような様子で呟いた。少なくとも彼はこの一年、私への態度も含めてほとんど変化していない。
「一年勤めてみた感想は?」
「思い出したくないことがたくさんありましたね」
「それはよかった」
「よかないですよ」
よくはない。よくはないし、事実いくつかの思い出は今も隙を見て私の正気を苛む。
そんな体験の源である古書堂を離れて別の場所に勤めるというアイデアが、この一年間でまったくなかったわけではない。
もし古書堂を離れれば、忌まわしい思い出も過去のものとして、忘れないまでも薄れさせることができるのかもしれない。あるいは真っ当で堅実な生活を積み重ねることで、あの頃は異常だったなと振り返るようになるのかもしれない。
しかし目下のところ、私は古書堂で働き続けている。新たな職を求める活動もしていない。
このままでいいのだろうかという焦燥はありつつ、やはりどこかで恐れている。安定した平凡な日常を手に入れたところで、それが突然に、理不尽に、不可逆的に破壊されてしまうのではないかということを。
せっかく手に入れた日常を理不尽な形で失うくらいならば、この怪しげな古書堂に棲む不可解で名状しがたい店主とともに、ときおり混沌に身を投じる方が――いや、ダメだ。そっちに行ってはいけない。
「そういえば、ライター業の方はどうなの最近」
古戸さんに尋ねられ、ふと我に返る。
「……ああ、収入としては結構育ってきましたよ」
少し前、私はオカルトブログを運営する安那という女性と知り合った。とあるきっかけで記事を書いて彼女に送ったところ、それが中々に好評だったらしく、以降ちょくちょく執筆の依頼があるのだ。
最近は安那さんの伝手で別のメディアに寄稿する機会も増えてきた。ものによっては一つの記事が一万円ぐらいになったりするので、収入源として案外馬鹿にできない。古書堂の給料と合わせれば、なんとか独り暮らしができるくらいには稼げるのだ。
そういう金銭的余裕も、私が新しい一歩を踏み出す妨げになっているのかもしれない。いや、これこそが新しい一歩なのか?
「育てようとし過ぎると破裂するから気をつけなよ」
「古戸さんはもう少し商売っ気を出した方がいいんじゃないですか」
「出してる出してる。片倉君のお祖父さんとも連絡取ったし」
私と古戸さんは先月、いなくなった友人を捜す片倉君と小さな集落を訪れた。同行の報酬代わりに貰ったのが、今も古戸さんが手に持っている偽ネクロノミコンだ。
これ自体の価値は古戸さん曰く――偽物であるにも関わらず破格の――十万円ということだが、彼は目先の金額よりも、偽ネクロノミコンを片倉青年に贈ったという祖父に興味持った。
もしマニアックな古書や魔導書を持っている蒐集家ならば、もっと珍しい品が手に入るかもしれない、というわけだ。
聞いてみれば、既に訪問の日取りまで決まっているらしい。
「車、使います?」
「そうだね。運転お願いできるかな。まだ量がどれぐらいか分からないし、売ってくれるかどうかも分からないけど」
別に一人でできないこともないとは思うが、多分、面倒臭いのだろう。業務上の指示であれば素直に従おう。
「そのお祖父さんはどこに住んでる人ですか」
「静岡県の三島市だってさ。熱海とか沼津とかのあたりだよ」
ぼんやりと地図を思い浮かべる。道路が空いていれば、横浜から車で二時間ほどだろうか。仕事の進捗次第では日帰りも可能な距離だ。
あの真面目で意志の強い片倉君の祖父。一体どんな人物だろうか。
*
朝八時に横浜を出発した私たちは、海老名と足柄を経由し、雪を頂く富士を眺めながら御殿場を通り過ぎ、伊豆半島の根本に位置する三島までやってきた。
観光シーズンでも週末でもない自動車道は交通量も少なく、快晴の下で行程は順調。古戸さんの妙な鼻歌も、今日はそれほど神経に障らない。
予定していたより早く三島に到着した私たちは、時間調整のため一旦市街に繰り出した。道端を流れる湧水や鹿のいる立派な神社を見てから、ホカホカのたい焼きを片手に、再び車へと乗り込んだのが午前十時の少し前。
片倉君の祖父、もとい片倉誠一郎氏の住居は、三島駅から車で十分ほどの場所にある。そこは住宅街というよりも田園に近い一帯で、夏や秋は牧歌的な景色が広がるのだろうが、今は休耕中の農地が多いせいもあり、どこかうら寂しい雰囲気が漂っていた。
小さな果樹園付近に車を停め、スマホのナビと番地を確認しながら探していくと、すぐに目的の邸宅が見つかった。広々とした土地を十分に活かした、和洋折衷の平屋建て。大金持ちとまではいかないが、古書を買い集めるのに不自由がない程度の資産は持っていそうだ。
玄関先のインターホンを鳴らすと、若い声がそれに答えた。少しして顔を見せたのは、明らかに誠一郎さんではなさそうな、陰気な感じのする女性だった。
……どこかで見た覚えがある。どこだったか。
「お久しぶりです。その節は、お世話になりました」
思い出すのは女性の方が早かった。
「以前、六文字様のお屋敷で家事代行をしていた、三津でございます。お待ちしておりました」
そこまで言われてしっかりと思い出し、非礼を詫びつつ改めて頭を下げる。彼女とは、読めば死ぬというカルナマゴスの遺言を巡る事件で顔を合わせた。
その後、元々の雇い主である六文字さんは亡くなってしまい、職を失った――多分、なんらかのフォローはあったのだろうが――彼女が新しい就職口として選んだのがここ、ということなのだろう。ほぼ一年ぶりの、思いがけない再会だ。
「あー、はいはい。お久しぶり」
古戸さんもようやく記憶を再生した。三津さんは私たちの反応を特に気にした風もなく、以前と同じ丁寧な所作で私たちを中へ招いた。
玄関の奥は小さなホールになっている。左手に延びる長い廊下には、ぱっと見ただけでも扉が八つ。間取りで考えるなら十人は余裕で住めそうだが、今はややひっそりとしている。
「こちらです」
転じて三津さんが示したのは右手の扉。これはリビングに通じているようだ。促されるままに入室すると、そこは二十畳ほどの広い部屋になっていた。華美さよりも落ち着きと慎み深さを重視した造りは、老舗旅館のロビーを思わせる。
部屋の中ほどで、革張りのソファに座っていた老人が立ち上がり、こちらに笑顔を向けた。あずき色のカーディガンを羽織った小柄な男性。豊な白髪の下にある顔はいかにも人が良さそうだ。年齢は七十歳を過ぎたぐらい。彼が片倉君の祖父である誠一郎さんだろう。
「どうも。滴水古書堂から参りました、古戸です」
楠田です、と私も挨拶する。
「遠いところからありがとうございます。優輝の祖父です。孫がお世話になったみたいで」
優輝、というのは片倉君の名前だ。
「ああいえ、僕も彼女も、人助けが趣味みたいなものなのでお気になさらず」
私は四角いコーヒーテーブルを囲むソファに腰かけ、三津さんが淹れたほうじ茶の椀で手を温める。彼女は給仕を済ませると、昼食の支度をすると言ってリビングを出ていった。
「――と、いうのがおおまかな事情です」
その間、私たちは片倉君と出会い、偽ネクロノミコンを受け取り、なんやかんや―あって友人と再会した経緯を――口外しないという約束を守るため、無害な嘘を多数織り交ぜて――説明した。
片倉君が祖父からの贈り物を依頼料にしたことについては、ひとえに彼の誠実さと熱意ゆえの行動であり、安易な考えでそれを手放したわけではないはずだ、と擁護しておいた。
「しかし古本屋さんを頼るというのは不思議な縁ですね。面白い。私の息子は本にあまり興味を持たない人間だったんで、優輝には興味を持ってもらおうと色々考えてたんですよ。地道な工作が活きたかな」
誠一郎さんは柔和に笑う。本に興味を持つ、という言葉のチョイスからは、彼が読書よりも蒐集に重きを置いていることが窺えた。
「それで、本の査定なんですが……」
誠一郎さんは孫についていくらでも語りそうだったが、私はやんわりとそれを遮った。
「おっと、そうでしたそうでした。この家には色々と本が置いてあるんですが、私が集めたもの以外にも、父親とか祖父が集めたものもあるんですよ。価値のないものはいつか捨てるしかないんでしょうが、欲しい人に届くならそれがいいと思ってね」
「売ってもいいものなんですか?」
私は尋ねた。蒐集家がコレクションを手放すのには、なにか理由があるのだろうと思ったからだ。
「まあ、言ってしまえば死ぬ準備ですよ。今は終活と呼ぶんですかね。私も身体があんまり強くないですから、いつまで元気でいられるか分からない。
家の管理も一人じゃできなくなってきて、三津さんに住み込みで働いてもらってるし。余裕があるうちに色々処分しておかないと、あとで大変でしょう」
「……なるほど」
外見から推測する限りは元気そうだが、彼なりに考えることもあるのだろう。弱気からというよりも、思慮から発した考えなのかもしれない。身軽になっておけば、なにが起こっても対処しやすいということか。
「ざっくり流れとしては、本を一冊ずつ査定して明細出して、売りたくないものだけ残してもらう、って感じになりますかね。買い取り額ゼロ円みたいなのも出ちゃうかもしれないですけど」
古戸さんの説明。誠一郎さんは鷹揚に頷いた。
「よろしくお願いします。なにかお困りのことがあれば、私か三津さんに言ってください」




