-終- 死を忘るなかれ
私は畳を蹴って間合いを詰めた。振りかぶられたナタが勢いを増す前に、左腕を叩きつけるようにして受ける。空いた股間に右膝を見舞おうとしたが、これは狙いが外れてしまった。辺りが暗いせいで細かい狙いがつけづらい。ウォーミングアップも不十分だ。
懐に入られた酒居がこちらを力任せに押し返す。それを足捌きで受け流そうとした私は、迂闊にも踵を畳の縁に足をひっかけてしまった。転倒を避けるために跳びすさると、鼻先五センチを鈍色の刃が通り過ぎる。
鋭く息を吐いて平常心を保つ。すぐうしろには真奈加と片倉君。これ以上は後退できない。
一撃食らう覚悟で攻めるか? 私がタイミングを計っていると、視界の中に暗躍する古戸さんの姿が写り込んできた。闇に乗じて格闘の側面に回り、不意打ちを食らわせようとしているのだ。
気配を察知した酒居は咄嗟に振り返ったが、既に毛布は古戸さんの手を離れ、彼の視界と上半身を覆っていた。私はその隙をついて再び間合いの内に入り、相手の左膝に全力の回し蹴りを浴びせた。今度の狙いは完璧だ。崩れ落ちた酒居に素早く馬乗りとなり、全体重をかけて拘束する。
「手伝って!」
四人でぎゅうぎゅうと畳に押しつけつつ、手からナタを取り上げる。一時危ない場面もあったが、なんとか無力化できた。酒居はしばらくもごもごと抵抗していたが、さすがにこの体勢から逆転できるほどの勢いはない。そのうち疲弊して大人しくなった。
「ヤサカさんをどうしたんですか」
片倉君が怒りを込めた口調で言った。酒居は答えず、唸り声を返すだけだ。まだ興奮状態にあるのだろう。まともなやりとりは期待できない。
「どうしようね。拷問するのも趣味が悪いし――」
一度口を開いた古戸さんがふと黙り込み、先ほど酒居が入ってきたあたりを見つめた。まもなく、近づいてくる複数の足音が聞こえてくる。廊下の木目を照らす懐中電灯の光。
やがてぞろぞろと現れたのは、集落の住民だった。くすんだ色の防寒コートに身を包んだ老人たち。体格や姿勢からして、一番若い人間でも七十歳を超え、この気候で外出するのは危険と思えるような年齢の人間もいる。
彼らは武器を持たず、襲ってくるような様子もなく、黙ってこちらを見ている。
老人たちには覇気がなく、表情はどこか虚ろで弱々しかった。佇まいからは不安や恐れ、諦めが滲んでいる。
「酒居さんを離してやってくれ……」
住民の一人がぽつりと言った。
「そんなこと言ったって、この人はさっき襲ってきたんですよ!」
真奈加の言う通り、すぐには実行できかねる要求だ。
「酒居さんは悪い人じゃないんだ。私らのことを考えてくれたんだ。みんな宇良木を出て行ったが、酒居さんだけは残ってくれた……」
そうだ、そうだよ、と小さく同調する声。なんだか妙な雲行きになってきた。一時は乱闘も覚悟したのだが。
彼らに私たちを跳ねのけたり丸め込んだりする力はない。資産を持った顔役もいなければ、肉体にモノを言わせられる血気盛んな若衆もいない。全体でたった二十人の年老いた住民がいるだけだ。酒居さんが絶望を敵意に換えたところで、状況は大して変わらない。
思えば彼にも斟酌すべき事情はある。不可逆的な過疎化が進む集落で、多くの住民が宇良木を離れていく中、一番の若手として世話を焼いてきた。
自分がいなくなればどうなるか。秘密が露見すればどうなるか。ヤサカさんの存在を秘密にするのも当然のことだ。もしかするとそのとき既に、精神状態としてギリギリのところまできていたのかもしれない。
とはいえナタで斬りかかるというのは流石に看過できないが……。
「ぼ、僕は」
緊張を孕んだ沈黙を破ったのは片倉君だった。
「僕はここにヤサカさんを捜しに来ただけなんです。ほかになにもするつもりはありません。ヤサカさんにはさっき会って、話をしました。だから僕たちはもう大人しく出ていきます。
僕たちは寺に行きました。地下も見ました。もちろん驚きましたけど、警察に通報するとか、誰かに言いふらすなんてことはしません。ヤサカさんの故郷にそんなことをするつもりはありません。
もしかしたら酒居さんは、そういうことをされるんじゃないかって心配したのかもしれません。でも、僕たちはそんなことしません。
それよりも、ヤサカさんがどこかで怪我をしてるかもしれないんです。もしまだ見つけてないなら早く手当をしてあげてください。もしいいと言われれば僕たちが捜します。僕は本当に、ヤサカさんが心配で来ただけなんです」
片倉君の誠意ある説得を耳にして、住民たちは顔を見合わせながら、ひそひそと囁き合っている。なんとかこの場は引き下がってくれそうだ。私や古戸さんの言葉だったらこうはいかない。
しかし問題は私たちが押さえつけている男。それまで大人しくしていた酒居さんが、このときになって再び唸り声を上げて暴れはじめた。なにか様子がおかしい。
「ううううう……」
その身体がびくんと跳ねて、勢いで古戸さんと真奈加が跳ね飛ばされた。常識では考えられない異常な膂力だ。黒々とした毛に覆われた手が、毛布の下から這い出てくる。先ほどナタを握っていたものとは違っていた。
まさか、と私は冷や汗をかいた。皮と筋肉の感触が、増大する異様な気配が、酒居さんの変貌を告げていた。彼は今この瞬間、人間から狗になりつつあるのだ。
「ぐぐうううぅぅ」
もう押さえつけていることはできなかった。骨ばった指がごきごきと音を立てて変形し、黄ばんだ鋭い爪が伸びてくる。荒々しく吐き出される息には、胸をむかつかせるような獣臭を含んでいた。
私は咄嗟にナタを探した。今のうちに頭を叩き割らなければ。
「待ってくれ!」
掠れた叫び声が聞こえた。事態の展開に狼狽える住民たちを押しのけて現れたのは、負傷したヤサカさんだった。
彼は半ば這いつくばるようにして酒居さんに取り縋り、その身体を抑えつけた。頭には生々しい傷跡があり、流れ出した血が体毛を汚している。人間なら致命傷になりかねないが、狗の肉体ならば平気なのだろうか。
「私が悪かった。お前がずっと集落で苦労してきたのも知らないで、勝手なことを言った。怒るのも無理はないし、私でよければいくら殴ってくれてもいい」
そう言って、ヤサカさんは酒居さんをなだめた。私は両者の邪魔をしないようそっと身を引いたが、ナタの場所を確認しておくことは忘れなかった。
「でも片倉君たちは傷つけないでくれ。友人だから、秘密は守ってくれる。今更戻ってきた無責任な人間の言葉なんて、信用できないかもしれないが……」
私はやりとりを注意深く観察しながらも、酒居さんが変化した理由とその結果について考えていた。暴力性の解放か、極度の絶望か、肉体へのダメージか、あるいはただ単にそのときが来たというだけなのか。
なんにせよこれまで宇良木を支えてきた彼は人ならざる者となり、集落の消滅はいよいよ間近となった。私たちの来訪が消滅のプロセスを加速させたことは確実だ。しかし何事もなかったとして、同じ結末を辿ることはきっと不可避だっただろう。
「……分かったよ。ヤサカ。分かった」
ぐったりと疲労したような声がした。被せられた毛布を取り払い、酒居さんが身を起こす。懐中電灯の光に浮かび上がる彼の顔は、今このときも徐々に人間らしさを失い、恐ろしげな狗の様相を現しつつあった。
しかしこちらを害する意思はもう感じられず、伏せた目からは、自らの所業に対する後悔と気まずさが感じ取れた。
「もう無駄な抵抗はしない」
その場に佇んでいた住民たちも、血みどろの争いが回避されてほっとしたようだ。
「えーと、なんとか和解が成立しそうなところで」
緊張が弛んだのを見計らってか、古戸さんが口を開いた。
「僕らに怪我人は出てないし、目的も達成したし、ここは適当に収めて、予定通り明日には帰るよ。約束通り口外はなし。SNSにアップもなし。麗しい友情の――痛ッ」
余計なことを口走りそうな気配があったので、私は彼のふくらはぎを蹴った。
「よければ、朝までペンションを使わせてくれるとありがたいんだけどね。この寒さで車中泊は辛いから」
「……好きに使ってくれ。どのみちもう、ペンションは営業できない」
*
酒居さんにもはや害がないことは、ヤサカさんが保証してくれた。彼がこちらを信じてくれたのだから、こちらも彼を信じることにした。
ひとまず私たちはぴんくまに戻り、古戸さんと片倉君が熱いシャワーを浴びている間、私と真奈加でスープを作り、芯から冷えてしまった身体と緊張した精神を癒した。
元々尋常の神経を持っていない古戸さんと、案外切り替えの早い真奈加はしばらくして眠りにつき、そのどちらでもない私と片倉君はそのままラウンジに留まっていた。キッチンで発見したココアを二人ですすりながら、ときおり微睡みつつ、なにを話すでもなくぼんやりと過ごす。
片倉君は長い間物思いに沈みながら窓の外に目を遣り、ぴんくまの周りに生えている蝋梅を眺めていた。
花はもうひと月もすれば散る。集落から人がいなくなったあとも、雪を被る蝋梅と小さな池のある宇良木の景色は変わらないだろうか。片倉君の胸中は知れないが、もしかすると同じように考えているかもしれない。
やがて朝がやってきた。
ごく簡単な食事を摂ってから荷物をまとめ、宇良木を出発する。午前七時の空気は澄み切って冷たく、私たちが吐く息を煙のように濃く凝結させた。集落には人の声も物音もなく、建物や木々は昨夜の出来事などなかったかのように朝日を浴びていた。
まだ憂いが少なかった時代に描かれたであろうピンク色の熊に見送られながら、私たちはレンタカーに乗って宇良木を離れた。
「由宇子といると毎回不思議なことになるな~」
ぴんくまの看板が見えなくなるころ、後部座席で真奈加が言った。
「……ごめん」
「えーなんで謝るの? 守ってもらってるのは私なのに」
「あの……古戸さん、楠田さん。それから真奈加さんも、ありがとうございました。僕が一人で来てもヤサカさんを見つけられなかったと思います」
「片倉君もカッコよかったよ~、みんなを説得してたとき」
真奈加はいたずらっぽく肩を寄せる。ああいう仕草で男性が惑う様を私はたびたび見てきたが、今はなにも言わないことにしよう。
集落のこれからを想えば、目的達成を喜ぶばかりではいられない。それでも私は、片倉君を手伝えてよかったと思う。
彼は今や人間でなくなった友人のことを、そして夜通し眺めた蝋梅のことを忘れないだろう。それが消えゆく集落への弔いになるかどうかは分からない。しかしなにかを偲ぶ流儀は人それぞれだ。
古戸さんは今回の報酬代わりに受け取った偽ネクロノミコン、その持ち主である片倉君の祖父に早くも想いを馳せているようだった。取引や訪問の際には私も同行することになるだろうが、新しい仕事をはじめれば、今のうら寂しい気持ちも少しはまぎれるだろう。
「次は暖かいところがいいねえ」
「それ、前も言ってませんでしたか」
私はやや寝不足の目をしばたたかせながらハンドルを操り、麓に続く曲がりくねった山道を降りていった。




