-3- 黒きファラオ
そうこうしているうちに、時刻は正午を迎えた。日常生活に関してはものぐさな古戸さんの代わりに、私はぶらぶらと商店街へと出かけ、二人分のハンバーガーを買って戻ってきた。
食事のあとは居間でだらりとしつつ、オカルト記事の構成を練る。そのうちエジプト関連の資料が欲しくなったので、古戸さんの許可を得て書庫を漁ることにした。
棚卸しをしたときのおぼろげな記憶によれば、確かイギリスのオカルティストが記した東洋――この場合は西アジア――の儀式にまつわる本があったはずだ。
古戸さん独自の分類法によって整理された書架を探すと、すぐに目当てのものが見つかった。酷く擦り切れた革の表紙には、辛うじてVermisという文字が見て取れる。これは英語のWormに当たるラテン語で、地虫や蛆という意味を持つ。
正式な書名は〝De Vermis Mysteriis〟といい、あえて日本語に訳すなら、蛆の秘密、あるいは地虫の秘密ということになるだろう。
腐敗した死体を食べて蠢く蛆。たとえ儀式や魔術に興味があったとしても、手に取るのが戸惑われるようなタイトルだ。ある意味では暗澹たる内容をよく示した、秀逸な名づけと言えるのかもしれない。
私は本を持って居間に戻り、それを紐解きはじめた。表題はラテン語だが、中身は英語だ。文体は古いものの、ヒエラティックに比べればまだ易しい。ちょっと読んでから濃い目のコーヒーを淹れて眠気を追い払い、再び紙面に向き合う。
この本に書かれているのは、当時の権力者から排斥され、破壊され、隠匿され、それでも辛うじて生き残った信仰。当然ではあるが、楽しく読める種類のものではない。多様な形で捧げられる生贄、人肉嗜好、麻薬や幻覚剤の服用、異常な状況下でおこなわれる乱交……。
常人なら吐き気を催さずにはいられない内容だが、幸か不幸か私はここ数か月で若干の耐性を獲得しつつある。外国語だということも手伝って、この段階では比較的淡々と情報を処理できた。
所々掠れたインクで綴られる文章に齧りつき、陰鬱なページを繰ること数十分。私はようやくエジプトの古代宗教について言及された部分に差しかかった。文字列を指と目でなぞるようにしながら、ホテップが紙片に記した黒きファラオという単語を探す。
……あった。そこには彼がほのめかした、口にするのもはばかられるような信仰が長々と記述されていた。
黒きファラオ。それは実際に支配者として君臨し、権勢を振るった存在らしい。しかしそのおぞましい所業ゆえに玉座を負われ、崇拝者ともども生きながら埋葬され、歴史から抹消された。
しかし地下に封じられたあとも黒きファラオは死なず、自らが見通した過去と未来の全てを、血濡れのパピルスに記し続けている。
弾圧を逃れた信仰の断片はセベクやセト、オシリスといった既存の神々に取り入れられ、あるいはひっそりと潜伏して現代まで生き残っているという。
さらに不可解だったのは、排斥された王とその信仰対象が黒いファラオという同じ言葉で説明されていることだった。敵対者から信仰を隠すため意図的にそうされているのか、あるいは実際に同一視されるようになっていたのか、あるいは王が神そのものになったのかは定かでない。
デ・ウェルミス・ミステリイスの記述を大まかにまとめると、ざっとこのようになる。古戸さんの宗教観はともかく、もう普通に邪教認定でよいのではないかという気がしてきた。
反逆者たちに追い立てられ、地下の墳墓に幽閉され、生と死の狭間、呪詛と幻想の中に存在し続ける。しかし歴史から抹消したところで、それを本来の居場所に戻しただけではないのか。あるいは憎しみと恐怖が糧となり、邪悪を強めるだけに終わったのではないか。
どろり、と紙面から闇が溢れ出したような気がして、私は慌てて本を閉じた。大丈夫、ただの幻覚だ。いや、大丈夫ではないか。
記事の資料とするために、今後も二度三度と参照しなければならないだろうが、今はこれ以上深入りしないでおこう。
ホテップこちらになにを求めるのか。その日は彼の意図を尋ねるメッセージを降ろし、私は夕方までに家へと帰った。
*
翌朝出勤すると、古戸さんが次のように書かれたメモを眺めていた。
羚羊の肉を八デベン 木炭 植物油
燃える水 麝香 没薬を欲す
黒く輝く宝玉 闇に閉ざし
象徴を描いたパピルスにて抱くべし
顔料にはヘンナを用い 寸分誤ることなかれ
太陽が地の底に眠る間 静謐なる石室にて
我儀式を執りおこなえば もはや汝ら煩うことなし
「彼の注文ですか」
「うん。無茶ってほどじゃないけど、結構面倒臭い」
それでも古戸さんの中で、オーダーを実行するのはほぼ決定事項らしい。友人であるヴェロニカ・フランチェスカが知ったら大層嘆き悲しむ、というよりも殺されかねない行為だが、床下でエジプト人が腐るのを防ぎ、古書堂に安寧を取り戻すためにはやむを得ない。
どうせ私が買い出しに行くのだろうなと予感しつつ、なにを揃えればいいのか確認していく。
木炭、植物油。このあたりは特に問題ないだろう。
「これはなんて読むんですか。ナントカ羊」
「レイヨウ。カモシカと読ませることもあるけど、この場合はガゼルとかインパラとかをざっくり括った呼び名だよ。分類的に考えれば、牛もも肉とかでいいんじゃない。一デベンは大体百グラムぐらいだから、二、三パックあれば足りるだろう」
「適当すぎません?」
「だって羊とかならともかく、輸入するわけにもいかないからね。大丈夫大丈夫、レイヨウだけに含まれるこれこれの成分が、とかじゃない限り、似たものでも問題ないはずだ」
「はあ……」
「燃える水はアルコールじゃなくて石油系かな。没薬は植物系の香料だからいいとして、麝香が微妙ところだ」
「なにが違うんですか」
「麝香っていうのはジャコウジカから採れる動物性の香料なんだけど、絶滅危惧種だからワシントン条約に引っかかる。これはアロマオイルで代用しよう。化学的に合成されたヤツ」
どんどん雲行きが怪しくなってきているが、大丈夫だろうか。
「ヘンナは私も分かります」
これは頭髪のカラーリングやケアに使われる天然ハーブで、ヘナとも呼ばれる。古代エジプトでも使われていたのは知らなかったが。
「で、黒く輝く宝玉か」
オニキス、黒真珠、黒曜石など、黒い宝石や貴石は多くある。しかしここで言及されているのは、おそらくはじめてホテップに物資を降ろしたときに受け取った豪奢な首飾りのことだろう。確か中央の目立つ位置に黒い石が嵌め込まれていたはずだ。
てっきり返礼の品だとばかり思っていたが、あの頃既に彼の中では、脱出の算段がついていたのかもしれない。古戸さんに在処を尋ねると、押し入れの中に突っ込んであるという。
それから象徴。紙片には物品の指示とともに、見本となる絵が描かれていた。輪郭だけ見れば写実的な――おそらくファラオの――顔面だが、中央には目も鼻も口もなく、大きな黒い穴のようになっている。じっと見ていると、言いようもない不安を掻き立てられる図柄だ。
これはコンビニでコピーすればいいだろう。文明の利器を活用するのに後ろめたさはあるが、気にしすぎだと思うことにする。
「よし、よし。案外なんとかなりそうだな」
「うーん……」
適当な儀式をやって、黒きファラオの怒りに触れたりしないだろうか。不安は増すばかりだったが、手に入らないものは仕方がない。
私たちは必要な物品を量販店やネット通販で買うことにして、ホテップにもう二日ほど待つよう伝えた。




