-終- 闇に消えた
要求された物品のうち、没薬とヘンナは混じりけのないものが調達できた。木炭もキャンプ用だが多分問題ないだろう。オリーブオイルも昔から使われている材料なので文句は出ないはずだが、ガソリンはちょっと微妙なところだ。
牛もも肉とホワイトムスクのアロマオイルに至っては、クレームがつくかもしれない。しかし現代日本には現代日本の事情があるのだ。なんとか我慢してもらおう。
それからコンビニでコピーしてきた顔のないファラオ。そのままだと物足りないので、上から黒いマジックでなぞってある。
押し入れから例の首飾りを取り出してみると、中心にある黒い石がわずかに光っていた。燐光や蛍光ではない、溶岩を感じさせるような赤が、内奥で拍動しているように見えた。
「……おっと」
古戸さんがいじっているうちに、黒い石が取れ、ぽろりと床に転がった。
「壊しましたね」
「元々外れるようになってたんだよ、多分」
彼は石を拾い、掌の上で転がした。
改めてまじまじと観察する。精密な研磨が施されているようには見えない。かといって自然物とも思えない。直径およそ十五ミリ。六つか七つある面がそれぞれ異なる多角形でできた、実に奇妙な立体だった。
これもまた、顔のないシンボルとは違う意味で心を騒がせるアイテムだ。禍々しく、恐ろしい。しかし同時に、ずっと眺めていたいと感じさせるなにかがある。
私はかすかな未練を腹の底に押し込めてから、石を――とりあえずアルミホイルで――闇に閉ざし、シンボルの描かれた紙で包む。途中で開かないよう、セロテープでしっかりと留めた。
これで準備は万端……かどうか自信はないが、やれることはやった。
太陽が地の底に眠る間、ということで実行は夜。私は調達した物品をホテップに届けたあと、一旦自宅で夕食を済ませ、午後七時前に古書堂を再訪した。店舗の中は暗く、その奥の住居部分もまた照明が落とされていた。
まさか寝てしまったということもないだろう。私は足元に気をつけつつ靴を脱ぎ、静かに居間へと向かった。
闇の中にぼんやりと浮かぶ古戸さんのシルエット。彼はこちらに背を向けたまま胡坐を組み、例の穴を覗き込むようにしている。床下からは絞り出すような、呻くような声が、そして気化したガソリンとムスクの混じりあった、不快な臭いが立ち上ってきていた。
「もうはじまってますか?」
「ちょっと前にね」
私は小声で囁きつつ、古戸さんの隣に腰を下ろす。
ホテップは既に準備を終え、儀式の本番をはじめているようだった。彼がどのような手段で墳墓の外へ出るつもりなのかは分からない。石を砕くのか、門のようなものを開くのか、仲間と交信して助けてもらうのか。
床下の詠唱は空間の中で反響し、その一言一句を聞き取ることはできなかったが、私にはホテップが闇に語りかけ、なにかを呼び出そうとしているのではないかという気がした。
それからの十分はほとんど変化なく過ぎた。居間に漂う異臭と、これから起ころうとしていることへの不安とで、私にとっては非常に落ち着かない時間だった。
しかし間もなく儀式は佳境に入っていった。ホテップの詠唱が一段と高まり、空気がピリピリと緊張を孕む。彼の昂ぶりが伝わってきて、私の背筋にも力が入る。
ホテップの声が苦しげな呻きに変わったとき、こちら側にも異変があった。
ガソリンとムスクに加えて、きな臭い、あるいは酸を思わせるような臭いが空気に混ざりはじめる。それが強さを増した矢先、私の傍らでぼんやりとなにかが光りはじめた。
それはあの黒い石だった。まるで赤熱した炭かなにかのように、シンボルを描いた紙をゆっくりと焦がし、じりじりと燃やしている。しかし温度は感じられず、畳に燃え移る気配もない。
ホテップの声が止んだ。
気づけば紙は半分以上燃え尽き、内側の石が露わになっていた。石の表面には所々亀裂が入り、奥に拍動する赤黒い光が見える。にわかにそれが曇ったかと思うと、私たちの目の前に、宵闇よりも暗い、奇妙な半実体が顕現した。
どろりと凝る闇の中で、燃えるように赤い三つの眼が不規則にぎょろぎょろと動いている。酸のような臭いが一際濃くなり、異様な気配が部屋全体に満ちた。
なんだ、これは。
試しに殴ってようか。いや、多分無駄だろう。古書堂を放棄して逃げる? 時間が経てば消えてくれるだろうか?
逡巡している間に、赤い三つの眼が古戸さんに襲いかかった。
「おっ……」
それまで呑気に観察していた彼は、小さく息を吸い込んだあと激しく咳込みはじめた。ただ単にむせたという風ではない。喉が裏返り、肺が外に出るのではないかと思えるほどの勢いだ。
「わ、わ」
私は手近にあった座布団を掴み、古戸さんの頭を何度かぶっ叩いた。しかし凝った闇はほんの少しかき混ぜられただけで、犠牲者を放そうとしない。不快な臭いがさらに強まった。
捉えられた彼を部屋から引きずり出すべきか、それとも例の黒い石をなんとかするべきか。それともホテップに呼びかけて、儀式を中止してもらうべきか。
「あかり、あか――」
息も絶え絶えな古戸さんが辛うじて発した言葉で、私は次にすべきことを悟った。
明かり。私は立ち上がり、邪魔な本の山を蹴倒しながら照明のスイッチに取りついた。
電気をつける。一瞬、闇に慣れた目が眩んだ。顔を庇う指の間から見えたのは、粗密を作りながら、明らかに意志を持って蠢く煙かアメーバのような半実体だった。おびただしい量の鳥や羽虫の群を、遠くから見た姿にも似ている。
それは未だ古戸さんにしつこく纏わりついていたが、古びた電球の光を受けると激しく揺らぎ、力を失い、溶けるようにして消滅していった。最後まで残った赤い三つの眼も、圧搾されたようにねじれて縮み、やがて破裂するようにしてなくなった。
「古戸さん、大丈夫ですか?」
彼は相変わらず激しい咳を続け、喉が傷ついたのか血さえ吐いているが、はじめに比べるとやや落ち着いてきているようだった。私が台所から持ってきた牛乳を飲ませると、大きく息をついてぐったりと横になった。
「はあ、酷い目にあった」
「珍しく苦しみましたね」
「そうかもしれない。ホテップ君は?」
居間が大変なことになっていたせいで彼の存在を失念していた。私は穴を覗き込み、声をかけてみたが、地下空間は完全な闇に閉ざされていて、物音一つしない。儀式に使われたムスクとガソリン、没薬らしき臭いが充満しているだけだ。
私たちは彼の安否を確かめるべく、照明と一緒にカメラを降ろした。一通り撮影してから動画を確認してみると、そこは黒っぽい石材に囲まれた、おそらくは縦横八メートルほどの玄室だった。
中には空の棺が安置されているほか、ここ数日の間に補給した物資の残骸と儀式の痕跡があるのみだ。ホテップの姿は影も形もない。
「脱出に成功したんでしょうか」
「どうだろう」
私たちが適当な準備をしたせいで儀式が失敗したのなら、大変申し訳ないことをした。もしかすると、さっきの妙な存在が彼自身だったのだろうか? 今となっては知る術もない。
「やっぱり適当な気持ちで儀式の準備をしちゃダメなんですよ」
「うーん。まあそういうことにしておこう。今度からはもっと真摯な気持ちで闇の儀式に向き合うよう心がけるよ」
「道徳に向き合いましょう、まず」
ホテップは果たして一介の神官だったのか。もしかすると黒いファラオ自身だったのではないだろうか。あるいは元々人間ですらなかったのかもしれない。
とにかく彼はいなくなった。古代エジプト文明に戻っていったのかもしれないし、現代日本に亡命してきたのかもしれない。
しかし床板の穴はそのまま残った。こういうものは一通りのことが終わったら消えてしまうものかと思っていたが、そう都合よくはいかないらしい。結局、私は足元に暗い墳墓を感じながら仕事をする羽目になりそうだ。
居間の消臭は念入りにおこなったが、完全に清浄とはならなかった。店先までほんのり漂うムスクの香りが、それから随分と長い間、古書堂の胡散臭さを倍加させることになった。




