-2- ヒエラティック
いつまでも店をほったらかすわけにはいかないので、私はエジプト人の世話を古戸さんに任せ、表へと戻ることにした。
なぜ古代エジプトへの穴が開いてしまったのか想像は尽きないが、あまり考えても意味のないことだ。古書堂に集まる雑多な物品の魔力なり呪力なりが、なんやかんや悪さをしたのかもしれない。
結局ここ数日間聞こえてきていたという声は、閉じ込められたエジプト人の祈りだったのだ。出口のない暗闇の中、生還の望みが絶たれた状態で、信仰にすがりながら餓死の恐怖に耐えていたのかもしれない。それにしても、数千年先の異国から糸が垂らされるとは思ってもみなかっただろう。
彼が命を繋いだのはひとまずよかった。しかしもちろん、それで一件落着とはならない。あの穴はせいぜい頭が通るか通らないかの大きさしかく、人ひとりを外まで引き上げることはできない。
彼が飢えないように物資を補給するのは容易だが、何年も養っていくのはさすがに大変だし、食にあまり関心のない古戸さんに任せると、いつか栄養失調で死なせてしまうかもしれない。なんとか状況を打開する方法を考えたいところだ。
「楠田さん、ホテップ君からメッセージを受け取ることに成功したよ」
時刻が正午を回り、さらにおやつどきを過ぎたころ、古戸さんがようやく店先に戻ってきた。
「誰ですかホテップ君って」
「床下の彼を暫定的にそう呼ぶことにした。ホテップっていうのは、日本語で言うところの太郎さんだ」
本当だろうか。適当に言っているだけではないのか。
「で、これさ」
古戸さんがひらひらと振ってみせたのはただのメモ用紙だが、そこには鉛筆で書かれた解読不能の文字が並んでいた。
「おやつと一緒に筆記用具を降ろしたら、僕の意図を察して書いてくれた」
「これはエジプト語……エジプト語っていうはあるんでしたっけ。アラビア語?」
「エジプト語でおおむね合ってる。より正確に言えば、ヒエラティックだ」
ヒエラティック。似たような言葉はどこかで聞いた覚えがある。高校時代に使っていた世界史の教科書だったか。
「十八世紀末にナポレオンの部隊が発見したロゼッタストーンには、神聖文字と民衆文字が記されていたんだけど、古代エジプトで使われていた文字がもう一つある。それがヒエラティックだ。日本語では神官文字という言葉が当てられている」
「読めそうですか」
「すらすらとは無理だね。でも古代エジプトなんてのはメジャー中のメジャーなテーマだから、どこかしらに資料はあるだろう」
もしコミュニケーションが可能となれば、彼、もといホテップがどこから来たのか、なぜ閉じ込められているのかが分かるかもしれない。事態が少しでも進展したのは喜ばしいことだ。
「まあ、しばらくはホテップ君の住環境を改善しつつ、文通をすることになるかな」
こうして現代日本と古代エジプトの、奇妙なやりとりがはじまった。
*
翌日の午前、私はホテップが必要としそうな日用品を、主にホームセンターで買い求めた。夜の寒さと地面の硬さを和らげるための毛布、清潔さを保つためのタオルやゆったりした衣服、電気ランタン、ノートと鉛筆、食料、等々。
それから私たちのために、丈夫なロープ、それを巻き取るためのドラム型コードリール、地下空間の様子を探るための小型カメラを購入した。
あとは相互理解の助けになるかと思い、言語に頼らずとも知識を得やすい図鑑を数冊。どんな金額になろうと私の懐は痛まないので、漏れがないよう景気よく使う。
買い物を終えて店に戻ってくると、古戸さんがヒエラティックの文章に目を落としながら、翻訳文を呪詛のように呟いているところだった。
「翻訳はできると思うんだけど、手書きの文字を解読するのが難しいな」
「悪筆なんですか?」
「多分鉛筆に慣れてないんだ。毛筆とか羽ペンで書いてもらえばよかったのかもね」
ヒエラティックの翻訳作業を中断した古戸さんとともに、私は調達したものを居間に運び込んだ。紙袋にロープを結びつけ、コードリールを使って効率よく物資を降ろしていく。
電気ランタンを灯して届けたときには、痩せて青ざめ、不精髭に覆われたホテップの顔が浮かび上がった。私にはその表情が鬼気迫るものであるように見えたが、それが暗闇に耐えたことによるものなのか、元々の性質によるものなのかは分からなかった。
作業の途中で、ホテップは何度かこちらに呼びかけてきた。しかし私たちの発する言語が理解不能であることを悟ると、以降はほとんど声を出さなくなってしまった。やはりヒエラティックの文章を解読しなければ、コミュニケーションを取るのは難しいだろう。
結局、ホテップのメッセージが理解できる程度に翻訳されたのは翌日のことだった。この日の私は勤務がないにも関わらず、床下にいる彼のことが気にかかり、昼前には古書堂に顔を出した。
私が引き戸を開けると、カウンターの上や床に散らばった紙片が目に入る。どうやら古戸さんがヒエラティックの日本語訳を書いては消し、修正しては破棄しを繰り返したようだ。紙片を拾っていると、その中に丁寧な字で記された一文を見つけた。
我 黒きファラオに仕える者
慈悲深き糧 我が飢えを遠ざけたり
高き光を背にし 低き闇を覗く
汝ら 何者なりや
「あれ、今日は休みでしょ楠田さん」
奥から古戸さんがやってきた。トイレに行っていたらしい。
「今日はライターとしての取材です」
「ああ、そういえばそんなことも言ってたね」
「翻訳、できたんですか」
私は文章の書かれた紙片をひらひらと振ってみせた。
「うん。彼はただの成金じゃなくて、結構な地位にある人物のようだ。黒きファラオというのが歴史上のどの人物に当たるのか分からないけど、王宮とか神殿に勤めてたんじゃないかな」
「でもこれだけだと、事情はよく分からないですね。もう何往復かやりとりしないと」
「今度は楠田さんが返事書いてみなよ。教えてあげるから」
英語ならばともかく、古代エジプトの言語で作文などできるだろうか。
しかし物は試しと取りかかってみれば、はじめ考えたほど難しい仕事でないことが分かった。意味を伝えるためだけの文章を書くのであれば、語彙が限られている分、外国語としては易しいとさえ言えるかもしれない。それでもたっぷり二時間はかけて、ホテップに宛てたメッセージを形にした。
我ら 古き書物を司る者
住みたる地 遠き異国に在り
此度の邂逅 数奇なりと覚ゆ
汝 何故暗闇に捕らわれたるか
「あー、いいね。詩情に溢れた文章が書けた」
「はあ」
いくら美麗な文を書いたところで、理解してもらえなければ意味がない。私はそれを丁寧に清書したあと、物資と一緒に床下へと降ろした。
今日は仕事をするつもりもなかったので、私は居間に寝転がって本を読みながら、ホテップからの反応を待った。そして三十分後、垂らしたままのロープが引かれ、リールがカタカタと音を立てた。
ハンドルを回してロープを巻き取り、結びつけてあった紙袋を覗くと、そこには新しい紙片が入れられていた。さっそく古戸さんの元に戻り、解読を試みる。
邪教の信徒 我を捕らえ
暗闇の中 巨石にて戸口を封ず
無為なる所業 我と我が主を恐れたる故
此処は地下深き墳墓なり 力を以て出ずる術なし
されど黒きファラオの智慧 我を導く
汝らの助けありせば 解放の時遠からず
相手が誰であれ、内容がなんであれ、異文化でのコミュニケーションが成立するのは嬉しいものだが、冷静になって文章を読み返すと、使われている単語は不穏なものばかりだ。
邪教、墳墓、黒きファラオの智慧。どうやらホテップは、敵対する存在よって幽閉されているらしい。普通に考えれば死を待つだけの絶望的な状況。しかし彼は信仰による救済とはまた違った意味で、なんらかの手段による解放を期待しているようだった。
どうにもきな臭い感じがする。
「古戸さん、思うんですけど」
「言ってごらん」
「どっちかっていうと彼の方が邪教徒なんじゃないですかね」
「邪教徒ねえ……」
古戸さんはカウンターに頬杖を突き、ピンとこない様子で私の言葉を繰り返した。
「邪教っていうのは正統な教えの存在を前提とした呼び方だから、僕らが言うのはなんか違うんじゃないかなあ。例えば楠田さんが狂信的なラーメン教徒だとすると、キリスト教も仏教もヒンドゥー教も邪教になりうるよね。食における禁欲など自然の摂理に対する冒涜である! とかさ」
「古戸さん、お腹空いてるんですか」
「仮にホテップ君の敵対者が古代エジプトの正統な宗教派閥だったとして、当然のように人身御供の儀式だってしてるわけだ。ミイラ作りだって、意図を知らない人が見たらちょっと気持ち悪いかもしれない。ホテップ君の信仰を現代日本の感覚で評価するのは、あんまり適切とは言えないよ」
「じゃあ古戸さんはあくまで彼を助けるつもりなんですね」
私が若干の嫌悪を込めて言うと、古戸さんは口元を気味悪く歪めた。
「そうせざるをえないと思うね。倫理観や人情を抜きにしても、床下で人が死んで腐ってごらんよ。声が漏れるぐらいだから、臭いだって漏れるかもしれない。それに楠田さんだって、死んだエジプト人を床下に感じながら仕事したくはないだろ?」
古戸さんが言っていることは正しい。もしホテップが離れた場所にいるならば、見捨てるという選択肢もあっただろう。しかしなんの因果か、彼は古書堂の床下にいるのだ。偶然繋がった穴が閉じない限り、同居しているのと変わりない。
「でも、処女の生き血を寄越せとか言われたら困るなあ……」




