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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Episode9 にんげんがだいすき
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-2- 灰色の獣

 日没までの数時間で方々を歩き回ったが、いかんせんこのあたりは土地勘がないため、効率的な捜索はおこなえなかった。自分自身が迷子になりかけたり、同じ道を何回も通ったりしたあと、焦りと疲労感だけを募らせた私は、一旦梶村邸へと戻ることに決めた。


 帰路についたときの気分は重かったが、その途中、スマホに届いたメッセージで私は胸を撫で下ろした。古戸さんが無事な恵那ちゃんを見つけたというのだ。


 彼女は自宅から三キロ以上離れた場所にある、貨物ターミナル駅に迷い込んでいたらしい。いや、この場合は忍び込んでいだというべきか。


 なんにせよ、これでひとまずは安心だ。ラスティを探したい気持ちは分かるが、無鉄砲は困る。徹也さんはきっと説教できないだろうから、私から強く言っておくべきかもしれない。


 彼女の心情をおもんぱかりつつ、理性に訴えかけるような文句をひねっていると、辺りはすっかり暗くなっていた。私が梶村邸まで数十メートルの距離で、道を一本通り過ぎてしまったことに気づいたとき、正面からやってくる古戸さんと恵那ちゃんの姿が見えた。


 疲れた様子でポケットに手を突っ込んでいる古戸さん。そのうしろに打ち沈んだ様子の恵那ちゃん。私は駆け寄って声をかけようとしたが、その直後、強烈な違和感に襲われた。二人のさらに奥、街路の暗がりになにかがいる。


 のっそりと歩み出てきた影に、私は目を瞠った。ラスティではない。もっと大きい。もっともっと大きい。


「にんげんがぁ、だぁいすきいぃぃ」


 影はそう言った。そう言ったように聞こえただけかもしれない。虚ろで歪んだ、しかしそれでいて媚びたようなところのある、気味の悪い声だった。


 古戸さんと恵那ちゃんが気づかなかったのであれば、影は突然現れたのだろう。声で二人が振り返ったのと同時に、街灯に照らされた異形の輪郭が明らかになった。


 それは四つ足の獣に見えた。しかしサイズは大型のトラックほどもあった。眼や顔面の造形は猫に似ていたが、各部位が奇妙に歪み、ねじれていた。


 半身を覆う体毛らしきものには、乾いた粘液のようなものがこびりつき、所々固まっていた。もう半身はピンク色と灰色の地肌が露わになっており、そこにある無数の傷からは、じくじくとなにかの汁が滲み出ていた。あたりに獣臭と腐臭が充満し、私は吐き気を覚えた。


 異形の獣がさらに一歩を踏み出す。


「にぃんげんがあ……だあいすきい……」


 今度は囁くような声。圧力を伴わない響きが、かえって正体不明の恐怖を煽った。


 すぐにでも逃げたい。しかし急に動けば襲ってくるかもしれない。


 古戸さんが手振りで恵那ちゃんを下がらせ、異形の獣に歩み寄った。


「僕も大好きだぞぉ……、ほら、怖くない、怖くない……」


 獣はそのねじくれた前脚を上げ、古戸さんを踏み潰した。


「おじさんッ!」


 恵那ちゃんが叫ぶ。私は咄嗟に飛び出し、彼女の腕を掴んだ。


「逃げよう!」


 獣は黄色く濁った眼をこちらに向けた。細かったその瞳孔が開き、私たちの動きを追う。


 しかし獣はほんの少し葛藤するような様子を見せたあと、前脚の下でうごうごしている古戸さんを弄ぶことに決めたらしく、私たちが走り去るのを邪魔してくることはなかった。むっとするような臭いを振り切るように獣から離れ、梶村邸に向かう。


「お姉ちゃん、おじ、おじさんが……」


「あの人は大丈夫」


 どう大丈夫なのか説明している暇はないし、時間があったところで説明できる自信もない。これまでの経験から、古戸さんが物理的な損傷で――丸呑みにされたり咀嚼されたりしてしまった場合は分からないが――死ぬことはないと知っているに過ぎない。


「ぃんげんがぁ……すきぃ……」


 鳥肌の立つような声を背に受けながら、暗い道路を走る。幸い、梶村邸はすぐそこだ。家の前には、徹也さんの姿もあった。


「恵那! よかった、今まで――」


「家に入って!」


 私は叫んだ。


 徹也さんの顔には困惑の表情が浮かんだ。古戸さんに無事連れ帰られると思っていた恵那ちゃんが、私と一緒に血相を変えて走ってきたのだから当然だ。


 それでも彼は問いただすことはせず、玄関を開けて私たちを招き入れたあと、玄関の前で立ち止まった。多分、変質者か暴漢が追ってきていると勘違いし、それと相対するつもりなのだろう。


 しかし徹也さんが意気を保ったのも束の間のことで、うわぁという悲鳴のあと、青ざめた顔で屋内に滑り込んできた。


「アレはなんだ?」


「分かりません」


 扉の向こうから、獣が迫るのを感じる。腐臭を孕んだ息遣いと、掠れた呟きが聞こえる。人間が大好き? 嘘をつけ。


「恵那、恵那。大丈夫だ。二階に隠れよう」


 徹也さんが声を抑えながら、怯える娘の頭を抱き寄せて言葉をかける。


 私はすぐに思い至らなかったが、よくよく考えれば彼女は古戸さんが潰される現場を見てしまったのだ。彼が特別なのと、私がそれを見慣れてしまっているというだけで、正常な人間ならば、激しいショックを受けて虚脱状態になってもおかしくはない。


 獣が玄関扉に頭をぶつけるたび、家が小刻みに揺れる。近所の住民はどうしているのだろう。そもそもあの存在が見えているのか?


「だいすき……だいすきぃ……」


 不気味な声を響かせながら、獣が家の周りを歩き回っている。私たちは動きを気取られないよう、息をひそめ、足音を消しながら、そろりそろりと二階に上がり、そのまま恵那ちゃんの部屋へと入る。獣がどの程度執拗かは分からないが、うまく諦めてくれることを祈るばかりだ。


「ラスティはあの怪獣に食べられちゃったの?」


 部屋の電気は恵那ちゃんが出たときについていたものがそのままだった。私たちは外から見られないようカーテンを引き、ベッドの脇に固まって、うずくまるように固まって腰を下ろした。


「あの怪獣はあんまり素早そうじゃなかったし、ラスティは古戸さんより逃げるの上手いから……。大丈夫だよ、多分」


「そういえば古戸はどうしたんだ」


 徹也さんがはっとして尋ねた。


「ええと」


 私は一瞬言い淀み、目を逸らす。


「捕まりました」


「なんだって……」


 古戸さんのことが気がかりな二人と、自分の身が可愛い私で、身を寄せ合いつつそのまま数分。あたりでは騒ぎが起こっている様子もない。獣が外壁に身体をこすりつける音、風が窓を叩く音だけが聞こえる。


「徹也さん、リビングの窓、鍵かかってます?」


「いや……」


 まずいと思ったときにはもう遅く、階下のリビングでカタカタと音がした。おそらく古戸さんではない。獣が窓枠を爪でひっかき、屋内に侵入してきたのだ。あの巨体でどうやって?


「にんげん……にんげんどこぉかなぁ……」


 それはしばらく一階に留まったあと、やがてひたひたと階段を上がり、二階の廊下に達した。近づいてくる。


 私は部屋の入口に目をやった。オープンな家庭環境ゆえか、扉に鍵はない。窓から飛び降りるか。いや、私や徹也さんはともかく、恵那ちゃんが大怪我をしかねない。それに屋外が安全だという保証もない。


「隠れましょう」


「隠れるっていっても、どこに?」


「徹也さんは恵那ちゃんとベッドの下に。私は……クローゼットに隠れます」


 もはやほとんど猶予はなかった。私は壁に埋め込まれたクローゼットの、白い両開きの扉に手をかけた。


 徹也さんが恵那ちゃんをベッドの下に押し込み、彼自分も大きな身体をねじこんでいるのを一瞥してから、私もコートや旅行鞄が詰め込まれたクローゼットの中で、なんとか居場所を確保する。


 内側からだと完全には閉まらない。私が戸板と苦闘しているうち、部屋の扉をひっかく音がして、ノブがガチャガチャと鳴りはじめた。獣が入ってこようとしているのだ。


 開け方が分からず諦めてくれれば助かったのだが、そう都合よくはいかなかった。一分近くの試行錯誤を経て、ついに獣が扉を開けてしまった。


「にんげんんん……にんげんおいでぇ……」


「でてぇおいでえぇ」


「こわくない、こわくない……」


 ねじれた四肢が床を踏む音。私たちに呼びかける声。入ってきた獣は複数だった。多分三匹。それより少ないということはなさそうだ。


 トラックほどの身体でどうやってと思ったが、似たような小型の個体もいるのか。それとも分裂することができるのか。


 クローゼットの細い隙間から、不快な臭いが忍び込む。


 今いる場所から覗き見る限り、それぞれの大きさはライオンぐらいだ。獣がネコ科動物と同程度の身体能力を持つのだとすれば、とても人間が太刀打ちできる相手ではない。


 一瞬、獣たちが呼吸さえ止めて黙り込んだ。なにかを探り当てたのだろうか。神経を絞り上げるような沈黙が満ちる。


 にゃあ、とどこかで猫の鳴き声。それと同時に、ベッドがぎしりと軋んだ。


「いたぁ!」

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