-1- 猫はどこへ
私がその少女、梶村恵那と知り合ったのは、滴水古書堂で働きはじめて三か月ほど経った頃だったか。そのきっかけはある不思議な事件だった。
犯人は、チェアマンズ・コンサルティングという謎めいた会社から、精神交換というこれまた謎めいた技術を盗んだ男。
会社のエージェントに追われた男はその肉体を囚われながらも、その精神を恵那ちゃんの肉体に逃げ込ませた。その結果として、彼女の精神は猫の肉体に入ってしまったのである。
恵那ちゃんの父親である梶村徹也から相談を受けた私たちは、白金純子という謎めいた女性の助けを借りつつ、なんとかその一件を落着させることができた。
犯人は消滅したが、シャッフルされた肉体と精神は、おおむね元の組み合わせに戻った。
以降、父娘は大きな面倒事に巻き込まれることもなく、仲睦まじく暮らしている。私がそれを知っているのは、精神と肉体を巡る奇妙な騒動が終わったあとも、二人と交流を持っていたからだ。
父である徹也さんも娘である恵那ちゃんも心の優しい人間で、ともすれば古戸さん以外との付き合いを持つ機会が少ない――非常に不健全な環境にいる――私にとって、二人と過ごす時間はとても心休まるものだった。
出会ってから半年あまりの月日が経ち、いつしか梶村家への訪問は、私の小さな楽しみになっていた。とはいえ連日押しかけても迷惑だろうと思い、頻度は月に二度か三度に抑えている。
自分で言うのもどうかと思うが、大抵の子供の常として、恵那ちゃんはお姉さん的存在である私を慕っているようだった。そしてありがたいことに、もう一匹私に懐いてくれた存在がいる。
それは梶村家で飼われている、ラスティという名前の猫だ。彼女はまだ若々しい雌で、例の事件における――私に関心のある限りで――もう一匹の被害者でもある。
どうやら当時は中年男性の肉体に囚われていたようで、かなり不快な体験をしたに違いないが、それでもどういうわけか、元の肉体に復帰してから梶村家をふらりと訪れ、そのまま飼い猫の地位に納まった。
当時痩せていたラスティは、この半年間で十分な栄養と愛情を摂取し、今や血統書つきの個体にも劣らない美猫へと変貌した。命名の由来となった体毛はもはや錆色と表現するに適切でなく、窓辺の日差しを浴びて照り輝く、見事な赤銅色となっていた。
猫の室内飼いが推奨される昨今、そのような愛くるしい存在と戯れる機会はそう多くない。私が梶村家を訪問する第一の理由はもちろん恵那ちゃんだが、ラスティと戯れる楽しみも決して弱くはない動機だった。
休日の午後二時ごろに玄関をくぐり、リビングでラスティを撫でくりまわし、恵那ちゃんの部屋で遊んだり勉強を教えたりし、午後五時前にラスティを撫でくりまわし、すっかり和毛に満足してから帰宅するというのが、お決まりのパターンとなっていた。
私は猫が好きだ。見た目はもちろん、あの筋肉も、自我の強そうなところも気に入っている。
心地よい秋風が吹く土曜の午後。私は恵那ちゃんに貸す予定の本を携え、いつもの時間に梶村邸付近までやってきていた。最近彼女はSFに興味を持ち始めているので、少し難しめではあるが古典的な名作を数冊、お勧めしてみるつもりだった。
しかしその日、私は前方に怪しげな、それでいて馴染みのある姿を目にした。太陽を厭うように背中を丸め、気だるげに歩く痩せ型の男。
「古戸さん」
白衣に身を包んだ、ぼさぼさ頭の不審者に声をかける。もし私が地域住民ならば、すぐさま警察に情報を寄せているところだ。呼び止められた古戸さんはおもむろに振り返り、気の抜けた声を出した。
「ああ、奇遇だね」
「なんでいるんですか?」
「いちゃ悪いのかい」
やや語弊があったようだ。
「存在することが罪だとは言ってませんよ。徹也さんたちに用事があるんですか」
「僕もそこまでの受け取り方はしてないよ。……いや、梶村がちょっと陰気な連絡を寄越したからさ」
陰気な連絡とはなんだろう。私は詳細を尋ねたが、古戸さんは本人に聞くといい、と言って説明を面倒がった。
この時点では別段問い詰める必要も感じなかったし、どのみち目的地は目と鼻の先だったので、私はご近所の視線を気にしつつも、そのまま古戸さんと肩を並べて梶村邸へと向かった。
少しして見えた梶村邸の様子は、見たところいつもと変わりない。クリーム色の外壁とオレンジの屋根。窓が割れているわけでもなければ、郵便物が溜まっているわけでもない。私は普段通りに玄関先でインターホンを鳴らし、扉が開くのを待った。
訪問の際に私を迎えてくれるのは、大抵が恵那ちゃんとラスティだった。恵那ちゃんは曜日と時間で、ラスティは足音から私の存在を察知するのだろう。徹也さんは地域課の警察官なので、土日が休みとは限らず、いるときもあればいないときもある。
今日はどうやら徹也さんも在宅していたようで、家の奥から応答があった。大股の足音が近づいてくる。
「こんにちは楠田さん。ああ、古戸も来てたのか」
顔を出した徹也さんは、私たちに柔和な笑顔を向けた。元々の体格と職業上身についた所作により、人によっては威圧感を受けるかもしれないが、私の接する徹也さんは、常に優しく思いやりのある父親だった。
「おいッス」
「どうも、またお邪魔します」
「うん。どうぞどうぞ」
もはや見慣れた玄関で靴を脱ぎ、廊下を通ってリビングへ。その間私は床に目を這わせ、無意識にラスティを探す。しかし鳴きながら足に絡みつく恒例の出迎えはなく、そんなことをしていると踏まれるよとたしなめる恵那ちゃんの声もない。
「恵那ちゃん、いないんですか?」
私が尋ねると、徹也さんは顔を曇らせ、ちらりと天井を見上げた。
「ああ、ちょっとね……」
やや萎れたような彼の様子は、私に前回の事件を思い起こさせた。精神が別人だったとはいえ、あのときの恵那ちゃんが見せた態度には、強い違和感と不気味さがあった。原因となった人格は消滅してしまったので、今回も同じことが起こったわけではないだろうが……。
招かれるままリビングに入り、ソファに座って辺りを見回す。フェルト製の黄色いボールが、窓際で日に焼けていた。
「ラスティ、いなくなちゃったんだって?」
古戸さんが言った。
それは半ば予期していたことだったが、私にとってはかなりショッキングな事実だった。
「そうなんだよ」
徹也さんはため息をつきながら、対面のソファに腰かける。
「元々野良だから、外に出ないと気が詰まるだろうと思って、一日一回は外に出してたんだ。大抵は一、二時間で帰ってきてたんだけど、今回は四日前に出ていったっきり、戻ってきてない」
「やっぱり野生が恋しくなったのかな」
「あり得ないことじゃないと思うけど、とにかく恵那がすごく傷ついててね。今も部屋に籠ってる」
愛情を注がれているとはいえ、多忙な父を持つ一人娘。きっと寂しい思いをすることも多かったに違いない。そんな恵那ちゃんにとって、家族としてのラスティは決して小さな存在ではなかったはずだ。それが急にいなくなったとなれば、ふさぎ込むのも当然だろう。
「探してはみたんですか」
私は尋ねた。
「もちろん。近所は一通り回ったし、チラシも作った。珍しい色だから、いれば見つかると思うんだけど、今のところ目撃証言もない」
そうなると、かなり遠くに行ってしまったか、あるいは事故にでも遭ってしまったか。当然その可能性も頭にあるのだろう。徹也さんの顔がさらに曇った。
「……一つ、気になることがあるんだよ。近所を探してるときに分かったんだけど、どうやらラスティ以外にも、何匹か行方不明になってる猫がいるらしい」
「何匹かっていうのは、どれくらいですか」
「町内の範囲でも四匹。把握できてないだけで、もっと多いかもしれない」
ペットの行方不明。一件や二件ならままある話だが、近所だけで四件となると、さすがになんらかの原因が疑われる。
「近所に変質者でもいるんじゃないか。猫を捕まえて虐待するような」
私も徹也さんも言いづらかったことを、古戸さんが口にする。さすがに茶化すような調子ではないのは、付き合いの長い友人が相手だからか。
「正直なところ、その可能性はあると思ってる。変質者じゃなくても、猫にウロつかれるのが迷惑だと思ってる人もいるだろう。クロスボウみたいなもので撃つとか、毒餌をやるみたいな話も聞くしね。ただ、そんなこと恵那にはとても――」
そのとき廊下でわずかな音がして、間もなく玄関扉の開く音がした。言葉を止めた徹也さんが、はっとして立ち上がる。
「今のは……」
「ちょっと、恵那ちゃん行っちゃったんじゃないですか」
おそらく私たちに気づいて降りてきたところで、運悪く物騒な会話を耳にしたのだ。ラスティが変質者に虐められているかもしれない。いてもたってもいられなくなり、家を飛び出して探しに行ったに違いない。
普段は大人しいからと軽く見ていた。あるいはラスティに対する想いの強さを過小評価していたのかもしれない。こんなことなら長々とおしゃべりなどせずに、すぐ彼女を慰めに行くべきだった。
悔やんでいる間に、徹也さんがリビングを飛び出していく。急なことで後れを取った私も、すぐにそれを追いかけた。
スニーカーをつっかけて玄関を出ると、路上で立ち尽くしている徹也さんがいた。彼は恵那ちゃん見失って途方に暮れていた。
「どうしよう」
「すぐに戻ってきますよ、多分」
私は希望的な観測を述べたが、玄関からのっそりと出てきた古戸さんがそれを否定した。
「いや、追いかけた方がいい。このあたりは散々探したんだろ? だったら捜索範囲を広げようとするだろうし、猫に注意が行ってると、車とかバイクが目に入りにくくなる」
徹也さんは事故の可能性に言及されて青ざめたが、それでも取り乱すことはしなかった。
「古戸の言う通りだ。探した方がいい。悪いけど、楠田さんも手伝ってもらえないかな。見つかったら携帯の方に連絡を」
「ええ、もちろんです」
恵那ちゃんが今、どれほど冷静なのかは分からない。もしかしたらかなり突飛な行動を取るかもしれず、それならば急いで身柄を確保した方がいい。夜になっても帰らないようなら、警察に通報することも考えた方がいいだろう。
とはいえ、大人たちが動転し過ぎても仕方がない。私は靴ひもを結び直し、際限なく膨らみそうになる悪い想像を押さえつける。
そうして私たちはそれぞれの方角に別れ、飛び出していった恵那ちゃんを探しはじめた。




