-終- 文明の灯火
恐怖に駆られて振り返れば、そこには全長五、六メートルの巨大な影が、キノコの放つ幽光に浮かび上がっていた。
シルエットはほかの宇宙虫と似ているが、醜く垂れ下がったまだら模様の腹部は、通常考えられるバランスの何倍も膨満しているように見えた。全身は苦痛のためか激しく蠕動しており、全身の孔からねばつく液体を流している。
その汚らわしい体躯は、幾重にも撒かれたベルトのような装置によって推進力を得ていた。今も響く轟音は、金属製の装置が放つジェット噴射のものだ。
しかしなにより恐怖を掻き立てるのは、女王の叫び声だった。正確には声でなく、粘液とともに体孔から漏れ出る音だ。薄布を引き裂くような、トタン板をひっかくような響きが、狂気を招く笛のように鳴り渡っている。
女王が瀕死なのは間違いない。しかし完全に動けなくなるまでの間に追いつかれれば、その巨大な鋭い五対の肢が私たちをズタズタにするだろう。
いまさら防カビ剤を投げつけたところであまり意味があるとは思えない。やることは一つだ。
「走って!」
私が言うまでもなく、古戸さんとウラシマはそうしていた。今まで消していたヘッドライトを点灯させ、小石に足を取られないよう、二百メートル先の出口へ大急ぎで向かう。
天井は十分に高く、私たちが頭をぶつける心配はない。女王にとっては狭く、背後からはガリガリと、壁で甲殻の剥げる音が聞こえてきた。
しかし止まらない。もし宇宙虫に憎しみという感情があるのならば、今はそれが苦痛を上回っているのだろう。推進装置の補助を受け、五対の肢で土壁を掻きながら、溶解しかけた頭部をこちらに向け、トンネルを走る列車のように進んでくる。
残り百メートル。古戸さんはまだいいが、ウラシマの走りがあまりに遅い。私は辛うじて恐怖を御しつつ、女王の柔らかそうな頭部に石を投げつけながら、少しでも速度を落とせないかと試みる。よろけた古戸さんの顔から眼鏡が外れ、女王の身体で無残に圧し潰された。
あと五十メートル。伸ばされたハサミをなんとか躱してから、私は脚に力を込めて、ウラシマと古戸さんを追い越し、地上へと繋がるナイロンロープに手をかけた。
のんびりとたぐっている暇はない。岩の突き出た壁に足をかけ、力任せに洞窟から這い出る。
「古戸さん! 掴まって!」
私は片手にロープを巻いて支えとし、空いた方の手を洞窟の中に伸ばした。行きの様子からすると、手助けなしなら二人が昇りきるのに何分もかかってしまう。
まずは追いついてきた古戸さん。やはりきなこ牛乳では体力増強に限界があるらしく、二百メートルの疾走を経て息も絶え絶えだ。
「やっぱり……ハァ……プロテインを飲むか……」
「口はいいから身体を動かして!」
「もう少し労ってくれ。これでも頑張ってるんだから」
次は十秒遅れて追いついてきたウラシマを引き上げる。四本の指が私の手首を掴み、私の手が固い腕を掴む。古戸さんも微力ながら手を貸して、なんとか三人で洞窟を脱出することができた。
『すまない』
暗がりの奥からは、切り裂くような断末魔の絶叫が近づいてくる。しかし屋外に出てしまえば、逃走は随分楽になるはずだ。雨と木々が瀕死の女王を阻んでくれる。
「お前ら、こんなところに……!」
そのとき、少し離れた場所から誰かの怒声が聞こえた。振り返れば、そこにはかつて加狩集落で攻撃をしかけてきたポロシャツの男がいた。ただし今は私たちと同じくレインウェアに身を包み、頭をフードで覆っている。
傍らには別の男が一人。これも集落で見た覚えのある顔だ。二人とも、手に拳銃――ではなく、宇宙虫たちが持っていたような、木片に似た武器を握り、憤怒の形相で駆け寄ってくる。
よくない状況だ。二人とはいえ、飛び道具相手は分が悪い。
しかし状況は逡巡を許さなかった。洞窟から女王が現れる。ジェットと悲鳴の混じり合った狂気の音を響かせながら、もはや狭い空間に邪魔されることなく、巨体が勢いよく飛び出した。
場の全員が女王を見上げた。もはや肉体は原型を留めておらず、雨天とはいえ明るい屋外がその姿を詳らかにすると、ミサト興業の男たちからも、動揺したような呻き声が漏れた。
しかし女王の生命活動もそれまでだった。降り注ぐ水滴、全身の損傷、推進装置のエネルギー切れ。どれが決定的だったのかは分からない。
とにかく、一度数メートルの高さまで浮かび上がった女王はすぐに勢いを失い、宇宙虫たちが常々忌まわしく思っていたであろう、地球の重力に引かれて落下してきた。
私はウラシマを突き飛ばし、自らも濡れた地面に身を投げる。女王がすぐ傍に墜落し、割れた甲殻と中身の肉片を撒き散らした。
轟音と振動が収まってから少しの間、動くものはなにもなかった。私が口に入った泥を吐き出して身を起こすと、古戸さんやウラシマはまだ地面に転がりつつ、荒い息をつきながら、疲労と安堵でぐったりしているところだった。
ミサト興業の男たちはどうなった? 私は彼らがいたところに目を遣った。そこはまさに女王が落ちて来た地点で、一人の男は巨大なハサミで胸のあたりから身体を両断されており、もう一人はほとんど完全に下敷きとなっていた。
垣間見える肥大した頭部からはおびただしい量の血と脳漿が漏れ出し、女王だったものの断片と混じり合っていた。
ひどい吐き気がする。今目にしたもののせいか、疲労のせいかは分からない。あるいは、地下の不浄な空気に長く晒されたからかもしれない。
しかしなんにせよ、全ては終わったのだ。コロニーは破壊され、女王は死んだ。この世界から宇宙虫が完全に根絶されたとは思えないが、私たちがやれることはやり尽くしたはずだ。
あとは雨がすべてを洗い流すだろう。女王の身体も、私たちがここにいた証拠も。ロープだけ忘れずに回収しておけばいい。
「疲れた……。しょっぱいものと甘いものを交互に食べたい」
古戸さんが座ったまま、空を見上げている。私はウラシマに手を貸し、立ち上がらせた。顔面もポンチョも泥にまみれ、無残な姿になっている。
「大丈夫ですか」
『多分、大丈夫だ』
大きな怪我はしていないようだが、翻訳機の音声にノイズが混じっている。機械に泥が入ってしまったのかもしれない。
『ありがとう……最後の最後まで。ユウコ、トキヒサ。君たちがいなければなにもできなかった』
「正直に言うと、かなり大変でしたけど」
私は崩壊をはじめた女王の死骸を一瞥した。
「それでも、よかったと思います。その……」
『なにかな?』
「ウラシマさんは、これからどうするつもりですか」
『私も、色々考えたんだけど……。君たちとはここで別れよう。私はまだ、地球人と接触しないことにする。脱出艇に戻り、そこで休眠に入ることにするよ』
「それじゃあ――」
ウラシマは汚れたポンチョの下で、手をわきわきと動かした。
『希望はある。植民は少なくとも一回成功したんだ。もしかすると千年か一万年、あるいはもっと早くに、迎えが――かもしれないな。そのとき、私は地球人と最初に知り合った――――て、君たちの子孫と、私たちの仲――の友好に力を貸そう』
翻訳機のノイズがひどくなってきた。言葉も途切れ途切れになる。ウラシマはどこからか灰色のシートを取り出して、私に手渡した。
それはいつかウラシマが脱出艇の中で書いていた文章だった。光沢のある表面は雨粒を弾き、最下部にある〝浦島〟の署名には滲みもない。
『これはメッセージだ。君たちの――と、わ――の仲間に宛てた――。もし君たちの文明が、今後一万年の間、暖かい文明の光を――いられたならば、彼らはきっ――こに書いてある――の意味を知るだろう』
私はその手紙を受け取り、レインウェアのポケットにしまった。内容はもちろん気になったが、さすがにあえて聞くような野暮はしなかった。
『さ――――異星――よ』
それを最後に、翻訳機はブツンと音を立てて沈黙した。しかしウラシマの方でも、伝えるべきことは伝えたと感じたようで、そのまま踵を返し、森の中へと分け入っていった。
「……さようなら」
別れの言葉を、機械は訳さなかったかもしれない。しかし意味は確かに伝わったはずだ。
「楠田さん、僕の眼鏡知らない?」
いつのまにか、傍らに古戸さんが立っていた。私は空気の読まない言動を叱りかけて、彼も中々の功労者なのだと思い直した。
「眼鏡は、洞窟で潰れました」
「マジか……」
「ウラシマさんの仲間、迎えに来てくれますかね」
私は言った。
「それは僕らには分からないことだし、努力してどうなるもんでもない」
古戸さんの言う通りだ。個人の力で宇宙人を呼び寄せることはできないし、種と文明の行く末をどうこうすることもできない。
しかし、為すことがすべて無意味というわけでもない。私は脱出艇で夜を明かしたとき、ウラシマに言われたことを思い出した。
私がもし普通であったなら、果たしてこの結果が得られただろうか。
今後も必要があれば、私は余人が躊躇うような領域に足を踏み入れ、名状しがたい行為に手を染めるだろう。それが狂気に至るのだとしても、背後にもはや道はなく、ほかに標もないのだから。
「とりあえず集落でお風呂入ろう。このままだと低体温症で死にかねない」
道連れがいるのは、せめてもの救いだろうか。いや、そもそも彼が私を引き込んだのではなかったか?
そんな想念も、やがては寒さと空腹と疲労に塗り潰された。精神を労わるのも大事だが、今回は肉体も相当に酷使した。
私はウラシマが去っていった木々の合間に、もう一度目を遣ってから、加狩集落に足を向けた。勇敢で心優しい宇宙飛行士に、せめて安らかな眠りと、できることならそう遠くない未来、喜ばしい目覚めがありますように。
◇
横浜に戻った私はその翌日からパソコンに向かい、今回の顛末を漏らさず文章にした。まずは完全な記録用のものを一つ。それから、ウラシマに関する情報を削除した公開用のものを一つ。
いくつかの内容は読む人間に強い不快感を与えるだろうし、いくつかの内容は私に不利益をもたらすかもしれない。それでも私は可能な限り真実を描写するように努め、そのすべてを記事にしてもらおうと考えていた。
宇宙虫はカメラに映らなかったので、決定的な証拠を収めることはできなかったが、もし宇宙虫に悩まされている人間が読めばそうと分かるだろうし、書かれていることがなにかしらの助けになるかもしれない。
完成したファイルを送るとき、私は安那さんに一つだけ注文をつけた。どうかこの記事がフィクションかノンフィクションかは聞かないでください、と。
安那さんが不審に思ったのは間違いないが、少なくとも記事の出来には満足してもらえた。フィクションかどうかはあえてぼかす方向で、ブログに掲載される運びとなった。よければまた記事を書いて欲しいとのことだったので、私は前向きに検討します、と答えた。
古戸さんはその執筆活動を面白がり、自分は自分で大量の文章を書いていた。そして私の記事と資料を加えて、わざわざ立派な装丁の本にした。
それからもう一つ、これは私も賛成してのことだが、お金をかけて作ったものがある。
後日石材屋から古書堂に、縦横五十センチほどの分厚い板が届けられた。御影石の黒い表面にびっしりと刻まれているのは、複数の線が流れるように折り返す、地球のそれには似つかない言語だ。
しかし唯一その末尾には、このメッセージを残し、今も加狩山で眠っているであろう存在の名前が、漢字二文字で記されている。




