-3- 月下の公園にて
「みぃつけたぁ!」
恵那ちゃんの悲鳴が聞こえる。もはや自分だけ隠れてはいられない。私はクローゼットの扉を蹴り飛ばすようにして開け、獣たちの気を引こうとした。
結果的にそれは成功したが、黒と灰色のねじれた身体、滴り落ちた粘液を踏む鋭い爪、こちらに向けられた黄色い三対の眼は、私に安易な牽制行為を後悔させた。
まずい状況だ。友好的接触が困難なのは、先程古戸さんによって実証されている。
獣がうしろ足で立ち上がり、こちらを威嚇した、私は一歩後退し、クローゼットに背中をぶつけ、逃げ道がないことを知った。
「だぁいすきぃ……」
再び立ち上がった獣は、前脚で私を抑えつけた。爪が衣服を圧して肉に食い込み、耐え難い悪臭が鼻腔を突く。私は必死に膝で蹴りつけるが、ぶよぶよとした身体がダメージを受けた様子はない。
ねばつく唾液を滴らせた顎が、私の鼻先に迫った。
そのとき、再び猫の鳴き声がした。しかし今度は先程よりも鋭く、数が多い。それを聞いた獣たちは身体を強張らせ、明らかな警戒を示した。私を抑えつけていた一体も、素早く飛びのいて扉を睨みつけた。
がりがり、がりがりと扉をかく音。猫たちはもう部屋のすぐ外にいる。気配と鳴き声からして数十匹。獣は明らかに怯え、唸りとも喘ぎともつかない声を出したあと、いきなり床を強く蹴って跳躍した。
私は腕で身体を庇ったが、獣はこちらに跳びかかってきたわけではなかった。ガラスの割れる音が部屋に響き、脱出口を作った獣たちが、破片に傷つけられながらも飛び降りていった。しかしどうやら庭先にも猫が集まってきているらしく、激しく争う音がしばらく続いた。
「なんだったんだ……」
隠れていた二人がもぞもぞとベッド下から這い出してくる。床に残った粘液に指で触れ、徹也さんが眉をひそめた。
がりがりと扉をかく音、にゃあにゃあという鳴き声は続いている。
私が恐る恐る部屋の扉に歩み寄り、ゆっくりと開けた途端、小さいなにかが走り抜け、温かい和毛で私の足を撫でていった。
入ってきたのは数十匹の猫、猫、猫。大きい猫、小さい猫、白、黒、グレー、茶虎、三毛、肥っているのもいれば、やせているのもおり、なぜだかうっすら発光している個体もいる。廊下で待っていた大量の猫たちが、一気に部屋へとなだれ込んだ。
鳴き声の数からある程度予測できていたとはいえ、私が呆気に取られていると、恵那ちゃんがその中の一匹に目を遣り、驚きと喜びの叫びを上げた。
「ラスティ!」
大群の中に混ざっていた赤銅色の猫が恵那ちゃんに駆け寄り、その足に頭を擦りつける。抱き上げられたラスティは、一際高い声で鳴いて少女の気持ちに応えた。
「どこにいってたの、もう」
そのほかの猫は安堵している一人と困惑している二人の顔を見上げたり、においを嗅いだり、周りをぐるぐる回ったりしている。
「楠田さん、これはどういう……」
「いや、私にもちょっと」
分かるのは、この猫たちが異形の獣を追い払ったということ、そしてこちらを害する意図はないということだ。私がしゃがみこみ、手の甲をゆっくりと突き出すと、何匹もの猫が鼻をくっつけて挨拶をした。しっとりした肉球を乗せてくるのもいる。
猫たちをよく見れば、数匹は首輪をつけている。そのほかにも毛並みや品種からして、明らかに飼い猫だろうという個体もいた。私は数時間前に徹也さんが話していた、行方不明の猫たちのことを思い出した。
彼らはどこからやってきたのだろう? そして今までどこにいたのだろう?
「ねえお父さん。ラスティがついてきて欲しいって」
恵那ちゃんが言った。猫たちはなにかを期待するようにこちらを見上げている。
ついてきて欲しい? それを子供の戯言だと無視するのは簡単だが、私が数か月観察した限り、恵那ちゃんとラスティの間には確実に特別な絆が存在している。彼女らが明らかに複雑なメッセージを伝え合っている場面を目撃したことも、一度や二度ではない。
きっと恵那ちゃんがラスティの肉体に入っていたことと関係があるのだろう。単に長い時間を共に過ごしたというだけが理由とは思えない。
私は徹也さんと顔を見合わせた。
「どうする? 楠田さん。外にはまたあの怪獣がいるかもしれない」
「アレは猫たちを怖がってましたし、大丈夫だとは思いますが……。古戸さんも探さないといけないですし」
「そうか……。そうだね。僕も色々と混乱してるけど、ここは恵那とラスティを信じてみよう」
床に降ろされ、話が決まるのを待っていたラスティが、にゃあおうと声を上げた。
「じゃあ、ラスティ、よろしくね」
部屋にみっちりと充満していた猫たちが、ぞろぞろと外に出ていく。先導しているのはクリーム色にうっすら光る個体。アレがリーダー格だろうか。
群れのうしろにラスティ、それに従う私たち、どんくさい人間が遅れないよう見るためなのか、最後尾にまた数匹。廊下や階段を川のようになりながら猫たちが行進する。
靴を履いている私たちを、面倒なことをするにゃあ、とでもいうように、尻尾をゆらゆらさせながら待っている。その姿には高い知性と、保護が必要な存在への忍耐が感じられた。
玄関を出て夜の住宅街。あたりは静かで、出歩く住民の姿もない。これくらいの時間ならば、サラリーマンや部活帰りの学生がいてもおかしくない時間帯なのだが。まるでこの一帯から、私たちを除く人間だけがいなくなってしまったようだ。
薄く雲を纏う月の光が猫たちの背を照らし、私たちに道を示している。見惚れていると、殿の一匹に頭突きで急かされた。
「どこにいくの?」
恵那ちゃんが尋ねる。にゃおうと答えるラスティ。
「ついてくれば分かるって」
「行こうか、楠田さん。まさか猫の国に連れてかれるってこともないだろうし」
「いや、この流れだと怪しいですよ」
「古戸も猫に保護されてるといいんだけど、アイツ動物に嫌われがちだからな」
「ああ、やっぱりそうなんですね……」
私にも心あたりがある。古戸さんは散歩中の犬に吠えられたり、上空からカラスに襲撃されたりする頻度が明らかに高い。逆に蚊や蜂の類はあまり近づかない。彼の右半身に宿る名状しがたい存在が、虫や動物の本能に警戒を促すのだろう。
だからこの状況においても、猫たちの好意はあまり期待できない。
恵那ちゃんは一片の疑いも持たず、ラスティと並んで猫たちを追っている。私はそこまで純真でないが、幻想的な光景に半ば浮かされるような状態で、徹也さんとともに、恵那ちゃんのあとをついていった。
そうするうちにも、猫たちの数は増えていった。横道や住宅の庭先から、次々に別の群れや個体が合流してくる。立ち止まるでもなく、喧嘩をするでもなく、整然と一方向に歩む様子は、いっそ勇壮にすら見える。
このまま十キロも二十キロも歩かされたらどうしようと思っていたが、目的地は案外近かった。行進の終着点は、いつかも訪れたことがあるタコ公園だ。
広く綺麗な敷地の片隅には、緑色の巨大なタコ型遊具があり、それが公園名の由来となっている。タコの不気味な姿が望める芝生の広場には、さらに多くの猫が集まっていた。全体ではもはや数百匹の規模だ。
私たちは学校の朝会かスポーツイベントの開会式よろしく、その集団の隅に収まった。猫たちは下手な小中学生よりよほど静かに、整然と、列をなして待機している。
どうやら猫たち中にも役割か立場の違いがあるようで、前の方にいるのはいずれもうっすらと光る猫だ。数は全体の一割ほどだろうか。
半ば雰囲気に呑まれ、しばらく待っていると、ふと猫たちが身じろぎを止め、一斉に前方を見た。
なにかがはじまる。
集団の前方にどこからともなく表れたのは、一匹の立派な猫だった。体毛は月光を煮詰めたような色。うっすら光っている猫たちの仲間なのだろうが、その輝きには一層の高貴さが宿っていた。
月光色の猫は集団の前方を横切りながら、列の先頭にいる一匹一匹と短い鳴き声を交わしている。一通りそうすると、月光色の猫は隅にいる人間たちにも目を留めた。
わざわざ集団の側面をぐるりと回り、垂直に立てた長い尾を揺らしながら、悠然とこちらへと歩み寄ってくる。ほかの猫も首を巡らせて、自分たちの首領が人間にどのような言葉をかけるのか、興味深げに視線を注いでいる。
数百匹の猫たちとその首領に見つめられながら、人間たちは背筋を伸ばした。これほど多くの――しかも人間のものではない――視線に晒されるのは、非常に居心地の悪い体験だった。
しかし目の数を意識の外に置いたとしても、月光色の猫は並々ならぬプレッシャーを放っていた。私はまるで鬼軍曹に点検される一兵卒になった気分を味わいながら、首領が放つ青灰色の鋭い眼光を受け止めた。
おそらく私の印象は当たらずとも遠からずで、今この公園に集まっている猫たちは、なんらかの目的をもとに組織された軍団なのだろう。そしてその目的とはおそらく、先程から気味の悪い鳴き声を上げながら徘徊しているあの獣だ。
なーう、と首領が鳴いた。質問なのか、呼びかけなのか、叱咤なのかは分からない。恵那ちゃんも首領の言っていることは分からないようだ。ラスティが通訳してくれれば理解できるのかもしれないが、この場でそれをするのは無礼に当たるのだろう。
なーう、と首領が繰り返す。回答を求められているような気がした。
そのとき、私の横にいた徹也さんが右手を振り上げた。いや、彼は実に見事なフォームで敬礼をしたのだ。恵那ちゃんがそれを真似る。私も遅れて同じようにする。
私たちが腕を下ろすと、首領は高く短く鳴いたあと、身体を翻して背を向けて前の方に戻っていった。私は小さく息を吐き、背筋に入れていた力を少し緩めた。
「なんか、妙な雲行きになってきましたね」
「けど、もう乗りかかった舟だ」
徹也さんの目はまだ月色の猫を追っていた。彼はどんな気持ちで敬礼したのだろう。
「恵那ちゃん、さっきの猫さん、なんて言ってた?」
「がんばれって」
「がんばれか……」
そう言われてもちょっと困ってしまう。そもそも猫たちはこれからどうするのか。所在なさげにあたりを眺めていると、ようやく集団に動きがあった。ひとまとまりになっていた全体が、十匹程度の班に別れ、いくつかある公園の出口から方々に散っていきはじめた。
やがて私たちところには、若い二匹の黒猫とラスティだけが残った。黒猫の方は多分きょうだいだろう。図らずも軍団に組み入れられてしまった三人と、そのお守り役を仰せつかったらしい三匹は広場を離れ、再び暗く危険な住宅街に足を踏み入れた。




