-4- 闘争
通りの両脇に並ぶ建物に見かけ上変わったところはなく、明かりも所々ついている。ただ人間の気配だけがなく、普段の何倍にも輝きを増した満月が、横たわる静寂を照らしていた。
「やっぱりここは猫の世界なのかも」
恵那ちゃんが言った。
「ラスティは猫の世界に行ってたから見つからなかったんだ」
それを肯定するように、ラスティが短く鳴いた。
「どう思う? 楠田さん。やっぱり猫の国に連れてこられちゃったのかな」
「猫のものかはともかく、ここが普通と違う場所なのは間違いなさそうですよ」
「若い人は柔軟だなあ。僕はまだ色々と心の整理がつかない」
私の場合は年齢によるものではなく、これまで古戸さんにさんざん常識を打ち砕かれてきたからだ。恵那ちゃんがこの状況をすんなりと受け入れているのは、確かに見たまま感じたままを受け入れる、子供特有の純粋さからだろう。
ラスティはどうやら分隊を北の方向に導いているようだった。走る車もない幹線道路を渡り、ホームセンターや小学校を横目に、私たちは再び住宅街へと入った。時折交差点で別の分隊と出会ったり、月光を背に高所から高所へと跳ぶ猫たちを目にしたりした。
タコ公園を出発してから十五分ほど移動した私たちは、やがてひときわ闇の濃い領域に到達した。あたりを漂うただならぬ気配に、弛緩しかけた神経が引き絞られる。
黒猫のきょうだいが警告の鳴き声を上げた。前方から歩いてくる何者かがいる。人間の消えた場所に現れたそれは、所々破れた白衣を纏い、普段とさほど変わらない様子で歩く古戸さんだった。
「おっ?」
古戸さんは私たちを認めて、はたと立ち止まった。
「なんだ、無事だっ――」
そのとき彼の背後から、突如として太い灰色の前脚が伸びてきた。私が警告する間もなくそれは横に振り抜かれ、古戸さんを吹き飛ばした。その身体は空中に跳ね上げられ、住宅の石塀を掠って私たちの視界から姿を消した。
「古戸!」
「おじさん!」
「うわぁ……」
彼に対しては基本的に薄情な私も、こう何度も殴られる仕打ちには同情を禁じ得ない。
「にんげんがぁ、だあいすきぃ……!」
再び現れた異形の獣は、はじめて見たときにも増して大きかった。もはやその巨体は道一杯に広がり、軽自動車ぐらいならば簡単に踏み潰せそうだった。
「いやっ、いや……」
か細い声を上げる恵那ちゃんを庇うようにして、徹也さんが立ちはだかった。しかしその首は強張り、呼吸をするのも忘れているように見えた。私は私で、先程部屋で格闘したときのことを思い出し、性質の悪い緊張に身体を支配されつつあった。
にゃあおう。
慄く私たちをよそに、猫たちは意外なほど冷静だった。彼女らは鳴き声とともに後退すると、人間たちと獣の様子を気にしながら、今まで通ってきた道をとって返しはじめた。
「徹也さんは恵那ちゃんと一緒に逃げてください」
我に返った私は言った。
「楠田さんはどうするんだ」
「一旦アレをやりすごしてから、古戸さんを回収してきます」
「回収……」
徹也さんはなにか言いたげだったが、獣が迫っている今、悠長に話し合っている時間はない。私は皆と一緒に数十メートル後退したあと、手近な塀を跳び越え、住宅の庭に身を隠した。
「ほぉら……ほら……おいでぇ」
異形の獣が一歩動くたびに、地面が小さく震えた。ほとんど地面に伏せるような姿勢で、悪臭と脅威が行き過ぎるのを待つ。
幸い、姿を消した私を探す様子はない。辺りが静かになったあとで、古戸さんが飛ばされていった方向へ、そろりそろりと移動する。大きな獣は去ったが、小さいのはいるかもしれない。目立つ動きは避けたかった。
「古戸さん」
身を隠しながら、先程獣と遭遇したあたりまでやってくる。
「古戸さん、いますか」
もぞもぞと動く気配を感じてそちらに目を遣れば、植木鉢が密集して置かれた庭の一角に、人間の脚が生えていた。
「楠田さんか。悪いけど引き抜いてくれ」
膝のあたりを抱えて引っ張ると、上半身がごろりと出てきた。服は派手に破れているものの、傷は既に消えていた。
「しかし今日は運が悪いな」
古戸さんは立ち上がって土を払い、軽い調子で言った。
「むしろラッキーですよ」
「酷いなあ」
「いやいや、叩かれたのが恵那ちゃんとか徹也さんじゃなくて」
「ああ、確かにそうかもしれない。ところで、さっきラスティを見かけたような気がするんだけど」
「いましたよ。あの怪獣に襲われてたときに助けてくれたんです。今このあたりにはすごい数の猫がいます。さっきは公園で決起集会してました」
「なんだこの猫軍団と思ったらそういうことか。僕はさっきから追い立てられて
あっちこっち逃げてたんだ」
「信用できないからでしょう。私がとりなしてあげますんで、ひとまずあの怪獣を追いましょう。二人が心配ですから」
「そうしよう。行ったところでなにができるとも思えないけど」
私たちは周囲を警戒しつつ、無人の道路を進んでいった。怪獣があとに残していった酷い臭いのする体液と、今なお不気味に響く声があるおかげで、追跡は容易だった。
少し行くと、横道、住宅の庭、駐車場の陰、あらゆるところから、私たちと同じように獣を追跡しているらしい、複数の分隊が現れた。そのうち何匹かは古戸さんのことを胡散臭げな目で見つめたが、自分たちの任務を外れて彼を攻撃するようなことはしなかった。
「あの怪獣を奇襲しようとしてるんだ」
古戸さんが言った。確かに、ラスティたちの撤退は半ば計画通りの動きにも見えた。きっと獣に遭遇した分隊が囮となって敵をおびき寄せ、ある地点で一気に反撃を加える手筈なのだ。
私たちの予想した展開は間もなく実現した。視界にいた猫たちが足を早め、道の先に消えたかと思うと、周囲に身も凍るような、苦痛と怒りを孕んだ叫び声が響いた。
「あああああぁぁぁぁぁああああ!」
異形の獣と猫たちの戦いがはじまったのだ。そこに恵那ちゃんと徹也さんもいるだろうか? 私は逸る気持ちのままに駆け足となり、騒ぎの方向へと急いだ。
戦場は百メートルほど先、ホームセンターにある立体駐車場の入口近くで、そこでは獣に取りついた多数の猫たちが、灰色の巨体に牙や爪を突き立てていた。
その姿は一般的な愛玩動物への印象とはかなりかけ離れた、極めて猛々しいものだった。獣は脚を振るったり、建物に身体をぶつけたりして反撃を試みているが、猫たちが持つ圧倒的な敏捷性の前に、今一つ効果を挙げられないでいるようだった。
私が暗がりに目を凝らすと、戦いの中心から二、三十メートル離れた場所に、恵那ちゃんと徹也さんが身を隠していた。傍らには護衛の三匹もいる。二人は私たちが無事なことに安堵の表情を浮かべたが、古戸さんの様子に対してはやや怪訝な顔を見せた。
「古戸お前……なんで無傷なんだ? さっき吹っ飛ばされてなかったか?」
「最近、朝にきなこ牛乳を飲みはじめたから、身体が丈夫になったんだろう」
疑念を深めるだけのセリフを吐きながら、古戸さんが獣の方を見遣った。
「もうそんなにかからないな」
その言葉通り、獣の声は徐々に弱々しく、息を切らしているのか掠れたものになってきていた。もはや人の言葉を真似ることすらせず、やがて悲鳴のようなものを響かせたかと思うと、輪郭をぐずりと崩れさせた。
しかしまだ死んだわけではない。獣の巨大な身体が、梶村邸に侵入してきたような、小さな個体――それでもライオンほどはある――に分裂したのだ。それらはひいひいと叫びながら、方々に散っていく。
どうやら猫たちは勝利したようだ。しかし彼らはより徹底した勝利を求めた。逃げていく獣たちを、また小集団に別れて追っていく。足元のラスティが鳴いた。
「私たちも追いかけるの?」
にゃおう、とラスティが答える。
「ここに取り残されるっていうのもあんまり愉快じゃないね。行ってみようか」
古戸さんもそれに賛同した。
そうして私たちは追撃戦の最後尾についた。さほど足の速くない獣は、猫たちによって次々に捕捉され、とどめを刺されていった。身体が小さくなった分、猫の爪や牙も致命傷となりやすいのだ。
断末魔の獣を横目に通り過ぎたとき、その濁った瞳がこちらを向いた。宿るのは憎しみか哀しみか。すぐに視線を逸らした私には分からない。
私たちは戦いのすべてを見届けたわけではないが、数十体に分かれた獣たちが全滅するまで、そう長い時間はかからなかっただろう。ラスティについていくうち、掃討を終えたらしい猫たちが、一件の住宅に集まっているのを見つけた。




