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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Episode7 眠れぬ人の夢
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-5- かれんの肖像

 二段ベッドの下で、もぞもぞと動く音が聞こえる。朝早くから活動をはじめようという外国人観光客が、互いに言葉を交わしていた。おそらく彼女らは白い街の夢を見なかったのだろう。羨ましいことだ。


 私の気分は酷いものだった。体調は昨日より明らかに悪化している。触手に打たれたダメージは錯覚として残るのみだが、頭も体も鉛が巻きつけられたように重かった。


 平時なら確実に入院ものだ。しかしまだ倒れるわけにはいかない。いや、倒れてしまおうか。古戸さんや安那さんに全てを任せて。


 眠りたい。眠りたい。一体誰だ。こんなことをしたのは。殺人だかなんだか知らないが、悲惨な事件に巻き込まれたなら、私の平穏を奪う権利があるというのか。


 気合を入れては萎えるということを繰り返して、一時間以上経っただろうか。脳みそがドロドロなので、時間の感覚も掴みづらい。私が意思の力を総動員して寝返りを打ったとき、ベッドの縁から安那さんが顔を出した。


「おはようございまーす……」

 多少おどけてはいるが、彼女もまた不調のようだ。


「調子悪そうだね……。平気?」

 気遣いの言葉に対して、私はゾンビのような呻き声を上げた。


「動ける?」

「なんとか……」


 腕立て伏せの姿勢で身体を起こし、安那さんの助けを借りながらベッドを降りる。のそのそと共有スペースまで行き、畳の上に腰を下ろす。


「とりあえずなんか食べて、ほら」


 押しつけられた菓子パンを咀嚼する。食欲もないし味もほとんど感じない。しかしカロリーは摂っておかないといよいよ動けなくなる。豆乳でなんとか飲み下した。


「あー……、眼球をコーヒーで洗いたい」


 隣で安那さんがよく分からないことを言っている。


「古戸さん、来られますかね」


「さあ……」


 それにしても辛い。きっと夢に干渉し過ぎたから、余計に酷くなっているのだ。しかしあの女性は誰だったのだろう。かれんちゃんに寄り添っていた、母親らしきあの女性は。


「そういえば、親御さんって生きてるんでしょうか」

 私は尋ねた。


「かれんちゃんの? 殺されたってニュースはなかったはずだけど」


 両親が生きているならば、亡くなった伊勢谷氏と関係があったかもしれない。


 今までやり場のなかった怒りが獲物を見つけ、赤い眼を光らせたような気がした。かれんちゃんの両親――あるいは父か母の片方――と対峙したとき、私は抑制の弱まったこの頭で、冷静なやりとりができるだろうか。


「なんにせよ、まずは絵描きさんね」


 安那さんはタフだ。きっと徹夜も慣れているのだろう。濃いコーヒーをがぶ飲みしながら、キーボードに向かう彼女の姿が思い浮かんだ。


〈生きてますか〉


 しょぼしょぼする目でスマホを睨み、古戸さんにメッセージを飛ばす。


〈よく分からないけど、今そちらに向かっているんだと思う。住所を教えてくれたら合流する〉


 なんだか朦朧とした返信があった。大丈夫だろうか。


 それから一時間後の午前十時。ゲストハウスの前に古戸さんの乗ったタクシーが到着した。彼は髭も剃らず、目は落ち窪み、住宅地にいればまず間違いなく通報されそうな、奇怪な容貌となり果てていた。かれんちゃんに直接攻撃を加えようとした代償は大きかったようだ。


「とりあえず目のクマだけでも隠しなさい。コンシーラー貸してあげるから。あとマスクもして」


 古戸さんの顔面をなんとか人間に見えるよう改造してから、安那さんと半ゾンビ二名は車に乗り込んだ。前日新聞社で得た情報をもとに、伊勢谷氏の住居へと向かう。とはいっても決して広くはないエリア。事故を起こさないよう慎重に運転しても、せいぜい十五分の距離だ。


 そこは海辺から道一本分だけ奥に入った、見晴らしのよい家だった。薄オレンジに塗られた木材は潮風で劣化しているものの、それがむしろ飾らない魅力を醸していた。美しいとはなにかをよく知っている、画家の住居らしい感じがした。


 家の傍には青い軽自動車が止まっていた。本人のものにしては新しい。


 安那さんがインターホンを鳴らす。家の中で動きがあり、少しして三十歳ぐらいの男性が顔を出した。


「すみません、こちら伊勢谷郷さんのご自宅でお間違いないですか」


「ああ……。祖父は先日亡くなりまして」


「ええ、存じております。生前、大学の方でお世話になりまして、葬儀に出席できなかったものですから、せめてお悔やみを申し上げようと」


 これは明確な嘘。しかし大学ならば多くの人間が関わるだろうから、バレる可能性は限りなく低いはずだ。


「そうでしたか。孫のツヨシと申します。まだ遺品が整理しきれてないので、散らかってますが」


 さすがに弔問客を玄関先で帰すわけにはいかないと、男性は私たちを屋内に招く。安那さんはデザイナーっぽく見えるし、古戸さんの白衣も塗料汚れを考慮したものに見えなくもない。私はなんだろう。無害な人間に映っていることを祈る。


「まだ四十九日は終わってないんですが、骨壺なんかは僕の両親のところに」


 仏壇代わりにということなのか、ツヨシさんは私たちをアトリエに通した。そこは海側に面した広い洋室で、スペースの半分には整理された遺品が並べられているが、もう半分は作業途中で放り出されたかのように雑然としていた。


 私は以前に訪れた造形家のアトリエを思い出して、無意識に身体を固くした。芸術作品と言うにはあまりに冒涜的なオブジェ。そこで遭遇したなにかのことは、今でもあまり考えたくない。


 しかし今のところ、アトリエの中に明白な狂気の源はなさそうだった。大きな窓からは秋の穏やかな海が見え、水平線近くにはヨットや小型クルーザーが浮かんでいる。ごくごく平和な午前中の景色。


 安那さんはいかにも故人を忍んでいるかのように、ゆっくりとアトリエを歩き回る。やがて一枚のカンバスに目を留め、ツヨシさんを呼んだ。視界の端で作業机を漁る古戸さんを捉えながら、私も安那さんの傍に立ち、描きかけの絵を眺めた。


「この絵は?」


 私は尋ねた。しかしなにが描かれているかはすぐに分かったし、それに対する驚きもほとんどなかった。


 軽部かれんの横顔がそこにあった。やや特徴的な画風ではあるが、いくつかの特徴は明らかに彼女のものだった。


「近所の女の子らしいですね。知り合いは、祖父が肖像を描くのは珍しい、と」


「作品は売却なり寄贈なりされるんですか?」

 安那さんが言った。


「その判断が難しくて、整理が滞ってるんですよ。買い叩かれるのも癪ですし、送るにしても誰にどれを、というのが」


「でもこの肖像画は、本人とか親御さんに見せてあげたいですね」


「ああ、確かに……。ただ、どこの誰かっていうのも分からないし、連絡先が分かれば取りに来てもらえるんですが」


「そうですか……」


 残念。ツヨシさんが軽部家の住所を知っていれば話は早かったのだが、目論見は外れてしまった。


「安那さん、あんまり長居しても迷惑がかかるよ。そろそろ失礼しよう」


 スツールに腰かけた古戸さんが、あくびをしながら言った。疲れて面倒になった、というわけでもないようだ。私と安那さんは目配せをしてから、それに従う。


 改めて――形ばかりの――お悔やみを述べて、私たちは伊勢谷氏の自宅をあとにした。


「古戸さん、なにか見つけたんですか」


「これさ」


 路肩に停めた車に戻ってから、彼は白衣のポケットから小さなベージュの封筒を取り出した。


「またそんな泥棒みたいな真似して。いつか捕まるよ古戸君」


 泥棒みたいな、というか泥棒だ。安那さんの言いぶりを聞くに、ずいぶん昔から手癖は悪かったらしい。


「これは我々の、そして多数の人々を救うための正義のおこないだ。緊急避難、緊急避難」


 一理あるようなないような言い訳をしながら、後部座席の私に封筒を渡す。


「……軽部優かるべゆう


 私は宛名を声に出して読んだ。もしかしたらまさると読むのかもしれない。封筒はまだ閉じられておらず、中には青いインクで丁寧に書かれた手紙が入れられていた。


◆ ◆ ◆


 お久しぶりです。もう半年とはいえ、まだ癒えぬ悲しみ、お察しいたします。奥様に続いての不幸、私としても哀惜の念に堪えません。


 僭越ながら一人の友人として、非常に心配しておりましたところ、今回お手紙をいただき、多少なりとも安心いたしました。


 先日、珍しくかれんちゃんの夢を見ました。余計な事とは思いましたが筆を執り、彼女の姿をカンバスに写しております。完成の暁にはぜひお見せしたく思います。


◆ ◆ ◆


 内容は短いものだった。半年前の悲しみとは、言わずもがなかれんちゃんの死だろう。どうやらこの手紙は彼女の父親に宛てたものらしい。妻も娘も亡くした孤独な男。彼が白い街の夢を創造した張本人だろうか。


 だとしたらこの優という人物は、心底からの同情を寄せる伊勢谷氏をも手にかけたことになる。それほどの絶望。それほどの破壊的な心情。境遇は斟酌に値するが、あまりにも多くを巻き込み過ぎている。


「行きましょう」


 私は言った。そして封筒に書かれた住所を安那さんに告げた。


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