-4- 再訪
早々に帰宅を決め込んだ古戸さんは、安那さんの嫌味を躱しつつタクシーを捕まえ、あとは任せたとばかりに駅へと向かってしまった。残された私たちは、鎌倉にあるゲストハウスを確保し、そこで宿泊することにした。
規模は小さいが、立派な前庭を持つ建物。受付を済ませると、合宿所のような大部屋に案内された。女性専用のスペースではあるらしいが、外国人を含む観光客も同室していて落ち着かない。
ひとまず陽が落ちて眠りやすくなるまでの間、私は畳の敷かれた共有スペースでだらりと過ごすことにした。隣にいる安那さんはボトルで買ったアイスコーヒーを、スポーツドリンクのようにグイグイ飲んでいる。
「安那さんは、古戸さんと付き合い長いんですか」
カフェインの血中濃度がいまだ高い私は、白湯を時折口に含みながら尋ねた。
「恋人なのに、あんまり聞いてないのそういうこと」
「恋人ではないです」
「私が大学を卒業して少しして……、大体五年ぐらいかな? 別に付き合いっていうほどやりとりがあるわけじゃないけど」
「昔からあんな感じですか。その、腕とか」
「腕? 経営手腕?」
安那さんはこちらの意図を掴みかねたようで、軽く眉をひそめた。名状しがたい半身のことは、どうやら知らないらしい。
「……いえ、なんでもないです。雰囲気的なところで」
「あー、それはびっくりするぐらい変わらないね。十八歳ぐらいからあんな感じなんじゃない? 知らないけど」
なんとなく想像はできる。その割に人脈が広いのが不思議なところだ。
「ただ、最近色々と出かけてるって話は私も聞いてるのよ。みこと伯母さんとかからも。だから、昔に比べると活発になったんじゃないかな。由宇子ちゃんみたいな普通の人間と一緒にいるおかげで、真人間に近づいてるのかもしれない。
本なんていう古いメディアにばっかり触れてると、そりゃ陰気にもなるし、不精髭も伸びるし。やっぱり人と会わなきゃ。人と」
安那さんの言葉は、私にとって少し意外だった。古戸さんが他人と関わることで変容するタイプとも思えなかったし、出会ってからの態度はずっと同じに見えたからだ。もしかするとそれは小さい甥っ子の身長のように、久しぶりに接した人だけが感じられる微妙な変化なのかもしれない。
もっとも私が受けている――確信は持てないが、多分プラスではない――影響に比べれば、微々たるものだろうが。
「まあ、ああいう感じだけど、仲良くしてやってよ。私が言うのも変だけど」
「……影響を受け過ぎない程度には」
「そうね。そのくらいがいい」
古戸さんの話を通じて若干打ち解けた私たちは、それから日が暮れるまで、互いの身の上や、仕事のことを話していた。どうやら安那さんはブログ運営のほかにライター業なども手がけており、かなりの収入があるようだった。
私の気分は相変わらず優れなかったものの、膨大な文字を追う作業をしていたときよりは幾分か楽だった。それでも軽い夕食を摂り、シャワーを浴びた午後八時ごろ、私には、強い疲れを感じはじめていた。
すぐに眠れるかどうかは分からなかったが、これ以上なにができるとも思えなかった私は、早々に大部屋の二段ベッドへと潜り込んだ。
◇
白い街は多くの点で普通の夢と違ったが、現実との繋ぎ目は普通の夢同様に判別がつかなかった。気づけばそこは建物の外にある小さな階段で、座り込んだ私は燦々(さんさん)と降り注ぐ陽光に頭髪を焦がされていた。
眼下には石で舗装された道があり、幾度か折り返しながら海へと下っている。建物の白い壁や青い屋根の合間からは、海風に吹かれながらゆらゆらと移動する人影が見えた。
昨日に比べ、その数は明らかに増えている。夢を見た他者に接触したことで、また多くがこの場所にいざなわれたのだ。数日経てば、彼らの何割か――言わずもがな私も――は冥府へと下り、二度と太陽を見ることはなくなるだろう。
この白い街から脱出し、安眠を取り戻すためにはなにをすればいいのか。以前見た少女と、彼女に抱かれていた卵が重要なのは間違いなさそうだが、たとえばそれらを確保したとして、ただ破壊すればなんとかなるものだろうか。
しかし古戸さんと安那さんによって、少なくとも物理的には真相へと近づいた。状況はそう悲観するほどでもないのだ。ひとまず安那さんを探そうと思い立ち、膝に手をついて立ち上がる。
そのとき私は、現実世界でまとわりついていた頭の不快感がなくなっていることに気がついた。こちら側に馴染んでしまっているようで、あまりいい予感はしない。
階段を降りて道を歩きはじめると、正面に安那さんの姿が見えた。向こうもこちらを探していたようだ。にこやかに手を振りながら近づいてくる彼女の顔には、驚異に対する無垢な興奮が見て取れた。
「すごいすごい、話通り。あなた、本当に由宇子ちゃん?」
「そうですよ」
安那さんはこちらの頭からつま先までを舐めるように眺めたあと、おもむろに胸を揉もうと腕を伸ばしてきた。私はその手首を掴み、ひねる。
「いたたたたた痛い痛いイタイ」
「いきなりなにするんですか」
「夢の中だから無茶したくなっ……ごめんごめん、謝るから折らないで」
私は安那さんが狼藉を繰り返さないよう釘を刺し、手首を解放した。なんらかの抑制が解かれると暴走しがちなところは、古戸さんと似ている。
「身体へのダメージがどうなるかは確認してないですけど、体験は共有されてるんです。だからここは夢に似てるけど夢じゃなくて、なにかしらの異世界なんじゃないかと」
「だとしても、現実を模した紛い物ね。自然にできたというよりも、作った感がある。あんまりセンスがないもん。確かに景色は綺麗だけど、見るからに観光地だし、俗っぽいというか」
ひねられた手首をさすりながら、安那さんは改めて周囲を見回した。
彼女が言っていることの意味は分かる。物理法則が歪んではいるものの、この街の景色はやけに具体的だ。やはり当初の印象通り、誰か一人の記憶から再構成されたものだろう。しかしそれがかれんちゃんのものかどうかまでは分からない。
「で、夢を体験してみたはいいけど、これからどうする? コーヒー飲めるとこあるかな?」
カフェインへの執着が強すぎる。探せばカフェぐらいあるかもしれないが、あまり意味のある行為とは思えない。
「かれんちゃんを探してみようかと」
私は言った。
「卵を抱いてたって女の子? それがかれんちゃんなの?」
「確証はないんですけど、そんな気がするんです」
「探してどうするの」
安那さんは眉をひそめた。
「ちょっと話してみたいんですよ」
「でも彼女は死んじゃったんでしょ。幽霊と話してどうなるってもんでもないと思うんだけど」
「それは、そうかもしれないですが……」
無駄だったら無駄だったで――タイムリミットはあるが――別の方法を考えればいい。穴を掘ったり海を渡ったりするよりは、まだしも突破口になりそうな気がした。
行為の意味に疑問を呈した安那さんも、特段の対案があるわけではないらしく、結局は私と一緒にかれんちゃんを探すことになった。
前回は、街を彷徨った末に海岸へと辿り着いた。今度は見晴らしのよい場所に行ってみよう。
戸惑いと非現実感の内にある人々とすれ違いながら、石畳の上を歩いて行く。若い女性、中年の男性、足が悪いのか座り込んでいる老人、夢の中で互いを見つけたのか、手を繋いでいる母と幼い息子。
今は苦しげに見えないが、現実では腐汁に漬けられたような不快感に苛まれているのだ。
街全体でどれくらいの人がいるのか分からない。少なくとも二百人か、三百人か。真奈加もいるはずだが、簡単には見つからないだろう。
私たちは分岐や行き止まり、唐突な空間移動に妨害されながら、少しずつ高さを稼いでいった。道中でも、かれんちゃんらしき姿がないか目を光らせる。
そしてワイン蔵らしき建物の陰で休憩中、偶然に彼女を見つけた。
少女はこの街の中で異質だったが、所在なさげな佇まいは周囲の人々と同じだった。
顔を確認する。やはりかれんちゃんで間違いない。今日は卵を抱いていなかった。私の視線に気づいた安那さんが、ふうん、と声を出す。
「確かに、あの子ね」
私は極力彼女を脅かさないよう、ゆっくりと歩み寄り、名前を呼ぶ。
それに反応して、かれんちゃんがこちらを向いた。あどけない顔ではあるが、どこか空虚な、あるいは超然とした表情でもあった。
「かれんちゃんでしょ? 少しお話できない?」
私の呼びかけが聞こえているのは確かだったが、彼女が返事をすることはなかった。くるりと背を向け、どこかに去ろうとする。
少女を追いかけまわしたくはないが、そのまま諦めてしまうわけにはいかない。私は歩調を速め、ついには走り出したかれんちゃんを追った。
「ちょっと、そういうのまずくない?」
うしろから安那さんもついてくる。
「ここに警察はいないですから……。それに幽霊みたいなもんだって、自分で言ったじゃないですか」
かれんちゃんは一度振り返り、また走るペースを速めた。少しでも離されると厄介なので、私は短距離で勝負をつけようと決めた。さすがにタックルするわけにはいかない。追い越して安那さんと挟み撃ちにするつもりだった。
地面を強く蹴り、かれんちゃんに迫ろうとした直後、私は視界の端に奇妙なものを捉え、柔らかいなにかに足を取られた。
それは地面から生える半透明の腕だった。半透明といっても霧か霞のように朧げな感じではなく、柔らかいゼリーのような質感を伴っていた。腕に見えたのは、関節と手指を備えていたからだ。
はじめ私の膝までだった腕は、あっというまに二、三メートルの長さまで伸び、いくつもある関節をくねらせながら私の進路を妨害した。こうなるともう蹴散らして進むことはできない。指は奇妙な可動域でわきわきと動き、こちらを絡めとろうとしてくる。
「うわっ」
咄嗟に身体をよじって腕を躱し、狭い横道に退避する。一瞬あと、追いついてきた安那さんの悲鳴が聞こえた。
捕まったか? 建物の陰から確認したが、どうやら安那さんもうまく避けたようだ。触手はこちらを執拗に攻撃することなく、地面に引っ込むようにして消えてしまった。
「ビックリした……。今のなに? ギリシャ名物?」
あんな不気味な名物があるものか。
私たちが気を取られていた隙に、かれんちゃんは先の方へ行ってしまった。しかしまだ追いつける。さらなる危険は予期されるが、ここで諦めてはわざわざ眠った意味がない。
「ちょっと、無理しないでよ!」
安那さんの声を背後に聞きながら、私はかれんちゃんを追った。塀を跳び越えてショートカットし、急坂を駆ける。
道の終わりは広場になっていた。逃げる少女の背中越し、たむろする人々の中に、私は古戸さんの姿を見つけた。彼の名を呼び、かれんちゃんを指さす。
Tシャツにトランクス姿。街にいざなわれると分かっているのに、なんでああも気の抜けた服装なのか。いや、そんなことはどうでもいい、古戸さんに指示してすぐ、私はその愚を激しく後悔した。殺人の被害者に対して、加害者と同じような属性の人間をぶつけたのだから。
果たして反応は苛烈だった。
かれんちゃんと古戸さんとの間に、噴き出すような勢いで何本もの腕が生えた。先程は半透明だったそれらが今度は赤黒く濁り、怒りや憎悪を示すように全身を荒ぶらせた。大きくしなり、古戸さんを叩き伏せる。湿った音とともにゼリー状の実体が弾け、あたりに飛沫を撒き散らした。
血に似た液体から顔を庇い、腕を外すと、私の眼前にも多数の腕が出現していた。もはや許されざる敵と認識されたのだ。
右の膝に横薙ぎの一撃。ダメージはそれほどでもないが、不意を打たれた私は、膝を折るような形で転倒した。辛うじて顔面は守ったものの、頭上から激しく追い撃ちされ、すっかり防戦一方となる。
亀のような姿勢になって耐える私の耳に、広場にいた人々の悲鳴が届いた。やがてそれは遠くなり、降り注いでいた攻撃も止んだ。
次に顔を上げると、赤黒い触手も石畳に飛び散った液体もない。その代わり、景色全てが白く霞んでいた。その直後、私は地面から引きはがされるような浮揚感を覚えた。
――時間切れだ。夢が醒める。
輪郭を失っていく広場の端に、かれんちゃんの姿が見えた。彼女は母親らしき女性と睦まじい様子で寄り添い、ゆっくりと私の視界から消えていった。




