-3- 夢の根を追って
古書堂のある横浜から、バイパス道路を経由して逗子へと向かう。安那さんが乗ってきたという車は、彼女の眼鏡と同じ赤い色のコンパクトカーだった。高級車というわけではないが、以前使っていた古いライトバンに比べ、乗り心地は雲泥の差だ。
最初の目的地は、安那さんが普段出入りしている新聞社だった。ローカルな情報を集めるためには、こういう場所にも足繁く通う必要があるのだという。
道中、私は窓にもたれかかって目を閉じていたが、微睡みが訪れることはなかった。夜になったら、少なくとも眠ることはできるのだろうか。目蓋を貫通してくる陽光に顔をしかめながら、逃れようのない不快感に耐える。
時刻は正午。目的地の近くで、一旦休憩を挟むことになった。海沿いのカフェで昼食を摂る……はずだったのだが、このとき私の内臓は、睡眠不足と過剰なカフェインと車の振動によって、名状しがたいヘドロのカクテルと化していた。
とても食事をするどころではない。私は爽やかな風を求め、フラフラと海岸に彷徨い出た。
そこは湘南でも屈指の人気を誇る広い砂浜だ。ハイシーズンは市の内外から訪れる海水浴客でごった返すようなスポットだが、夏の終わった今この場所を訪れているのは、ウェットスーツに身を包んだサーファー、犬の散歩をしている地元住民、水の冷たさなどものともしない子供たちや、それを見守る保護者など。
昼下がりの穏やかな光景が広がる中、寄せては返す吐き気の波が私を襲う。致命的だったのが浜に打ち上げられた海藻。それのわずかに腐った臭いによって、残っていたなけなしの我慢が底をついた。
私がコンクリートの護岸に手をついてゲロゲロやっていると、背後から誰かが近づいてくる。
「お姉さん、大丈夫?」
私は口元を押さえながら振り返る。それは小学校高学年ぐらいの兄妹だった。兄の方は両手でゴムボールを抱えている。
「ありがとう……。ちょっと、大丈夫じゃないかも」
朝食を抜いたので排出量はそれほどでもない。その代わりきつい胃液の味が口内に残った。
「お水買ってきてあげようか? 救急車呼ぶ?」
心配そうな顔の妹が言った。せっかくなので私は彼女に五百円玉を渡し、自分たちの分も買っていいよとお使いを頼む。保護者に見られたら怒られるだろうか? しかし善行には対価があってもいいだろう。道端で吐いている人間に手を差し伸べられる人間が、現代日本にどれほどいるか。
戻ってきた兄妹と少し日当たりのよい場所に移り、一緒に休憩する。胃を空にして水分を補給すると、気分はいくらかましになった。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
改めて兄妹に礼を言ったあと、私は尋ねた。
「このあたりで、寝不足だったり、見えないはずのものが見えたりする人って増えてる?」
兄の方はきょとんとしたが、妹の方には反応があった。
「それって呪いのことかも」
「呪い?」
「半年前に隣の学校の女の子が殺されたの。その女の子が夢に出てきて、その夢を見た子は死んじゃうんだって。友達が噂してた」
半年前。今起こっていることの発端にしては早すぎるような気もするが、夢という共通点は無視できない。もし白い街の夢が殺された少女の呪いだとすると、どうやって原因を断てばいいのだろうか。
「その女の子って、卵持ってなかった? そのボールぐらいの」
私は重ねて尋ねたが、それに対応する反応は芳しくない。
「卵? 分かんない」
ほかにも色々と探ってはみたものの、彼女が知っているのはごく漠然とした噂程度のもので、詳しい情報は得られなかった。隣の学校とやらの関係者にインタビューすればもっと分かることもあるのだろうが、セキュリティや個人情報保護にうるさい昨今、あまり現実的な手段ではない。
しかし子供が殺されたというのが真実ならば、確実になんらかのニュースにはなったはずだ。これから行く新聞社で、その情報も探してみよう。
「お姉さん、ちょっと元気になった?」
コーラの缶を飲み干した兄がけふっと息を吐く。
「うん。ありがとう。ジュースのこと、お父さんお母さんには秘密ね」
そうして私は親切な兄妹に別れを告げ、古戸さんたちが食事を終えるまで、砂浜をぶらぶらと歩いて時間を潰した。少しはカロリーを摂っておくべきかと思い、コンビニでゼリー飲料を買う。
三十分ほどしてからコンパクトカーのところまで戻ると、間もなく二人が店を出てきた。
「気分どう? 由宇子ちゃん」
「少しよくなりました」
「新聞社はすぐそこだから、もうちょい我慢してね」
車に乗り、再び新聞社を目指す。やがて逗子の中心部を少し通り過ぎたところに、小さな社屋が見えてきた。建物の前には〝東斗新聞〟と記された看板があり、社用車と思しき白いセダンが二台停められている。
その横に車を置き、安那さんに従って新聞社へと入る。古戸さんが静かなので様子を見ると、私よりやや遅れて吐き気に襲われているようだった。
到着する前はもっと大規模な会社を想像していたのだが、よくよく聞いてみればローカル紙を発行する編集部の離れ小島で、オフィスにも数人の記者が在籍している程度だった。
全員が安那さんの顔見知りであるらしく、目つきの悪い私と古戸さんを不審人物として警戒しながらも、特に深く詮索することなく資料室に通してくれた。
「じゃあ、こっちは任せてもいい? 一通り聞いたら合流するから」
安那さんは記者たちに直接話を聞き、私たちは資料を漁ることになった。金属の書架にびっしりと詰まった新聞のバックナンバーは、ざっと数十年分か。電子化されていれば楽なのだが、残念ながらそうではないようだ。
「古戸さん、新聞の上に吐かないで下さいね」
「まあ僕の場合、文字を見つめていた方が気分は楽になるだろう」
先程海岸で聞いたことについては、既に共有してあった。睡眠不足や夢に関する死、事件については古戸さんが、半年前に起こった殺人については私が調べることになった。
「死んだ人間の呪いって、実際にあるものなんでしょうか」
膨大な記事を流し見ながら尋ねる。
「なくはないけどねえ。でも一年に何人の人間が死んでると思う? そりゃ一個一個は不幸だし、恨みが強いケースもあるだろう。
でも死ぬことはもちろん、殺されることも――現代日本ではともかく――普遍的な出来事だよ。単独でこれほど強い影響を及ぼすケースがあるかというと、どうだろうね。平将門クラスにならないと」
言われてみれば確かにそうだ。利用者の多い駅、介護施設、病院、刑務所、普通の住宅街だって日々人は死んでいる。今だって世界中で戦争や紛争があるし、前の世紀はもっと派手にやっていた。
その一人一人に、殺人事件の被害者と同じくらいの恨みや無念がなかったと決めつけることはできない。
「でもたとえば数が集まるとか、生きてる人間が干渉したりすると、ときたま変なことになる。鎮魂や葬儀っていうのは、そういう万が一を防ぐための役割も果たしてるのさ。
もちろん、生きてる人間に対してもだよ。この人はちゃんと死んだから、変なことをしないように、って納得させるための儀式でもある」
「へえ……」
薄暗い資料室で、古戸さんの陰鬱な講義を聞きながら紙をめくる。頭の回転が鈍っているせいで、文章が思うように読めない。それでも指で文字列をなぞったり、呪文のように音読したりしながら、情報を処理していく。
三、四十分くらいは経っただろうか。私は半年ほど前の地方紙に、逗子で発生した殺人事件の記事を見つけた。同じ時期に発行された複数の媒体にも、それに関する記載がある。事件の概要はこうだ。
被害者は軽部かれん。当時の年齢は八歳。ある日学校から帰らず、両親が警察に通報したところ、二日後に遺体が近くの雑木林で発見された。犯人は地元に住む三十代無職の男。いたずらしようとしたが、抵抗されたので殺した、というのが犯行の動機。
そこをとっかかりとして、さらに続報を漁っていく。
罪状は殺人と死体遺棄。検察の求刑は懲役二十年で、判決は十八年。被告は控訴せず、そのまま結審した。余罪が追及されたり、遺族が事件を起こしたりといったことはなかったようだ。
確かに、痛ましい事件ではある。しかし似たようなことは毎年のように起こっている。この記事から、なにか呪いを撒き散らすような要因は見て取れない。薄黄色の卵やそれに関連する情報を探してみても、それらしきものはない。
しかし一つだけ、有用な手掛かりを得ることができた。かれんちゃんの顔写真だ。それは解像度の低い小さなものだったが、彼女の顔を正面から捉えていた。
夢に出てきた少女の顔を私ははっきりと記憶していなかったが、もし次に会うことがあれば、彼女がかれんちゃんかどうか判断できるはずだ。もちろんそのためには、もう一度あの白い街に行く必要がある。
ほどなくして、古戸さんも手掛かりを掘り当てた。
「伊勢谷郷。彼がおそらく最初か、それに最も近い犠牲者だろう」
市内に在住している画家の伊勢谷氏は、自宅の浴室で倒れているところを家事代行の女性に発見され、間もなく死亡が確認された。
伊勢谷氏は数週間前からたびたび不眠を訴えていたことが、女性への取材で分かっている。伊勢谷氏は県内で活動する油絵画家で、大学教授なども務めた経歴を持つ。
年齢は八十七歳。それを考えればただの病死という可能性もなくはないが、やはり不眠というワードが引っかかる。
「有名人だったなら、きっと住所も分かる。安那さんに聞いてみよう」
結局、私たちは二時間以上も資料室に籠っていた。薄暗い部屋を出ると、そこには若い女性の事務員が一人だけ。安那さんの居場所を尋ねると、おそらくお茶に行ったのだろうとのことだった。
「楠田さん、よく覚えておくといい。これが社会における労働力の搾取だ」
古戸さんは文句を言ったが、どこか慣れている風でもあった。私たちは彼女の帰りを待たせてもらいながら、今後の方針について話し合った。
安那さんが戻ってきたのはそれから十五分ほどあとのことだった。差し入れとして買ってきてくれたフルーツゼリーを食べながら、私と古戸さんは資料室で得た情報を彼女に提供した。
「この伊勢谷さんは、オカルト界隈で有名な人だったりするんですか?」
「少なくとも私は知らないなあ。住所は調べればすぐに分かると思う。とりあえず行ってみる?」
時刻は午後三時。家族が在宅しているかどうかはともかく、訪れるのに失礼な時間ではない。安那さんが確認したところ、車で五分もかからない場所にあるようだ。
「案外早くカタがつくかもね」
彼女は袖をまくってやる気を示す。
「安那さん、これ、記事にするの?」
古戸さんが尋ねた。
「もちろん。問題ある?」
「いいや。でも実体験までしといた方が、文章を作りやすいんじゃないかと思ってね」
「なに、私にも夢を見ろってこと?」
「ただのアイデアだよ。とっとと済ませたければそれでもいい」
「んー……」
安那さんは細い腕を組んでその提案を吟味した。主張には一理ないこともないが、私はどうしても邪な思惑を疑ってしまう。というか普通に命の危険がある事象に巻き込もうとしているが、それは今更ということだろうか。
「まあ、古戸君の提案だと思うと気に喰わないけど、そういうのもアリかもね。由宇子ちゃんは大丈夫?」
「安那さんがいいなら構わないですが」
「伝染するなら、近くで寝た方がいいのかな? ちょっとホテル探してくる」
判断もそうだが、方針が決まったあとの行動も速い。彼女はスマホを片手に立ち上がり、意気揚々とオフィスから出ていった。
「古戸さん、あの提案、なんか意味あるんですか?」
その背中を見送りながら、私は尋ねた。
「ただの腹いせ。……というだけでもない。ちょっと思い出してウチで調べたいことができたもんだから」
「え、じゃあ私だけで安那さんと泊ることに」
「そうなるね。彼女はきっと女性もいけるだろうけど、さすがにベッドは別々にしてくれるはずだ。そもそもの話、近くにいる必要もないのかもしれないけどね。せっかくだから、ブロガーとしてお金を稼ぐコツでも聞いてきたら」
「えー……」
無責任だとは思いつつ、残ってくださいとも頼みたくなかった私は、渋々その役割分担を了承した。




