-2- 安那
翌朝の目覚めは最悪だった。普段より長く寝たにも関わらず、私の頭には前日の疲労が色濃く残っていた。脳内で腐敗したなにかが、有毒な汁を滲ませているかようだ。単純な眠気とはまた違った辛さがある。
半ば無駄だと思いつつ再び目を閉じ、取り損ねた休息を取り返そうとしたが、数十分横になっていても、不快な覚醒感がちくちくと頭蓋をつつくだけだった。
私は眠りを喪失したのかもしれない。しかしそれがなにを意味するのかはまだピンとこない。
さらに十分ほどしてからようやく観念し、身を起こす。時刻は九時前。古戸さんは起きているだろうか。店の電話ではなく、彼個人のスマホにメッセージを送る。
〈すみません。今日ちょっと体調が悪いので、仕事をお休みさせてください〉
それほど間を置かず、返信があった。
〈僕も珍しく体調が悪い。ところで、今何時?〉
私は古戸さんが夢の中で提案した合言葉を思い出す。スマホの画面には常に現在時刻が表示されているはずので、この質問が偶然発せられることはありえない。
〈七十二時〉
メッセージを送る。
〈多くない?〉
〈そういうのどうでもいいんで〉
〈OKOK 古書堂来られる? 今後について話したいんだけど〉
〈分かりました。じゃあ一時間後に〉
〈なんだか熱もあるような気がする〉
〈それは裸で寝たからじゃ?〉
真面目に考えるのが面倒なので、つい投げやりな文章になる。
ともかく、古戸さんも夢のことを認識していた。これで白い街がただの不思議な夢ではなく、複数の人間が体験を共有できる、なにかしらの異世界だということが分かった。
そこがどんな場所なのか、なぜそんな場所に転移する羽目になったのかは分からない。しかしなにもしなければ、健康な睡眠を奪われたまま、じりじりと死に向かっていくことだろう。真奈加のケースを考えれば、猶予はあまりなさそうだ。
外出の準備には普段より時間がかかった。効率よくルーチンをこなす能力が低下しているようだ。顔を洗って鏡を見たところ、目つきや血色がかなり悪くなっている。まだ薄化粧でも正視に耐える程度のはずだが、そもそも繊細な化粧をする気力もない。
結局、家を出たのは十時半ごろ。屋外の明るさがやたらと暴力的に感じられた。真奈加はきっと今の私以上に酷い状態で電車通勤し、仕事をこなしていたのだから、本当に大したものだと思う。あるいは社会人なら当然備えるタフネスなのだろうか。
目的地が近いのはせめてもの救いだった。普段使っている道を通って商店街を横切り、滴水古書堂までやってくる。いつもならば既に営業時間中だが、店舗の入口には休業中の札がぶら下がったままだ。私は預かっている合鍵を使って中に入り、姿を見せない古戸さんを呼ぶ。
居間の方から、入ってくるよう促す声が聞こえた。靴を脱いでそちらへ向かうと、ノートパソコンのモニタをじっと見つめている古戸さんの姿があった。
私は積まれている本の山を崩さないよう、古戸さんの対面に腰かけた。漆塗りのテーブルに肘をつき、体重を預ける。
「おはよう」
古戸さんはモニタから目を外さずに言った。普段から顔色が悪いので分かり辛いが、その声にはやはり、普段とは違う種類の疲労が滲んでいるようだった。
「なにを見てるんですか」
「連絡を取ってるのさ」
「誰と」
私が尋ねると、古戸さんはノートパソコンを反転させ、モニタを私の方に向けた。
うねる触手のようなものが描かれた黒い背景に、極彩色のロゴ。国内外の新聞記事、論文、画像、動画が引用・紹介され、独自の注釈がつけられたブログだった。カテゴリは様々だが、どの記事にも怪奇やオカルトといった共通の要素があるようだ。
ページのトップには〝メヒコーマ〟とある。ブログのタイトルだろうが、意味は分からない。
「見たことある? このサイト」
私は首を横に振った。
「知り合いが運営してるんだ。彼女は僕にない情報網を持ってる。アドバイスを貰おうと思って、さっきメッセージを送った」
「女性なんですか?」
「うん。みことのバアさんの姪だ。苦手なタイプなんだけど、背に腹は代えられない」
鎌倉で薄命堂という古本屋を営むみことさん。私は奇妙な魔導書を巡る事件で一度、その後も仕事で二度ほど会っていたが、姪がいたというのは知らなかった。
果たしてまともな人だろうか。
「それはひとまず置いておいて、改めて情報を――」
私が切り出したとき、インターホンが鳴った。来客のようだが、古戸さんは立ち上がる気配を見せない。
「面倒だ。居留守を使おう」
あまり褒められた態度ではないが、今の状況ならそれも仕方なしか。
しかし客は諦めることなく、二度三度とインターホンを鳴らす。
「古戸くーん? 入るよー」
若い女性の声だった。古戸さんは心当たりがあるような顔をした。客人はこちらの返答を待つことなく玄関ドアを開け、慣れた足取りで居間に姿を現した。
「なんで出ないの」
腰に手を当ててこちらを見下ろす女性。年齢は私と古戸さんの中間ぐらいだろう。ゆるくウェーブのかかった長い髪、赤い縁の眼鏡、黒いストライプのロングスリーブと薄い色のジーンズが、ほっそりとした身体によく似合っている。
「言っただろう。体調が悪いんだよ」
ふん、と鼻を鳴らした女性は、そこではじめて私に気づいたようだ。腰をかがめて鼻先を近づけ、その琥珀色の瞳で私の目を覗き込んだ。
「古戸君の恋人? 若いね~」
急に距離を詰められた私は面食らい、咄嗟に反応できなかった。
「二月からウチで働いてる楠田さんだ」
「へぇ……、こういうタイプが好きなんだ」
「聞いてる? 僕の話」
古戸さんが困っている。元気な状態であれば珍しいなと面白がるところだが、今はあまりそうしている余裕がない。
「どうも、藤安那です。安いに那覇市の那であんな」
目の前に差し出された手を握る。指は細いが力強い手だった。藤という苗字からして、彼女が先程のブログを運営している女性なのだろう。連絡を受けてから古書堂を訪れるまでのスピードに、行動力とエネルギッシュさが現れているような気がした。
「古戸君、コーヒー淹れていい?」
「ああうん。僕の分も、薄めで。楠田さんも飲む?」
「いただきます」
「じゃあ三人分」
「はいはい」
すたすたと台所に消えていく安那さんの背を見ながら、古戸さんが小さくため息をついた。
「ああいう感じだ。距離感の掴みづらい人だけど、ちょっと勘弁してあげて欲しい」
「アドバイスを請う立場ですし、別に……」
事実、この数か月で出会った個性の強い面々と比べれば、安那さんはまだしも常識的に見える。もっともそれは初対面の印象に過ぎないので、実際はもっと破天荒な人なのかもしれない。
五分後。淹れられたコーヒーは地獄のように黒かった。安那さんの好みで、これでもオーダー通り薄めであるらしい。古戸さんによれば、彼女は常人なら致死量に達するほどのカフェインを日常的に摂取しているとのことだった。
地獄のコーヒーは当然悪魔のように苦かったが、ミルクを入れればなんとか飲めた。頭の不快感が払拭されるには至らないものの、その味と香りで、多少思考が滑らかになったような気はした。
「はい、じゃあ事情を説明して」
三人でテーブルを囲み、白い街の夢に関する情報を共有する。
「概要は大体連絡した通りだ。僕はまずみことのバアさんから聞いたんだよ。本人じゃなくて、茶飲み友達が何人か、変な夢を見てるってね。ちょっとアンテナに引っかかる部分があったから調べてた」
「みこと伯母さん、なんで私に相談しなかったのかな」
「すぐ記事にされると思ったんだろう。僕の方が信頼されてる」
「どうだか」
「今日あたり、その夢を見た人に話を聞いてみようかなとも思ってたんだ。当の僕が夢を見る羽目になったのは……手間が省けたと言えば省けたけど、こんな体調になるのはちょっと想定外だったね」
脳や自律神経への直接攻撃は、古戸さんでも辛いらしい。
「もっと想定外だったのが、楠田さんも同じ体験をしたことだ。夢の中で偶然出会って気づいたんだ」
夢の中で出会ったという言葉はロマンチックだが、実際は全裸の古戸さんが海面か出没したのだから、情緒もなにもあったものではない。
水を向けられた私は、真奈加のこと、ほかにも同じような事例が多くあるらしいこと、そして古戸さんが伝え漏らした、卵を持った少女のことを話した。
話を聞くにつれ、安那さんの表情は徐々に真剣味を帯びていった。赤い縁の眼鏡の奥で、情報と情報を繋ぎ合わせるように、目をくるくると動かしている。
「その真奈加ちゃんっていうのは、東京の人?」
「いえ、勤め先は東京だと思いますけど、住んでるのはこのあたりです」
その言葉に安那さんは表情を渋くし、私たちが知らない事実を語りはじめた。
「これはまだ記事にしてないけど、今の話と関係するかもしれない」
彼女は身を乗り出して、内緒話をするように声を低くした。
「ここ二週間ぐらいかな。逗子鎌倉あたりでね、不審な死が報告されてるの。詳しい死因は不明だけど、彼らは一様に精神錯乱を呈してたみたい」
「報告って、どこから」
「ま、独自の情報網でね。とっかかりはSNSが多いかな。ただ、それは今のところ重要じゃない。ニュースバリューとして大きいのは、彼らもまた白い街の夢を見ていたのではないかということ。そして一過性のものではなく、範囲を広げて出現していること」
「つまり、夢は伝染している」
古戸さんが言うと、安那さんは眼鏡を煌めかせた。
「そして、おそらくは致死的である」
場に少々の沈黙。私はコーヒーを一口飲んだ。死の可能性について一応は認識していたものの、改めて言葉にされるとさすがに気が重くなる。
「伝染するって言っても、まさか菌とかウィルスで伝染るわけじゃないですよね」
「そうだなあ……」
古戸さんは不精髭の伸びた顎を撫でた。
「似たようなものではあるだろう。白い街の夢という情報子それ自体が感染因子なのかもしれないな」
「余裕ぶっちゃって。目下大事なのは伝播のメカニズムじゃなくて、死なないようにする方法でしょうが」
安那さんが呆れたように言う。
「元凶を断てばいい、ってことですか?」
「そういうことになるかな。そのために私を使うつもりだったんでしょ? いつか埋め合わせはしてもらうからね、古戸君」
「ノリノリで来たくせに」
小言を鼻息で受け流し、安那さんは人差し指でテーブルを叩く。
「夢が同時多発的に生じたのでなければ、最初に夢を見た人間がどこかにいるはず。その周りを洗えば、原因に辿りつけるかもしれない」
「でも、逗子鎌倉ってだけだとかなり広いですよ。誰が夢を見たのかっていうのも、外からだと分からないし」
「そこは心当たりがあるから大丈夫。でも由宇子ちゃん……」
「はい」
「やけに物分かりよくない? 伊達にここでバイトしてないわ」
ははは、と疲れた笑いが漏れる。
「悪いけど安那さん、運転は頼んでいいかな。この状態で運転したら、衰弱死する前に交通事故死しそうだ」
「どうせそういうことになると思ったから、車で来たの。ゆっくり居眠りでもしてなさい」




