-1- 白亜の街
友人の真奈加が事故に遭ったと聞いたのは、残暑も和らぎはじめる九月下旬のことだった。
私と彼女は高校・大学の同期であり、つい三か月前には、共通の友人を訪ねるため熱海まで行ったばかりだ。結局その友人に会うことはできず、狂暴な吸血鬼に追い回される羽目になったことも記憶に新しい。
真奈加は春から都内の食品会社に勤務しており、事件のあとも日々忙しく働いていた。頻繁に連絡を取っていたわけではないが、元気にやっているだろうと思っていたので、本人から事故の報告を受けたとき、私は少なからずショックを受けた。
幸い、大した怪我はしていないらしい。しかし頭を強く打った疑いがあり、精密検査のため入院することになったようだ。
連絡を受けたのが朝の九時ごろ。古戸さんにそのことを話すと、午後は早めに上がっていいと言われた。私は厚意に甘え、彼女の見舞いへ行くことにした。
手土産として自宅から三冊ほどの文庫本を持ち出し、地下鉄に乗って病院へと向かう。駅からそう遠くない場所にある市立の総合病院は、平日の昼間にも関わらずかなりの混雑を呈していた。地元の整体院や内科医院とは違って、若い患者も多い。
私は総合案内で面会希望を伝え、入院患者のいる病棟に立ち入った。ナースステーションに寄って面会許可証を受け取り、病室を探す。
真奈加がいたのは四人用の大部屋だった。白い壁紙に木目調の家具。カーテンの隙間から、患者服に身を包んだ彼女の姿が見えた。半ばまで起こした電動ベッドに横たわり、目を閉じている。
「真奈加……」
私が声をかけると、彼女はゆっくりと目を開いた。大きくあくびをして、こちらに微笑みかける。
「おはよう」
「おはようはいいけど……。大丈夫?」
「ごめんね~、ビックリさせちゃって」
点滴に繋がれているわけでもなければ、手足にギプスが嵌められているわけでもない。本人の報告通り、怪我はそれほど酷くないらしい。
しかし私は外傷の程度よりも、彼女の様子が気になった。顔全体には疲労が滲み、表情もどこか弛緩している。メイクをしていないせいでもあるが、目の下には濃いクマが浮き出ていた。
溌剌とした普段の印象に比べると、かなり調子を崩しているように見える。胸も心なしか凹んでいるようだ。
「事故ったって言ってたけど、どう事故ったの」
「なんか仕事帰りに幻覚が見えてさぁ」
……幻覚? 私はその言葉に虚を突かれたが、今現在、彼女が錯乱している様子はない。ひとまず話を聞くことにする。
真奈加が話すところによると、彼女は数日前から不眠に悩まされていた。眠れなかったり、途中で目が覚めたりするわけではなく、いくら眠っても寝た気がしないのだという。不快感は日中も残り、カフェインも気休め程度にしかならない。
はじめは病院に行こうとも考えなかったが、仕事の能率が目に見えて下がったため、上司に受診を勧められた。うつ病かなにかを疑われたのだろう。
仕事を早退し、事前に調べた心療内科に向かった。その途上、現実の景色と、別の街の情景が重なったように見えた。それに惑ったせいで車道にまろび出て、軽自動車に接触したらしい。
「街?」
「そう、白い街」
「それが幻覚?」
「う~ん、幻覚というかなんというか……」
どうにも要領を得ない。さらに話を聞いていると、真奈加は幻覚に先立って、奇妙な夢を見ていたのだと話した。繰り返し繰り返し、同じような夢、同じような景色を。彼女はあまりに生々しく現実感のあるその街をしばらく彷徨い、翌朝ぐったりと目覚めるのである。
精神疾患にしても聞いたことのない症状だ。私は夢分析の専門家ではないので、その白い街とやらがなにを意味しているのかも分からない。
とりあえず、持参してきた本を渡す。あまり考えずに読める種類のものだが、集中力が低下している人間への土産としては不適当だったかもしれない。
「あと、看護師さんが話してるのをちょっと聞いちゃったんだけど」
真奈加はさらに話す。
「不眠とか幻覚とか、最近やたら多いみたい。みんな同じような夢見てるんだって。変な病気だったらやだなあ。寝れないって辛い……」
患者同士の無責任な噂ならともかく、スタッフが話しているというのは不穏な感じがする。多いというのはどれくらいなのか。同じというのはどういう点でなのか。
私は意味のある偶然の一致という単語を思い浮かべるが、この現象がそうだとして一体なんなのかは検討もつかない。
「とりあえず休暇だと思って、ゆっくり休んだら」
「休めないから困ってるのに」
失言だった。素直に詫びる。
とはいえ、今のところなにができるわけでもない。話すことで彼女の不安を和らげ、慰めることがせいぜいで、有用なアドバイスも思いつかなかった。私は一時間ほど病室に滞在したあと、なにか困ったらいつでも頼ってくれと言い置いて、その日は病院をあとにした。
◇
真奈加が遭った事故は不幸だったし、病室で語られたエピソードは不可解だったが、彼女を見舞った時点での私は、それが自身に深く関係するとは考えていなかった。
実際に、白い街の夢を見るまでは。
真奈加の回復を祈りつつ家に帰った晩、私はいつもより少しだけ早くベッドに入った。元々入眠にそれほど苦労するタイプではなく、この日もおそらくはすんなりと意識を手放した。
私が次に目を覚ましたとき、そこは石畳の広場だった。
鮮烈と言えるほどに青い空からは乾いた日差しが降り注ぎ、地面の石や周囲の白い漆喰に反射して、目に痛いほどの輝きを放っている。
数度瞬きをしながらあたりを見れば、四角い広場は密集した白い建物に囲まれている。平らな屋根のものも多いが、青く丸い屋根を備えているものもある。それらが広い範囲の斜面にへばりつくような形で、秀麗な市街を形作っていた。
眼下に見える瑠璃色の海からは、潮の香りを含んだ温かい風が吹く。おそらくここは島か半島の先端だ。日本でないのは間違いない。
夢の中にあって、このようにはっきりと物事を知覚し、詳細な観察・思考ができるのは不思議な感じがした。真奈加の話がなければ、私はこれを美しい夢として、虚心に味わうことができただろう。
しかし私は既にナイーヴでない。この夢がなにか奇妙で不穏な、そしておそらくは害を為すものあろうことを知ってしまっている。
悪い夢を見て、それが悪い夢かもしれないと自覚したとき、私はぎゅっと目を瞑って覚醒を試みる。大抵はうまくいくのだが、このときは失敗に終わった。
どうしたものかとしばらく佇んでいても、なにかが起こる気配もない。空を飛ぶことも、手から気弾を放つこともできない。現状景色が綺麗なだけで、起伏やドラマ性に欠けた夢だ。
ただ待つのにも飽きた私は、広場を出て街中を歩きはじめた。そうしながら、気づいたことをいくつか心に留めておく。
私の服装。これは部屋着兼、寝間着兼、トレーニングウェアのジャージ。普段使っているもので、寝ていたときにも着ていたものだ。特に変わったところはない。裾のほつれも現実通り。
街を歩いている人。見た限り日本人しかいない。そしてTシャツだったりスウェットだったりという小さな違いはあるものの、ほとんどの人間は寝間着のようなものを身につけている。話しかけてみる勇気はなかったが、彼らもまた慣れない場所で困惑しているように見えた。
そして道。私も方向感覚のある人間ではないが、どう考えてもこの街は物理法則を無視して空間が接続されている。
階段が壁の中に消えていたり、斜面を登っていたと思ったら降りていたり、構造物の内部に入ったと思ったらそこが広場だったりする。この一点だけを見ても、やはりここは夢の中か、少なくとも私が普段暮らしている世界とは違う場所だ。
白い街を三十分ほど歩いていると、図らずも海岸に出た。いわゆる南国のようなビーチではなく、ゴツゴツした火山岩と灰色の砂から成る、どこかうら寂しさのある場所だった。
それでも私同様ここに辿り着いた迷い人は多いようで、ざっと十人ほどが所在なさげに佇んだり、座り込んだりしていた。
美しい海。乾いた風。白い建物。それらの環境や景色は、地中海やエーゲ海といった地名をイメージさせる。私はそんなお洒落な場所に行った記憶はない。これが夢だとしたら、誰の記憶から再構成されたものだろうか?
私がぼんやりと水平線を眺めていると、手前の海面が前触れなく盛り上がった。出現したのは、海藻のような濡れ髪を額に貼りつかせた人間。見知らぬ場所にあって、嫌という程見慣れた存在。
全裸の古戸さんがそこにいた。
腰まで海水に浸かった彼は、やたらと鼻につく仕草で髪をかき上げた。滴る水が不健康に痩せた身体を伝う。それからはじめて全裸であることに気がついたようで、口を曲げるような表情をして腕を組んだ。
「地中海に楠田さんとは、面白い組み合わせだね」
ぼうっとしていて逃げ遅れた。不審者が話しかけてくる。
「はあ」
「全裸で寝るとこんなに爽やかな夢が見られるなら、毎日でも続けてみるべきかな」
「全裸は関係あるんですかね……」
古戸さんがざばざばと海から上がってくる。私は男性の裸に過剰反応するようなタイプではないが、さすがに直視は憚られた。彼は斜面に貼りついた市街を眺め、ふーんと唸る。そういえば、いつもの眼鏡を身につけていない。
「ここって、どこなんですか」
「ん? 景色からすると多分、サントリーニ島だろう。ほらあそこ、ギリシャ国旗がある」
指さされた場所を見ると、確かに青と白の国旗がたなびいている。私がそうしている間に、古戸さんは足元の砂をいじったり、周囲の人に話しかけようとして逃げられたりしている。
三人目に逃げられてから、古戸さんはとぼとぼと戻ってきた。
「合言葉を決めよう」
「はい?」
古戸さんの意図が掴めず、聞き返す。
「ここにいる君が幻影でないということを、現実世界で確かめてみたい」
こちらの実存を疑うような言動からすると、彼もまたこの場所を夢であって夢でない場所、として認識しているような気がした。
「例えばそうだな。楠田さんが僕に対して、昨日どんな服を着て寝たか、というのを質問するというのはどうだろう」
「私が変態みたいなので嫌です」
「そうか……。まあもっとシンプルなのにしよう。僕が楠田さんに現在時刻を尋ねる。そしたら三十六時とか五十二時とか、とにかくあり得ない時刻を回答してくれ。これくらいなら恥ずかしくない」
合言葉での確認が最良なのかは分からないが、試すだけなら大した手間はない。直感としては、目の前の古戸さんも、単なる夢の登場人物ではなさそうだ。
「……分かりました」
「よろしい。じゃあ、どうするかな」
「まず服を着ません?」
「あー……、そうだね。君が本物なら、局部をアレしているのは失礼か」
しかし私のジャージは貸したくないし、周囲の人々から奪うのも気が引ける。仕方なく民家の庭先に侵入し、干してあったシーツを拝借した。
それを腰に巻いた古戸さんは、彫りの深い顔立ちも相まって、古代ギリシャの哲学者みたいに見えた。道行く人に論戦をふっかけて嫌がられ、最後は放逐されるか処刑される種類の哲学者だ。
古戸さんのアレした局部を隠したあと、私たちは海岸を離れて市街に戻った。その道中、私は入院した真奈加から聞いた話を共有する。驚いたことに、古戸さんも似たような別の事例を見聞きしていた。
「そして今や我々も、白い街に迷い込んだ。条件はなんだろう? タイムリミットは?」
「タイムリミット?」
「人間は寝ずに何日も活動できないよ。そうなれば現代医学に為す術はない。何週間かかけて廃人になるか、どこかでコロッと死んでしまうか」
確かにそうだ。たかが夢、たかが睡眠と侮ることはできない。いつか心理学のテキストで見た断眠実験の最高記録は八日ほどだったか。ネズミは二週間で死んだという話も聞いたことがある。真奈加は三日ほどで前後不覚状態になった。
古戸さんは目を細めて、広場を横切る人々を見遣る。
それを追った私の視線は、一人の少女に留まった。年齢は八歳か九歳ぐらい。少女自体が珍しかったわけではない。それくらいの年齢の子供はほかにも見た。気になったのは彼女の服装と持ち物だ。
街で見たほぼすべての人間が寝間着や部屋着姿でいる中、この少女が身につけているのは灰色のワンピースだった。そういう格好をして寝る人間がいないとは言えないが、普通は考えられない。
変わった点はもう一つある。彼女は一抱えもある大きな卵を抱えていた。薄黄色のそれは、ふわふわしたぬいぐるみでも枕でもなく、硬い殻に覆われた本物の卵に見えた。明るい屋外ではよく分からないが、内部が薄ぼんやりと光っているような気もする。
少女は私や古戸さん、そして街を彷徨う人々とは明らかに異質な存在だった。
私がゆっくりと歩み寄ると、彼女もこちらに気づいた。しかしその直後、怯えたような顔で踵を返し、卵を抱いたまま走り去ろうとする。
「あ……、ちょっと」
私は逃げる少女を追った。彼女はこの場所についてなにか知っているかもしれない。
白い壁に挟まれた路地、見晴らしのよいテラス、十字架を戴いた教会、小さな青い扉、鮮やかな紅の花が咲く庭。石畳を踏み、壁を乗り越え、ぼんやりしている人々を避け、ときには軽く突き飛ばし、街を駆ける。
少女の脚は決して速くなかったが、彼女は街の歪みをものともせず、すいすいと距離を稼いだ。一方の私は、不自然な行き止まりに阻まれたり、突然現れた段差で転げ落ちそうになったりして、中々追いつくことができない。
やがて私は少女の姿を完全に見失ってしまった。十分以上走り回っただろうか。額に浮いた汗を拭い、大きく息をつく。
あたりを見回せば、はじめに立っていた広場だ。遠回りした挙句、元の場所に戻ってきたことになる。
徒労を募らせた私は適当な場所に座り込んだ。やがて古戸さんがのそのそと追いついてくる。腰布がずり落ちそうになっているので、指摘して直させる。
「捕まえられた?」
「いえ……」
あの卵はなんなのか。それを抱いている少女は誰なのか。現実に存在する人間なのか。
広場の片隅に陣取り、二人して首をひねっていると、私は不意に眼前が暗くなるのを感じた。
覚醒の前兆だ。白い街の夢が、無意識の深みに沈んでいくのが分かった。踏み止まろうとしたところで、意志の力ではどうにもできない。私は古戸さんになにかを言い残す間もなく、現実世界へと引き上げられていった。




