-終- 夢のクリスタライザー
伊勢谷氏との交遊は近所ゆえだったのだろう。軽部家もほとんど同じ区画にあった。ゆるやかな坂を登り、数十メートル内陸に入った場所だ。
私たちはそこまで徒歩で向かうことにした。頭も身体も鉛のように感じられ、一歩を踏み出すのにも力を振り絞るようなありさまだが、軽部がこちらにどういう態度を取ってくるのか分からない以上、車で行って存在を気取られたくなかった。
「そういえば古戸さん、昨日調べものするとかって言ってましたけど」
責め苦のようにも思える坂を見遣りながら、私は尋ねた。
「ああ」
「なにか分かったんですか」
「卵の正体について、おそらくこうであろう、というものをね」
そんな重要なことをなぜ早く言わないのか。安那さんがなじる。
「まあまあ。聞こうが聞くまいが、やることはそんなに変わらない」
「で、アレはなんなんです?」
「Revelations of Glaaki 〝グラーキの黙示録〟 イギリスのカルティストたちによって、十九世紀に記された一群の書物があってね。これの一部が偶然ウチに残ってたんで読み返してみたら、それらしい記述があったよ」
眼鏡と落ち窪んだ眼窩の奥で、血走りながらもギラギラと光る瞳は、どう見ても狂信者のそれだった。
「眠りと夢を司る大帝。それにまつわる品の名を、〝夢のクリスタライザー〟という」
「それがあの卵? 水晶には見えなかったですが」
「この場合は結晶化させる、つまり現実にする、というような意味だろう」
夢に力を与えて具現化し、共有可能な世界を創る。巻き込まれた人が夢を見ることで、世界は維持され、強化され、拡大される。もしかすると際限なく。
「まさか欲しがったりしませんよね?」
私はこの夏、奇妙な因習が残る村であった出来事と、そこで古戸さんが手に入れた銅鏡のことを思い出した。
アレは今どこに置かれているのだったか。彼は稀覯本・魔導書・奇書に対してのみならず、得体の知れないアーティファクトに強い興味を示す。場合によって軽犯罪も厭わないのは、先程伊勢谷邸で見せた通りだ。
「これは実のところかなり厄介な物品らしい。コントロールできないものは、手元に置きたくないね」
しかし意外にも古戸さんは肩をすくめ、クリスタライザーを諦めるような発言をした。冒涜的な知識と鋭敏な魔術的嗅覚が危険を感知したのかもしれない。
「確認が済んだら、そろそろ行きましょう」
安那さんに急かされ、重い身体を引きずるようにして、目的地へと歩を進める。
雲のない空から降り注いだ日差しが、コンクリートに反射して白く輝く。いや、これは石畳か。周囲の家々も似たような地中海風の様式で、一種観光地のような街並みを形作っている。
違う。そんなはずはない。目の前に見えている景色はあの白い街のものだ。私は幻覚を見ている。夢と現の境界が曖昧になり、その二つが重なって見えているのだ。軽部家――夢のクリスタライザーに近づいたからなのか。
「うー……。なにこれ、幻覚? 古戸君にも見えてる?」
安那さんはよろけた古戸さんを支え、その頬をぺちぺちと叩いている。彼女は私たちより軽症そうだが、それでも強烈な違和感を体験しているようだ。
一歩一歩、地面を確かめながら足を踏み出す。ともすれば重力の感覚まで怪しい。空気がねっとりと絡みつき、前進を阻んでいるような気もする。
やがて私は白い教会に辿り着いた。もはや幻覚かどうか判別する力も失われつつある。とにかく白い建物がある。扉がある。それを開く。
中は薄暗い。ざらざらした壁に手をつきながら進む。後ろから二人がついてくる。何個か扉を開く。角を曲がる。奥に進む。誰かがなにか言っているが、よく聞こえない。
よろけて転びそうになるが、なんとか耐える。倒れかかるようにして、扉を開く。
そこは薄暗い、小さな書斎だ。書架に収まらない本が床に積まれ、部屋の主を護っていた。それは本好きが造った紙の城だった。年経たページの乾いた吐息が、私の意識をほんの少し現実に引き戻した。
奥には男がいた。柔らかい髪が耳まで伸び、不精髭を生やしている。もともとひ弱そうではあるが、不摂生によって衰弱しているようでもあった。こちらを見る彼の瞳は、強い怯えを示すように細かく揺れていた。
先程まで机に向かってなにかを書いていたらしい。作家だろうか。
「クリスタライザーだ」
古戸さんがぜいぜいと吐く息とともに囁いた。男が背後のなにかを庇うように動いたが、私の目にも、黄色い卵のようなものがちらりと見えた。
「出ていってくれ」
男が言った。奇妙な声だった。昂ぶった感情が喉を締め上げたのだろう。
「僕を放っておいてくれ」
「自分が、なにをしてるか、分かってるんですね」
一方、安堵と疲労と怒りで、私の声は酷く濁っていた。
「ただ、家族といたいだけなんだ」
視界の端に、かれんちゃんと母親らしき女性が佇んでいる。私にだけ見える幻覚なのかもしれないし、触れることのできる実体なのかもしれない。どちらにせよ、これが男の望んだことだ。人々の眠りと正気と命さえ対価にしてあがなった、失われた家族との再会。
「うるさい。いいから卵を渡して」
男の目に、私はどう見えているだろうか。きっと無慈悲で、不条理で、非道な存在に映っているに違いない。しかしそれがどうしたというのだ。それを招いたのは彼自身だ。人から理性と思慮をはぎ取った結果、当たり前のように逆襲されているというだけだ。
彼が娘を失った父なら、私は父を失った娘だ。違うときに出会っていれば、こうはならなかったかもしれない。互いの喪失を埋めはしなくとも、哀しみの中に救いが見つかるような結末があったかもしれない。
しかしそうはならなかった。男が卵を渡すまいと、腕が白くなるほどに強く抱きかかえる。私はそれを力づくで奪い、破壊すべく、本の山を足蹴にしながら一歩一歩近づいた。
「やめろ!」
男が叫んだ。
その途端、四方の壁から、天井と床から、無数の赤黒い腕が湧き出てきた。それは笑い声とも悲鳴ともつかない奇怪な音を立てながら、私の視界を見る間に埋め尽していった。
腕は白い街で見たものよりもはるかにおぞましい形をしていた。表面は爛れた皮膚か、血の滴る肉か、腐りかけた臓物のように見えた。生々しい臭気が鼻から忍び込み、強烈な吐き気を催させた。
クリスタライザーが具現化したのは、愛や思い出といった美しいものだけではない。それらに覆い隠されていたグロテスクな混沌が、眼前の地獄絵図を作り出していた。
おぞましい無数の腕に掴まれ、殴られ、締めつけられながらも、私は力任せに前へと進んだ。おどろおどろしい見た目に比べると、一本の腕が持つ力はそれほど強くなかった。
ああ、これは子供の腕だ。握りの甘さも、狙いの雑さも、ひとえに腕の幼さゆえか。今、私は年端もいかない少女の腕を、父を護らんとする少女の腕を、払いのけ、引きちぎり、踏みしだきながら進んでいるのだ。
はじめ原動力となっていた怒りは嫌悪と罪悪感で削ぎ落されていったが、鍛えた四肢と生存本能が身体を動かした。私は息も絶え絶えになりながら、赤黒の壁を掘り抜き、かき分け、突き破りつつあった。
やがて前に伸ばした腕から抵抗が消え、温かい手のようなものに触れた。咄嗟にそれを掴み、引っ張るようにして、絡まりあった腕から抜け出す。口に入ったねばつく汁を吐き出し、閉じていた目蓋を薄く開ける。
眼前には、まだ卵を抱きながら、小刻みに震える軽部がいた。しかし彼の目線は私のわずか上を向いている。この期に及んで、なにを見ている?
そのとき、それまで場に存在していなかった青白い燐光が、遠いどこかからやってきた異次元の光が、怯え切った男の顔をさっと照らした。
すぐ頭上になにかがいる。直視しなかったのは幸いだったかもしれない。私に見えたのは、頭上のなにかから伸びたらしい、クラゲに似た質感を持つ触手だけだった。先程まで私を殴っていた子供の腕ではない。
数本の触手ははじめゆっくりと漂っていたが、夢のクリスタライザーを感知したような動きを見せた直後、一度完全に動きを止めた。
「やめっ……」
攻撃的な気配を察知した軽部が叫んだ直後、触手が素早く彼の首に巻きついた。そして極めて強い力で、その身体をどこかへ引きずり込もうとした。
どこへ? きっと誰にも分からない場所へ。
その動きはあまりに急で、あまりに容赦がなかったため、私は軽部を引っ張ることもできなかった。とはいえ私には積極的にそうする意味もなかったし、引っ張ったところで対抗できるとも思えなかった。
軽部が抱いていた夢のクリスタライザーはその場に落ちて、重い音を立てた。いく筋かの大きなヒビが入り、その直後にばっくりと割れた。
私は足元のそれに目を落とした。中にはなにも入っていなかった。もしかすると入っていたのかもしれないが、私には見ることができなかった。
気づけば私はその場に膝をついていて、背後にあった赤黒い腕は消えていた。クラゲのような触手も、軽部と一緒に消えていた。
頭痛がする。そして酷く眠い。
古戸さんと安那さんは無事だろうか。首を巡らせて背後を見ると、二人とも床に座り込んでいた。怪我はなさそうだ。
酷く眠い。目蓋を開けていられない。二日分の眠気が一気に押し寄せてきたのだ。身体を支えようとする力も、破れた風船のように抜けていく。
意識が黒く塗り潰される。黒く、黒く――
◇
目を開けると薄暗い部屋にいた。
ここはどこだ。白い街ではない。おそらくは現実。多分、軽部の家だろう。
気づけば、私はリビングにある布張りのソファに身を横たえていた。
大きく息を吸い、吐く。肺で空気の交換が進むと、意識が徐々にはっきりしてきた。
赤黒い腕、青白いクラゲ、引きずり込まれた軽部、砕けた夢のクリスタライザー。直前の情景がフラッシュバックする。
「おはよう」
古戸さんの声とコーヒーの匂いが、私を現実へと引き戻した。身を起こして現在時刻を確認すると、午後五時を回っていた。
この家に辿り着いたのは何時だったか。六、七時間は眠ったはずだ。まだかなり寝足りない気はしたが、昨日、一昨日と悩まされていた不快感はなくなった。
私は腰をねじり、首を回し、強張った筋肉をほぐした。寝返りも打たずに熟睡していたからか、尻が痛い。履いていた靴は誰かが脱がしてくれたようだ。
「安那さんは?」
「車を取りにいったよ」
古戸さんはダイニングテーブルでマグカップを傾けていた。
「それ、この家のコーヒーじゃないんですか」
「そうだよ」
「いいんですか、飲んでも」
「さあ」
私はソファを降り、古戸さんの対面に腰かけた。テーブルの上には、黒ずんだ革装丁の古書が置かれていた。
「グラーキの黙示録だ。彼はこれを読み解いて、夢のクリスタライザーの使い方を知ったんだろう。クリスタライザー自体は、どうやって手に入れたのか分からないけど」
古戸さんがそれを回収することについて、私は今更なにかを言うつもりはなかった。
「クラゲみたいなのに連れてかれちゃいましたけど、彼」
「まあなんかしらの報いを受けたんだろう。人の眠りを奪った罰はなんだろうね。デスメタルを聴かされ続ける刑かな」
あれほど大規模な事象を引き起こすものが、安全に使えるはずはない。眠りを司る大いなる存在とやらが違反を嗅ぎつけて、致命的な使者を寄越したのだ。
「……私があの人の立場でも、使ったかもしれませんね」
「その想像に意味はないよ。君は彼ではないし、かれんは君の娘ではない。彼は僕のような素晴らしい隣人を持たなかったし、カフェイン中毒の知り合いもいない。さあコーヒーを飲みたまえ。僕はこれ以上飲めない」
「嫌です」
私はポケットからスマホを取り出して、SNSを起動した。案の定、大勢の人が街中で眠りこけて、あちこちで混乱が起こっていた。しかしこれは収束の兆しだ。病院にいる真奈加もぐっすりと眠り、元気を取り戻すに違いない。
そういえば、あの手はなんだったのだろうか。最後に私を引っ張ったあの手は。古戸さんや安那さんはうしろにいたはずだし、軽部は卵を抱いていた。
まあいい。多少の不思議があったところで大きな問題ではない。人々が眠りを取り戻したのなら、それでよしとしなくてはならない。
私は残ったコーヒーをシンクに流し、食器を洗った。そして合流した安那さんと三人で、自分たちのいた証拠となるものを丁寧に消した。
その作業に長い時間は必要としなかった。私たちが軽部と対峙した部屋には、砕けたクリスタライザーの欠片も、赤黒い腕の痕跡も残っていなかった。
すべてが夢のように消えてしまった。あるいははじめからすべてが夢だったのか。
かつて家族が幸せに暮らした家。しかしそれを懐かしむ者はもういない。
私はふと、伊勢谷氏が描いたかれんちゃんの肖像を思い出した。あの絵はどこに行くのだろう。誰にも見られることなく処分されてしまうのだろうか。
できれば誰かの目に触れるような、暖かい場所に置かれればいいのだが。そんなことを考えながら、私は空っぽの家をあとにした。
次のエピソードは「一万年の光」を予定しています。




