-10- 手を出してはいけない
古戸さんの体力はその後まもなく限界を迎えた。数度足を滑らせて斜面を転げ落ちそうになった時点でそうと気づくべきだったが、ハンマーで頭部を殴打されても流血のみで済む人間が、体温の上昇程度でダウンするとはあまり想像できないものだ。
道らしき場所に降りてきたとき、古戸さんの顔は真っ赤で、既に発汗すら止まっていた。私は真夏の道場で、これと同じ人間を見たことがある。彼は自力で水を飲むことができず、救急車で運ばれていった。
「うわ、大丈夫ですか?」
呼びかけに対する答えはなかった。私は足をもつれさせて倒れそうになる古戸さんに肩を貸し、数十メートル離れた民家の裏まで歩いて行った。トタンの錆が目立つ古びた平屋建て。
行きはあまり気にかけなかったが、その家に近づくと、うっすらと腐臭が感じられた。廃屋という感じではない。裏で野良猫でも死んでいるのだろうか? 普通の状況ならまず訪ねようとは思わない場所だが、ここで古戸さんに脱落されるのは困る。
「すみません! 誰かいますか!」
私は声を張り上げて呼びかけた。
「すみません!」
二度呼びかけたところで、屋内で動きがあった。玄関の方から誰かが出て、こちらに向かってくる気配がした。
「おいおい、どうした」
現れたのは四十歳ぐらいの男性だった。大柄だが、決して肥満ではない。半袖のTシャツから覗く太い両腕には、血管と濃い灰色の痣が浮かび上がっていた。
見覚えがある。確か昨日あとり君に図鑑を渡した、村井という人物だ。
「熱中症みたいで……」
村井さんは私たちが下りてきた斜面を見遣り、疑わしげに眉をひそめた。いかにもなにか問いたそうだったが、まずは重症者の手当を優先しようと判断したらしく、古戸さんの側面に回って軽々と身体を持ち上げ、そのままずんずんと屋内へと運んだ。
薄暗い屋内に入ると、先程の獣臭とは違う、むっとするような生活臭が感じられた。さほど神経質な人間でなくとも、ちょっと身構えてしまう種類のものだ。
しかし屋内の雑多な印象とは裏腹に、村井さんの処置は手際が良かった。古戸さんを居間に寝かせ、台所に下がってコップ一杯の水を私に手渡すと、もう一度台所に下がり、今度はビニール袋で氷嚢を作って持ってきてくれた。
「待ってろ。医者の先生に電話かけてやるから」
言葉や態度はややぶっきらぼうだが、村井さんの行動からは善意がにじみ出ていて、私はこの短い時間に、彼が非常に親切な人間なのだと理解するに至った。
幸い、古戸さんの状態はそれほど重篤でなかった。ゆっくりと水を飲み、首筋や脇の下を氷で冷やすと、顔の赤みも徐々に取れていった。
「いや、まいったまいった」
「運動部の中学生じゃないんですから、しっかりしてください」
ははは、と他人事のように笑って、古戸さんは室内を見回した。
「親切な人で助かったよ。一人暮らしかな」
「昨日、家に来てましたよ。あとり君と仲がいいらしいです」
「なんで?」
「さあ。親戚とかじゃないんですか」
「村長の親類なら、もう少しいい家に住んでてもよさそうなもんだ」
「あんまり失礼なこと言わないで下さい」
私が注意すると古戸さんは口をつぐんだが、頭の中で色々とよからぬことを考えているのが手に取るように分かった。
それから少しすると、家の前で車が止まった。桐島さんがやってきたのだ。部屋に入ってきた彼は、医療器具が入っているらしいバッグを持参してきていた。
「いくら山間で涼しいからといって、油断してはいかんね。ところで、こんなところで何を?」
「いやちょっと散歩を……」
私の曖昧な答えに多少眉をひそめながらも、桐島さんは深く追及することをしなかった。バッグから聴診器を取り出して、簡単な触診と問診をおこない、古戸さんの症状を軽い熱中症だと診断した。
それから、重症ではないし薬や輸液も必要ないが、しばらく診療所で休んでいきなさい、と提案した。
古戸さんの様子からするとそのまま帰っても問題なさそうだったが、特に断る理由も急ぐ用件もない私たちは、勧められるまま診療所へと場所を移すことにした。
軽トラックで村を横断した私たちが診療所に着いたとき、時刻は正午の少し前だった。私は桐島さんの厚意で昼食をごちそうになった上で、彼の蔵書と診療所のベッドを一つ借り、古戸さんが完全に回復するまでの二、三時間を過ごすことにした。
現在村人たちは概して健康らしく、診療所には入院患者もいなければ、診療に訪れる者もいなかった。
冷房の効いた、誰もいない個室。私がベッドで寝転がりながら、軽めの推理小説を八十ページほど読み進めていたとき、ドアをノックして桐島さんが入ってきた。
「少しいいかな?」
「ええ」
文庫本を閉じて身を起こす。桐島さんはベッドサイドにあるスツールに腰かけ、脚を組んだ。
「君たちは随分、アグレッシブに動き回っているようだが」
「まあ……」
私は柔らかい土で汚れた自分の靴にちらりと目を遣った。
「あまり調べまわるのはやめた方がいいよ。よく思わない村人もいるから」
彼の表情を見れば、それが善意の忠告だと分かる。しかし私たちはいわゆる故意犯なのだ。どう言い訳したものだろう。
そのときガチャリと音を立ててドアが開いた。古戸さんがノックもせずに入ってきたのだ。
「楠田さんに責任はありませんよ。今回のことは僕の発案ですからね」
桐島さんは首を巡らせて彼の方を見る。顔を窺うことはできないが、眉をひそめているのだろうということは分かった。
「体調は?」
「おかげさまで。で、もう察しているかもしれないですけど、キャンプ場を探していたというのは嘘なんです」
「そうだろうな。じゃあ、なんのために?」
「滝村という人間を知りませんか。十六年前、この村に来たと思うんですが」
古戸さんの質問に対して、桐島さんはかぶりを振った。
「僕がここに赴任してきたのは三年前だ。村の人間は大体把握しているが、滝村という姓の人間はいないね。君の知り合いか」
「恩師……というわけでもないけど、師匠格の人間ですよ。この村の祭を調査しにきて、そのまま消息を絶った」
「……人探しなら警察に任せた方がいい」
「十六年前の人間を今更探したところで、どうにもなりませんよ。それよりも僕は真相が気になるんです。見た感じ、カルトっぽい感じでもなさそうなんですがねえ。人死にが出るような利権もなさそうだし。瑠璃という女性がキーパーソンかな? どうです?」
桐島さんは嫌悪と疲労の混じったような深いため息をついた。
「いいかい。僕は雇われの医師に過ぎない。村や祭について詳しいことは知らないし、面倒ごとに関わる気もない。調べまわるなと言ったのはただの親切心からだ。熱中症の治療ならしてあげられるが、それ以上のことはできないし、してあげるつもりもない」
「あなたは村で唯一の医師だ。後ろ暗いことがあるなら、色々深入りはしているはずなんですけどね」
「ご想像にお任せするよ。もう元気になったなら、とっとと村長のところに戻りなさい。治療費はいらないから」
古戸さんは望む反応を引き出せたようでにやにやしていたが、私は桐島さんにひたすら申し訳なくなった。去り際、私が平謝りしていると、彼は若干気の毒そうな表情で、再度こっそり忠告してくれた。
「瑠璃という女性に手を出してはいけない。身の危険を感じたら逃げること。村は封鎖されているが、壁があるわけじゃない。二、三時間も歩けば、別の集落があるから」
それが本心からのものなのか、巧妙な脅しなのかは分からなかったが、私は厚意に感謝して、そのまま昼下がりの診療所を辞した。本当は神奈子ちゃんや村井さんの身体にある痣について尋ねたかったが、結局はその機会を逸してしまった。




