-3- 外穂村
私は少女を背負っていたので、あまりのんびりと景色を見る余裕はなかったが、村の中心近くにあるという診療所に向かう途中、おおまかな様子ぐらいは窺うことができた。
主要な産業はおそらく果樹栽培で、ゆるやかな斜面には多くの農園が立地していた。それから自給できる程度の穀物や野菜の畑、豚や鳥の厩舎もあった。
私のイメージする限界集落にありがちな活気の乏しい陰鬱な感じは少なく、むしろある種の理想を体現したような、牧歌的な情景が広がっていた。時間が時間なので農作業をしている人はいなかったが、遠くに子供の遊ぶ姿が見えた。
文明に毒された人間にとっては退屈過ぎるかもしれないが、住みたいと思う人は多いかもしれない。
そういえば、と私は少女に名前を告げ、古戸さんと口裏を合わせた偽の設定を不自然でない程度に語った。
「私は神奈子といいます」
神奈川の神奈に子供の子。家族は古くからこの村に住んでいるのだそうだ。
「横浜ってすごく都会なんでしょうね」
「人が多いだけで、ほとんど住宅街だよ。神奈子ちゃんはそういう場所に行ったことある?」
「いえ、麓の町より遠くに行ったことはなくて……」
バス停に行くまでも数十分歩かなければならないような集落だと、そういうものかもしれない。車が運転できるようになるまでは、ちょっとターミナル駅へ買い物に、というわけにはいかないのだ。
意外に綺麗な舗装路を七、八分ほど行くと、村の中では近代的な建物が見えてきた。神奈子ちゃんいわく、あそこが診療所らしい。
診療所といっても小さな歯科医院ぐらいの平屋建て、入院用の病床もなさそうだ。専門的な治療が必要な場合は、麓の町に運ぶことになるのだろう。
白っぽい外壁は村の建物と趣を異にしているが、こじんまりしているせいで極端に不自然というほどではない。近くには軽トラックが一台停まっている。簡易的な救急車として使われたりするのかもしれない。
近づいてよく見ると、診療所には住居と思しき部分も併設されている。聞けば診療所は自治体によって運営されていて、任期付きで医師を雇っているとのことだ。
診療時間などが書かれた看板などは見当たらない。古戸さんが診療所の入口と思しき扉を開けると、今しがた出てくるところだったらしい男性とぶつかりそうになった。
「どちらさん?」
診療所の医師と思しき男性は、見たところ四十代、中肉中背のかなりくたびれた容貌をしていた。彼は怪訝――古戸さんに対するものとしてはごく真っ当――な態度で尋ねたが、すぐ背後にいる私と、背負われた神奈子ちゃんを目にすると、大まかな事情を察したようだった。
「すみません、この子がちょっと足をひねったみたいで」
「とりあえず入りなさい。靴はそこで脱いで」
言われるがまま玄関をくぐり、狭い待合室を素通りして奥の部屋に進む。白いリノリウムの床とわずかな薬品のにおい、照明を反射する銀色の器具は、こんな山間部にも医療サービスが行き届いているのだなあ、という感じを私に抱かせた。
小さな処置室のベッドに神奈子ちゃんを座らせて、医師は負傷したと思しき場所を素早く診はじめた。動かすよう指示したり、押したりして痛みを助けたあとに、私と同じくごく軽い捻挫だろうという判断を下し、氷嚢をつくり、テープで患部を補強した。
「それで、君たちは?」
一通りの処置を終えてからようやく、医師は私たちに尋ねた。
「ええと、キャンプ場を探してたんですけど、道に迷って……」
この近くを通りがかったところ、豚に襲われている神奈子ちゃんを発見し、助けようとしたところ豚と衝突して事故になった。話していて自分でも妙だと思ったが、起こったことは事実なのだから仕方がない。目撃者もいる。
「豚? ああそういえば、今朝一匹逃げたと言っていたな」
桐島と名乗った医師は、器具を棚にしまいながら呟いた。あまり事実を精査するような様子がないところに、若干の無気力が垣間見えたような気がした。
「車は大丈夫なのか?」
「いや、それがですね」
待ってました、とばかりに古戸さんが口を挟んだ。事故で車が動くかどうか分からず、山道での立ち往生は避けたいので、少しの間村に滞在することはできないか、という提案だった。
「どちらにせよ君たちは、ここに滞在した方がいいと思うよ」
桐島さんは言った。渋られると予想していたらしい古戸さんは意外そうな顔をした。
「と、いうと?」
「今日から祭があってね。その間、村への出入りは禁止される。それが六時のことだから、今頃はもうダメだ」
壁に掛かっている時計を見ると、午後六時を少し回ったところだった。古戸さんがこのことを知っていたのかどうか定かではないが、なんともうまいタイミングだ。
「ええと、いつまでだったかな。一、二……丸三日と十二時間ってとこか本当は外部からの立ち入りを防ぐ目的なんだろうけど、まあ古い規則は得てして融通が利かないものだからね。
言っとくけど、ここに民宿なんかはないよ。村長――といってもまとめ役みたいな立場だけど――その村長の家なら空いてる部屋があるかもしれない。頼んでみたら?」
「その村長というのはどこに?」
私は尋ねた。
「神奈子ちゃんに聞けばいい。そこに住んでるんだから」
桐島さんが神奈子ちゃんを見遣ると、彼女はやや恥ずかしそうに目を伏せた。
「恩を着せるようで気が進まないなら、僕から電話してあげようか?」
どうやらこの桐島さん、見た目の印象よりも親切な人間らしい。しかしよく考えれば、こんな山村で医師をしていること自体、そういった性向の現れなのだろう。
「助かります」
私はありがたく、その好意に甘えることにした。
「ところで、祭というのは?」
古戸さんが白々しく尋ねた。
「僕もよく知らないんだけどね」
そう前置いてから、桐島さんは少し躊躇うようなそぶりを見せた。外部の人間に話していいのかどうか迷っているようでもあった。しかし別段固く口止めされているわけではないらしく、少ししてまた口を開いた。
「村の豊穣を願う祭らしいよ。十六年に一度だけやるんだそうだ。屋台が出たりはしないから、期待しないように」
「へえ、十六年に一度かあ。見学はできるんですかね?」
「さあ? 村長に聞いてみたらいいんじゃないか」
私と古戸さんは顔を見合わせた。秘祭だと聞いていたから、もっと排他的な態度を取られるかと思っていたが、案外拍子抜けだ。
しかし桐島さんも所詮外部から来た人間に違いなく、また古戸さんの恩師である滝村教授が失踪していることには変わりない。あまり突っ込んで聞くのはまだ早いだろう。
「さて、今日はもう閉店にしよう」
そう言って、桐島さんは椅子から立ち上がった。彼が村長の家に電話をかける間、私たちは神奈子ちゃんと待っていたが、祭の話が出て以降、彼女の顔がわずかに曇っていることに気がついて。しかしこのとき、私は遠慮してその理由を尋ねることができなかった。
「大丈夫だそうだ」
少しして、桐島さんが戻ってきた。怪我人がいるし、暗くなった道を歩くのは危ないからという理由で、結局村長の家まで送ってくれるという。四人のうち二人は荷台に乗るほかないが、ここには咎める人間もいないだろう。
「お願いします」
診療所を出た私たちは軽トラックに便乗して、村のさらに奥へと入っていった。
私が軽トラの荷台から空を見上げれば、既に宵闇が天球を覆いはじめ、都会ではまず見ることのできない数の星々が冷たく瞬いていた。




