-2- 少女と豚
仕事の都合さえつけば、旅に出る準備は七割方終わったようなものだ。私は三日分の着替えと日用品をボストンバッグに詰め込んだだけで、当日を待つことにした。
村を訪れる口実としては、慣れない土地でキャンプ場を探していて道に迷ってしまった、と言うつもりらしい。一般には秘されている祭の時期にわざわざ訪れて、ここで失踪したらしい恩師のことを調べさせてくれというのは、さすがに顰蹙を買うだろう、という配慮からだった。
そもそもそれで通るのかはともかく、結果として調査するのは違いないのだから、どのみち誠実とは程遠い行為である。気が咎めないと言えば嘘になるが、ブレーキ役不在の場合事態がこじれるのは目に見えているので、私が行くことには意味があるのだ、と自分を納得させる。
私たちは昼前に集合して出発し、中央自動車道に沿って長野を目指した。いつもの軽トラックにはカモフラージュとして簡単なキャンプ用具を積んである。
さすがに長距離のため、数時間の道のりで何回か運転を交代した。古戸さんは珍しく気持ちを高ぶらせているようで、私の知らない曲を口ずさんでは車内の空気を妙なものにした。
数度の休憩を挟みつつ、陽が傾くころには、広い県道から離れて山道に入った。秘境というほどではないが、周囲には森しかなく、商店や公共施設などはかなり前に絶えていた。夜になればさぞ星が綺麗なことだろう。
都市化の極致にある日本でも、列島の大部分は山野であり、人の住む領域は意外に狭い。このような場所に集落があったとしても、それは緑の大海に浮かぶ小島のようなものであり、およそ人里という感覚を抱かせない住処であるに違いなかった。
自然豊かな観光地ともまた違う文明の縁で、人はどのように暮らしているのだろうか。
軽トラにカーナビは備え付けられていなかったので、古戸さんのスマホで地図アプリを開き、紙の地図と照らし合わせてナビゲートされながらの運転だった。とはいえもはや目的地までは一本道だったので、うっかり通り過ぎないように確かめればいいだけになっていた。
標高は多分五百メートルぐらいあるのではないだろうか。都市部よりも明らかに気温が低い。私は軽トラックの窓を全開にし、爽やかな森の空気が車内に流れ込むままにしていた。
「大体この辺だと思うなあ」
ぼんやりした指示のもと、私は少しばかりアクセルを緩め、車窓の外に目を遣りながら、集落の入口を見逃すまいとした。
しかし、それを発見するのにさほどの注意は必要なかった。見逃しようもないほどの、非常に大きな目印があったからだ。
進行方向左にある山の頂上側、周囲の植生とは明らかに違う杉の巨木が、遠くからでもはっきりと見えた。山肌に目を凝らせば、確かに人家や農園と思しき施設もある。
思っていたよりも大きな集落だ。規模からすると、五十戸か六十戸ぐらいあるのではないだろうか。ビジネスホテルやコンビニは期待できないが、雑貨屋ぐらいはありそうな気配がする。
長旅の疲労と目的地に到着した安堵で、ハンドルを握る手が緩む。巨木の幹を中ほどから根本までゆるゆると視線を下げていくと、いささか注意を引くものがあった。
まず私の目に映ったのは、人の背丈ほどの高さに巻かれた、巨大な輪から成る鎖だった。注連縄なら見たことはあるが、鎖とは珍しい。それはやや色味を増した陽光を反射して、鈍い灰色に光っていた。
次に私が見たのは、巨木の根元で揉み合う二つの影だ。片方は白いワンピースを着た高校生ぐらいの少女。もう片方は……豚だ。百キロぐらいはありそうな豚。養豚場から逃げ出してきたのだろうか?
豚がなにやら興奮して、少女に襲い掛かろうとしているように見える。家畜化されたイノシシと考えると、かなり危険な状況だ。
「ちょっと古戸さん、アレ」
行ってどんな助けになるかは分からないが、見捨てるわけにもいかない。いざとなれば古戸さんの力に頼る――いざというときほど頼りにならないのだが――必要があるかもしれない。
しかし私が車を止めようと、巨木から二十メートルくらいのところでブレーキを踏み込んだとき、豚が車の方にすっ飛んできた。
一直線に走ってきたのではない。カタパルトかなにかから射出されたような勢いで、文字通り空中をすっ飛んできたのだ。
「んん?!」
助手席の古戸さんが間抜けな声を響かせるのと同時に、車体の左側を強い衝撃が襲った。原付自動車と同じくらいの質量がぶつかってきたのだから、ちょっとした、というか普通に交通事故だ。
軽トラの車体が揺さぶられて、一瞬車輪が浮く。私は暴れるハンドルを抑えつけながら、なんとか車を路肩に停止させた。徐行していたからいいようなものの、もっとスピードが出ていたときにぶつかられたら、派手に横転するか脱輪していただろう。
「ビックリした……」
今、一体なにが起こったのか? 直後、ピギイイイィィィ、と豚の叫び声がして、私は驚きに肩を震わせた。一瞬気絶してまた蘇生した豚は止まった車の前を横切り、よたよたとした足取りで木々の間に消えていった。
「楠田さん、骨とか折れてない?」
「多分」
返事をしたところで、私は少女のことを思い出す。彼女は空飛ぶ豚に襲われていたのだろうか? それとも彼女が豚を投げ飛ばしたのだろうか? 負傷しているならば、手当てをしないといけない。
車を降りて反対側に回る。豚がぶつかったドアの部分は派手にへこんでいたが、辛うじて開閉はできるようだ。首をさすりながら降りてきた古戸さんと一緒に、小走りで少女に駆け寄った。
そこは確かに斜面に立地した集落の入口で、奥の方にはいくつかの建物が見える。爽やかな山の空気に混じり、わずかに肥料の臭いがする。ここが外穂村ならば、少女はその住人と見て間違いないだろう。
「大丈夫? 痛いところは?」
私は巨木の根本にへたりこんでいる少女に声をかけた。服は少し汚れているが、大きな出血はない。意識もある。
「あの、大丈夫です、私……」
ショートヘアの少女は美人と言っても差し支えない容貌だったが、色白で線が細く、全体として弱々しい印象を受ける。着ているワンピースは手首やふくらはぎまでを覆う丈の長いもので、それがどことなく奥ゆかしい雰囲気を醸している。
田舎育ちの娘というステレオタイプにはそぐわず、むしろ空気の良い場所で静養中のお嬢様、といった風だった。年齢は十五か十六といったところだろう。
「頭は打ってない?」
私は尋ねた。
「打ってないです」
精神的なショックはそれほどでもなさそうだ。むしろ突然現れた私たちに対して困惑しているような反応だった。
「さっきの――」
豚になにをしたのか聞こうとして、古戸さんに制止された。気づかない振りをしろ、ということだろうか。
「君は外穂村の住人?」
「はい。あの、車のこと、すみません」
「ああ、いいんだいいんだ。どうせ廃車寸前のボロだから。気にしなくていい。家はここから近いかな」
古戸さんが私に目配せをする。村民に取り入るいい機会だと思っているに違いない。
少女は立ち上がろうとして、顔をしかめた。反射的に右足を庇うような仕草をする。私は彼女を支えながら一旦座らせ、右の足首を触ってみた。
「痛い?」
「体重をかけると……」
折れてはいないだろうが、軽い捻挫でもしたようだ。放っておいてもそれほど大事ないだろうが、応急手当をしておくに越したことはない。
私が彼女の足を見たとき、その皮膚に大きな痣があることに気がついた。それはあまり見たことのない灰色の痣で、彼女のふくらはぎに巻きつくような形で浮かび上がっていた。
しかし外傷ではないようなので、今は置いておく。
「ここって診療所とかあるの?」
「はい。外から来たお医者さんがいます」
「じゃあ、念のためそこに行こっか」
「すいません」
「いいのいいの」
私は古戸さんに手伝ってもらって、足を痛めた少女を背負って立ち上がった。彼女の身体は見た目通り軽く薄かったが、病的というほどではない。背負いやすい姿勢になってもらえば、少々長い距離を歩いても問題なさそうだ。
巨木の奥には集落に続く道がある。薄暮の中、こうして私たちは外穂村に足を踏み入れた。




