-1- いざない
私には旅の思い出が少ない。子供のころ両親があまり連れて行かなかったということもあるし、自分自身、あまり地元から離れたがる人間でなかったということもある。
大学生にでもなれば友人と旅行に行くような機会も多くあるのだろうが、私にはあいにく、そういうイベントを企画する友人はいなかった。
古戸さんもおそらく同じタイプだろう、と私は勝手に推量していた。だから彼がいつもの古びたソファで、独り占めにした扇風機の風に難儀しながら地図を広げていたとき、意外な気持ちになってつい声をかけてしまった。
「どこか行くんですか」
いつの間にか季節は夏のはじまりで、世間ではレジャーや登山に関する情報や報道も増えてきていた。今はまだそれほどでもないが、今年は異様な猛暑が予想されているらしく、そうなる前にと旅行を計画する人が多いのだろう。
「ああ」
古戸さんは最高気温が三十度を超えるような日でも、白衣のようないつもの格好を崩さなかった。脂肪や筋肉の少ない身体だから、暑さを感じにくいのかもしれない。
声をかけられた古戸さんは、地図を裏返して私に見せた。それは大体市や町が一つ収まるかどうかの狭い範囲のもので、私には山間の地域だということしか分からなかった。
「なに県です?」
「長野県」
「登山ですか?」
長野といえば登山か合宿か避暑。私の貧困なイメージではその程度が関の山だった。どれも古戸さんには似合わないので、なんとなく言ってみただけだ。
「そういう設定でもいいね。キャンプとか」
私のおざなりな推測に対して、古戸さんもよく分からない答えを返した。そのまま話題を流してもよかったのだが、古戸さんの方は積極的に私を巻き込みたいようで、彼自身の計画について勝手に語り始めた。
「昔世話になった教授がいてね。滝口だったか、滝沢だったか。半ば趣味で民俗学をやってたんだけど。ああ違った。滝村先生だ」
「はあ」
「僕が博士やめる前に失踪しちゃってね。当時は結構話題になった」
「古戸さん、研究者だったんですか」
「修士までは取った。ほぼほぼ惰性だから、それで喰ってこうという気は、はじめからなかったんだけどね。後半はほとんどみことのバアさんとこに入り浸ってた」
みことのバアさん、というのは古本屋として古戸さんの師匠格に当たる人物だ。今は鎌倉で、薄命堂という古書店を営んでいる。私も一度、奇妙な魔導書をめぐる事件で顔を合わせたことがある。
古戸さんがサラリーマンをやっている姿など想像できないので、大学から直接古書の世界に入ったというのは、それなりに納得できるキャリアだった。
「で、その滝村先生がどうしたんです?」
「うん。僕が知っている情報によると、先生は失踪する前、この集落に行っていた可能性が高い」
古戸さんはソファから立ち上がってカウンターに地図を置き、その一点にある地名を指し示した。
そこには小さな字で『外穂村』と書かれている。
「そとほ、ですか」
「そう。外穂村」
どれくらいの規模か分からないが、行政単位になるほど大きくはないのだろう。長野の山奥だ。限界集落というヤツだろうか。
「定住したとかじゃないんですね」
「うん。絵葉書とかも寄越さない」
「遭難したんですか?」
「彼はフィールドワークに出かけたんだよ。キャンプじゃない」
「フィールドワーク? なんの?」
「祭さ。いわゆる秘祭というヤツだ」
古戸さんは意地の悪い笑みを浮かべた。私はここに至って、逃れ難い位置まで踏み込んでしまったことを後悔した。
「時量師神というのを知ってるかな?」
「いえ……」
「トキハカシ、あるいはトキオカシ。これは古事記に出てくる、時間を司る神なんだけど、この外穂村ではどうもこの神を祀ってるようだ」
時間を司る神といえば、ギリシャ神話に出てくるクロノスが思い浮かぶ。私は世界の神話について詳しく知っているわけではないが、日本にもそういった神がいたとして、おかしいということはないだろう。
「珍しいんですか?」
「うん。謎多き神様なのさ。あんまりご利益がピンとこないから、廃れちゃったのかもしれないね」
「はあ」
「しかしアレだ。失われた神。秘された祭。消えた民俗学者。これはもう、ロマンと狂気の香りしかしないだろう。ゾクゾクするね」
「狂気が魅力みたいに言わないでくれます? ロマンはともかく」
「でも、付いてきてくれるんだろう?」
「行くわけないじゃないですか」
はあ、と古戸さんがため息をついた。講義の途中で、当然の前提を理解していない学生を発見した講師のような態度だった。
「君はまだ、自分がただのパート労働者としてここにいるつもりなのか? あの晩、なぜ僕が君を見て、店員としてリクルートしたのか想像してみるといい。
君は常識人のふりをしているが、確かに狂気を内蔵しているんだ。しかし前にも言った通り、誰しもその内側に狂気を持っている。君の場合はそれを時折コントロールできず、コントロールできないことを恐れるあまり、過剰に抑圧しているところに歪みがあるんだ」
「分かってますよ」
私は自分でも驚くほど自然に、その言葉を口にしていた。
分かっている。普通の人間は暴漢の胸骨を躊躇いなく砕こうとしたりしないし、半身を蠢かせる白衣の男に付いていったりはしない。読めば死ぬという魔導書の話を真に受けたりしないし、吸血鬼が灰になるまで刃を突き立てたりはしない。
分かっている。死と暴力が自分の内側にあることは。その原因についても、当然思い当たる節はある。しかしそれを深く考えたところで、どうしようもないことも理解している。
だからこの奇妙な男のもとで働く気になったのだ。自分の内にあるものを理解し、向き合うことを許す人間がいる場所に身を置くことを選んだのだ。
「積極的にそういう体験をしろって言うんでしょう」
「もちろん強いるつもりはないよ? しかしわけの分からん体験を色々として、自分の狂気を相対化すれば、社会復帰も近くなるんじゃないかと思うね」
「で、いつ行くんですか? 外穂村」
「明日だよ」




