-4- あとりと猟師
たとえ道がよく整備されていたとしても、夜に出歩く人間がいなければ街灯は必要ない。この村もまた夜遊びの需要とは無縁の場所であり、日没後は家族団欒と睡眠に充てられる時間なのだ。軽トラックの荷台で道端の闇に目を遣りながら、私は都会と田舎で違う生活のリズムに想いを馳せた。
診療所から目的地はさほど遠くなかったが、歩けば十分以上はかかっただろう。車で乗り付けた私たちが見たのは、都市部の住宅ではまず考えられないような広い敷地を持った家だった。
平屋建てだから余計に広く見えるのかもしれないが、それを差し引いても立派な家屋だった。それは単純に延べ床面積の大きさだけではなく、伝統を感じさせる建築様式や、よく手入れされた庭先などからも来る印象だった。
庭先では、既に陽が落ちているにも関わらず、一人の少年が外に出て私たちを待っていた。彼は桐島さんのことをおっちゃんと呼び、親しげに手を振った。
「またお客さんか?」
少年は小学校低学年くらいの年齢で、日焼けした顔はいかにも活発そうだった。彼は真っ直ぐ私たちに近づいてきて、頭から足先まで興味深そうに眺めた。あまり物怖じする性格ではないらしい。
「こんばんは」
私はほんの少し腰をかがめて挨拶した。
「おう」
「神奈子ちゃんの弟さん?」
「おう。あとりって名前だ。花ににわとりで花鶏」
花鶏。実在する鳥だろうか? とても珍しい名前だ。
「楠田由宇子です。こっちは古戸さん」
「ふーん。東京から来たのか?」
「あとり、お客さんに迷惑かけちゃダメだよ」
神奈子ちゃんが車から降りて彼をたしなめ、ほんの少し足を庇いながらこちらに来た。
「姉ちゃん怪我したんだって? 大丈夫か?」
「うん。ちょっとひねっただけ」
このとき、私が二人のことをあまり似ていない姉弟だと思ったのは、神奈子ちゃんの方はかなり色白で、あとり君とは見た目も印象も正反対だったからかもしれない。ただ仲はすこぶる良さそうで、彼女の顔には、ごく一部の心を許せる人間にだけ見せる種類の、柔和な笑顔が浮かんでいた。
私に兄弟姉妹はいないので、そういう存在を目にするとき、ほんの少しうらやましくなることがある。
「桐島さん、ありがとうございました」
神奈子ちゃんは丁寧に礼を言い、深々と腰を折った。
「ああ、気にしなくていいよ。じゃあね」
こうして、私たちは桐島さんと別れた。あとり君は引き戸を開けて私たちを中に招く。玄関は一般住宅のそれというよりも、まるで旅館を感じさせるような作りになっていた。
上がり框、というのだろうか、靴を履くときに座る部分がかなり広くとられている。奥の方に受付カウンターがあっても、なんら不自然ではない。
村長といっても、このような小さい集落だから、自治体の長ではないはずだ。多分、古い地主で村の顔役、といった立場の家なのだろう。であれば、このような立派な家に住んでいるのも納得がいく。
私が感心していると、家の奥から四十代ぐらいの女性が姿を現した。姉弟の母親だろうか。
「まあ、まあまあ、神奈子、桐島先生から電話があったけど、大丈夫なの?」
「うん。平気平気。心配ないよ」
女性は跪くようにして、神奈子ちゃんの足をさすった。このあたりの少し過保護な感じは、都市部でも田舎でも同じなのかもしれない。
「あー、それで、僕らはですね――」
古戸さんが口を開くと、まるではじめてその存在に気付いたように、女性は顔を上げた。私たちは口裏を合わせておいた事情を説明し、神奈子ちゃんが事故の経緯を補足して、この家に泊まれるよう口添えする。
村長夫人は少し困惑したような表情だったが、結局は私たちの滞在を許可した。
「実は先程もお客さんがいらっしゃって」
私たちを部屋に案内しながら、夫人は言った。そういえば、玄関脇にある客間の横を通ったとき、若い数人の声を聞いた気がする。
「山で遭難しかけたらしいぞ」
あとり君が口を挟む。神奈子ちゃんは自分の部屋に戻ったが、彼はそのままついてきていた。設定が被ってしまったことに、私はどきりとする。古戸さんがフフッ、と声を出した。
なに笑ってんだこの野郎。
私たちは左右に襖を見ながら廊下をぐるりと回り、十畳ほどの和室に通された。
「この場所を使ってください。布団は押し入れに」
「ありがとうございます」
本当は古戸さんと別部屋だとありがたいが、この状況で言い出せるはずもない。狭い四畳半に押し込まれるよりはましか、と諦める。
「あとでトランプしような」
「こら、あとり。……食事はあとで用意しますので。お風呂はご自由にお使いください」
「すみません、なにからなにまで」
「ごゆっくりどうぞ」
襖が閉められた。私は彼女らの足音が遠ざかるのを待って、畳に腰を下ろす。善意の人間を騙していることで、今更ながら酷く気が咎めた。
「古戸さんのせいですからね」
「なにが?」
「あんな親切な人たちに――」
嘘をついて、と言おうとして思い留まった。壁や襖は薄いかもしれない。
「滝村先生がここで消えたのは、ほとんど間違いないんだ」
一方の古戸さんは、声が漏れることをあまり気にしていないようだった。
「地獄への道は善意で舗装されてるって言うだろう。それに、我々はまだこの村のごく一部しか見ていない。せっかく三日もあるんだ。色々探ってみようじゃないか」
「はあ……」
後悔したところでもう遅いし、こうなることは目に見えていたのだ。ひとまず古戸さんに付き合う以外、私に取り得る選択肢はなかった。
靴下を脱ぎ、長時間の運転でむくんだふくらはぎを揉む。身体を倒し、少しひんやりとした畳に頬をつける。今日のところは夕飯を食べ、風呂に入って寝るとしよう。面倒なことは、明日考えればいい。
「とりあえずお風呂いただいてきます」
食事をするとあっという間に眠くなりそうだ。私は腕立て伏せの姿勢で身体を起こし、荷物から着替えと手ぬぐいを取って部屋を出た。
確か浴室は玄関近くにあったはずだ。先程来た廊下をまたぐるりと回る。見つけたそれらしき部屋のドアの前で、入ってもいいのかどうか逡巡していたとき、玄関扉がガラッと開いて、大柄な男性が姿を現した。
「ん?」
男性は私を無遠慮に眺めた。両方の腕には刺青――いや、神奈子ちゃんと同じ灰色の痣があり、片方の手には紙袋をぶら下げていた。
「ええと……」
痣のことがあったので、私は彼を村長だと思った。しかし直後、玄関わきの部屋から顔を出したあとり君によって、それは否定された。
「おう、おっちゃん。久しぶりだな」
「よう、あとり。元気か」
「この人はな。お客さんだ」
どうも、と私は頭を下げる。男性はあまり関心がなさそうだった。
「そうか。神奈子は元気か?」
「普通だな。呼ぶか?」
「いや、いい。それよりこれ、約束のやつだ。じゃあな」
男性はぶっきらぼうな態度であとり君に土産を渡すと、早々に帰ってしまった。多分、機嫌が悪いわけではないのだろう。元々の性格なのだ。
「あれは村井のおっちゃんだ。おっちゃんはいつも肉をくれる。銃も持ってるぞ」
聞くところによると、男性は猟師をしているらしい。今は猟期ではないので麓で出稼ぎをしているが、祭に合わせて一時的に戻ったのだという。
「それも肉?」
「いや、これは図鑑だ」
見せてもらうと、宇宙に関するもの、鉱物に関するもの、キノコに関するものが一冊ずつ入っていた。どれも新品なら数千円もするような、かなり本格的な図鑑だった。
「こういうのに興味があるの?」
「おう。大きくなったら学者になろうと思ってる」
「なんの学者?」
「それはまだ決めてない」
なんにせよ、知識欲が旺盛なのはいいことだ。もしかすると山村で友人が少なく、知的な刺激が少ないせいなのかもしれない。
「風呂に入るんじゃないのか?」
あとり君に指摘されて、私は元々の用件を思い出した。夕食後に彼とトランプすることを改めて約束してから、旅の汗を流すべく浴室に向かった。




