-7- 刃物と弾丸
「なんで逃げなかったの?!」
階段を駆け下りながら、私は真奈加を責めた。
「だってだって」
不破さんに拘束されもがく彼女の手には、なにか白いものが握られていた。それは物置を探索した時に見た、骨製の短剣だった。
多分、真奈加はそれを持って私たちに加勢しようとしたのだろう。判断の妥当性や選んだ武器の殺傷力はともかく、その悲壮な善意は中々に涙ぐましい。
しかし感心している余裕はなかった。不破さんの拘束を真奈加だけで解くのは難しそうだ。腕を無理やり引きはがすか、指の二、三本でもへし折るか、眼球を突くか。
階段を下り切った私が掴みかかろうと距離を詰めたとき、不破さんは真奈加をこちらに突き飛ばした。私がそれを受け止めたところに、彼女はどこから出したのか、スタンガンに危険な電光を纏わせ突進してきた。
怒号を上げるでもなく、興奮した様子もない。まるで訓練で感情をそぎ落とされた兵士が、命令通りに敵を攻撃するかのようだった。
それはおそらく、彼女の本性ではないだろう。きっと薬物か、なにか不思議な力で操られているのだ。首筋をよく見れば、噛まれた痕があったりするのかもしれない。私は真奈加が巻き込まれないよう、素早く横に押しのけた。
電撃を喰らえば一発で戦闘不能だ。私はスタンガンの先端に触れないよう、突き出された不破さんの右手首を掴み、そのまま柔道の体落としの要領で投げ飛ばした。
勢いのついた彼女の身体は半回転して落下し、スタンガンも手からこぼれてカーペットの上を転がった。引手を離され、受け身も取れなかった不破さんは、床に叩きつけられて動かなくなった。
「ひっ……」
背後で真奈加の悲鳴が響く。私は彼女が瓜生を視認したのだと理解した。玄関はすぐ目の前だ。そのまま逃げるべきなのは間違いなかったが、その思考は恐怖に塗りつぶされ、私は半ば自動的に身体を反転させていた。
瓜生の姿は先程よりさらに恐ろしげだった。
私が見たとき、彼は悠然と階段を下ってくるところだった。身体から黒い靄のようなものが漏れ出して、床にどろりと影だまりの軌跡を作っている。
表皮には黒々とした血管が這っていて、その全身に悪意を供給していた。長く鋭利になった爪と牙は、獲物を残忍に引き裂くための変化に違いなかった。
それは夢物語に見る、耽美で謎めいた吸血鬼の姿ではなかった。剥き出しの狂暴さと、生理的な嫌悪を催させる醜さを持った、唾棄すべき怪物の姿だった。
燃えるように輝く二つの眼が、私たちを捉えていた。
私の脚もいい加減萎えそうだが、私の横にいる真奈加は完全に腰を抜かしていた。これでは走って逃げられない。
「あなたは、エリーが死んだことを知ってたの?」
私は吸血鬼に呼び掛けた少しでも間を置けば、真奈加の意気が回復するかもしれない。
「……」
吸血鬼は答えない。嘲笑のような表情を浮かべたまま。歩みを進めてくる。
「あなたがエリーを殺したの?」
自分の声がわずかに震えているのが分かった。吸血鬼がわずかに目を細めたように見えたが、気のせいだったかもしれない。とにかく、彼が私たちを取るに足りないものと捉えているのは明らかだった。対話や交渉の余地はありそうにない。
転ばせるかどうかしてもう一度隙を作り、真奈加を引きずって外に出るべきだろうか? とはいえ、暗闇と雨が有利に働くかどうかは分からない。しかしこのままされるがままでいるよりはいくらかましだ。
吸血鬼の眼がちらりと揺らぎ、真奈加に注意を向けたような気がした。まずい。
「う、わ」
真奈加が殺気にたじろぐ。吸血鬼が床を蹴るのと、彼女が両腕で顔を庇うのがほぼ同時だった。私はほとんど動くことができなかった。次の瞬間、真奈加が血まみれで床に倒れることになると予想した。
しかし、そうはならなかった。
突き出された腕は、真奈加の眼前で止められていた。そこからはシュウシュウという音とともに白い煙が上がっていた。真奈加が咄嗟に掴んでいた骨の短剣が、吸血鬼の腕を掠めたのだ。それを見る吸血鬼の顔は、苦痛の色を帯びていた。
白い刃には、吸血鬼を傷つける不思議な力が宿っているようだった。しかし所詮は短剣の切先であって、致命傷を与えるには程遠かった。吸血鬼が腕を振って真奈加の手首を打つと、短剣は彼女の手から離れて床に落ちた。
手首を砕かれた真奈加が悲鳴を上げる。その声がほんのわずかな間、私の身体を動かした。
防御より攻撃。私は裂帛の気合を込めて、吸血鬼の膝関節を狙って踏みつけるような蹴りを放った。
だが、結果は先程とほとんど変わらなかった。関節を破壊するどころか、膝をつかせることもできなかった。コンクリート塊のような脚は微動だにしない。
吸血鬼は身体を捻り、鋭い爪で私を一撃した。咄嗟に右肩で受けたが、ダメージは当然のように衣服や筋肉を貫通した。焼けるような痛みが骨まで届き、抉り取られた血濡れの肉が眼前を舞った。
「ッ……」
無理だ。死ぬ。
私は床に倒れた。せめてもの意地で首をもたげ、足元から吸血鬼を睨みつける。彼の瞳はあくまでも侮りに満ちていた。
せめてこの場に古戸さんがいれば。いや、結局大した役には立たない気もする。
やはり銃声が聞こえた段階で、大人しく逃げておくべきだった。私の脳裏に後悔と絶望が押し寄せ、現実味を帯びた死が意識を圧倒しつつあった。
吸血鬼が私に歩み寄り、その無慈悲な爪を振り下ろそうとした瞬間、階上から銃声が響いた。吸血鬼の身体が傾き、撃ち抜かれたらしい右膝が折れる。
二発目、三発目。一秒間隔で放たれた大口径の銃弾は、それぞれ脇腹と肩に命中した。次の一発は首に命中し、その肉を半分ほど吹き飛ばした。銃創からはぶすぶすと煙が上がり、どす黒い血が吹き散らされる。損傷の大きさに耐えかねて、吸血鬼はゆっくりとに床に崩れ落ちる。
「おい、無事か」
残響と硝煙を伴って現れたのは、脳天を打ち抜かれて死んだはずの赤門さんだった。全身は血にまみれているが、その様子はあくまで理性的だった。
「無事じゃない、です」
そう言ってから、私は強い痛みを意識して呻いた。肩から上腕にかけての傷は、確実に骨まで達している。強く引っ張ったら多分もげるだろう。
「由宇子、由宇子!」
真奈加のことを忘れていた。声を上げた彼女の方を見ると、今しがた倒れた吸血鬼を指さしている。
「まだ動いてる!」
信じられないことに、吸血鬼はまだ生きていた。意思のある瞳をこちらに向け、声のない呪詛を吐くように口を動かしている。四発の銃弾を受けてなお力尽きず、再生の途上にあるようだった。
「待て、今弾を――」
赤門さんが言う前に、私は骨の短剣を視界の端に捉え、無事な片腕と下半身を動かしてそこまで這った。短剣を掴んで立ち上がり、ボロボロになった吸血鬼の身体にまたがる。
「この……ッ」
欠けた刃先を眉間に突き刺す。それは頭蓋骨の硬さを感じさせないほど易々と根本まで埋まった。抵抗しようとする腕を膝で制して、左の眼球を貫く。酷い臭いのする白煙が上がる。
恨みを込めた刺突。炎のような眼球の光が消え、動きが完全に止まってからも数度、私は短剣を振り下ろした。やがて失血のため意識が遠のき、吸血鬼の残骸に覆いかぶさるように倒れた。




