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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Episode13 暗がりに這う
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-3- 夜半の奇癖

 ゆったりした風呂で温まり、割り当てられた部屋で持参した文庫を読んでいると、徐々に眠気が忍び寄ってくる。日中の作業はそれなりにハードだったし、邸宅にエキサイティングな娯楽があるわけでもない。ベッドに寝転がったまま思い切り身体を反らせ、大きなあくびを一つ。


 古戸さんは日中に見つけた蔵書のうちいくつかについて、誠一郎さんに来歴を解説したり、逆に尋ねたりしているようだ。普段はそこまで熱心にやらないが、やはりジャンルに親和性を感じるのだろう。


 もてなしを受けておきながら早々に寝てしまうのは家主に対して不義理だと思わなくもないが、古戸さんが話し相手になっているのなら別に問題ないだろう。それに、今日やり残した多くの仕事を片付けるためには、早寝で英気を養った方がいい。


 私は暖房を消して照明を落とし、ベッドで丸くなって毛布を被った。屋外では風が物寂しげな音を立て、窓ガラスをほんのわずかに震わせている。この時間、車はほとんど通らない。周囲にはいくつか住宅があるものの、住人の気配が伝わってくるほどの距離ではない。片倉邸の夜は静かだ。


 時刻は午後九時半。私は長らく収納されていたらしい毛布のにおいを感じながら、深い眠りに落ちていった。


 夢は見なかったように思う。奇怪な出来事に神経を揺さぶられない限り、私は比較的寝入りがいい方だ。


 しかし早寝をし過ぎたせいで、半端な時間に目を覚ますことになった。枕元のスマホで確認すると、まだ夜中と未明の間ぐらいである。すぐ寝直そうと思ったが、妙に頭が冴えている。


 ふと私は喉の渇きを覚えた。空気が乾燥しているせいだろう。キッチンで水の一杯でも貰ってこよう。


 暗闇の中、ベッドから足を伸ばしてスリッパを探り、躓かないよう気をつけながら客室を出る。


 廊下にはアンティーク風の壁掛け照明があり、足元を警戒せずとも済む程度の光量が確保されている。キッチンは確か左だったか。いや、水は洗面所で汲めばいい。暖房が効いていない空間は寒い。さっさと済ませてまた寝よう。


 そのとき近くで音がして、私は一瞬ドキリとした。しかし見てみればなんということはない。誠一郎さんが廊下を曲がってきただけだ。彼は作務衣(さむえ)に似た寝間着姿で、上にはなにも羽織っていない。


 ひたひたと、ごくゆっくりとした足取りで近づいてくる彼に会釈をしてみたが、気づいていないのか無視しているのか、なんの反応も帰ってこない。


 誠一郎さんは私の目の前を横切り、そのまま食堂へと入って行った。なにか飲み物を取りに行ったのだろうか。それとも少し寝ぼけているのか。私に対する反応や薄暗がりで見えた顔つきからして、後者かもしれない。


 そのまま佇んでいても身体が冷えるばかりなので、私は客間のはす向かいにあったトイレに入った。同じタイミングで起き出してくるというのも珍しい、などと思いつつ用を足す。


 コップ一杯の水を飲んでからトイレを出ると、また誠一郎さんの姿が目に入った。彼も食堂から出てきたところのようだ。私が近くにいても相変わらずの無反応。


 しかし先ほどと違う部分が一つある。はじめ廊下に現れたときの彼は手ぶらだった。今は食堂から持ち出してきたらしいなにかを手にしている。


 相手の無関心をいいことに、私は彼の持ち物をじろじろと眺めた。形からして、飲料の入ったペットボトルではない。包丁なんかの物騒な品でもない。コピー用紙にしては重そうだ。


 分かった。これはスーパーでよく見る発泡スチロールのパックだ。中身は赤身の肉。


 とはいえ別にグロテスクなものではない。多分、牛か豚のブロック肉だろう。しかし、こんな時間帯になぜ生肉? 調理するならキッチンでやればいいし、そもそも夜食にはワイルド過ぎる。


 混乱する私を一顧だにせず、誠一郎さんは廊下を曲がっていった。しかし自分の部屋に戻ったわけではない。なぜならその先には書庫しかないからだ。


 真夜中、書庫、老人、生肉。個々の要素はどうにもちぐはぐで、彼が一体なにを意図しているのか理解できない。もし寝ぼけているのなら、介助した方がいいだろうか。


 色々考えるところはあったが、結局私は誠一郎さんを放っておくことにした。屋内ならどこで眠り込んでも凍死することはないだろうし、ブロック肉の扱いを誤って怪我をすることもないだろう。もし朝になって生肉が放置されていたなら、回収するなり捨てるなりすればいい。


 私は掌をこすり合わせながら自分の部屋に戻り、まだ体温の残っていた寝床で毛布にくるまった。


 徐々に沈み込んでいく意識の中、私はどこかで虫の鳴き声を聞いた気がした。あるいは鈴か笛の音だろうか。しかしどちらも冬の片倉邸にはそぐわない。多分、夢を見たのだろう。


 やがて夜が明けた。


 目を覚ました私が寝返りを打って身を起こすと、カーテンの隙間から差し込んだ朝日が、木目の床に光の足跡を作っていた。時計を見れば午前七時の少し前。身づくろいをすべく部屋を出たところで、一足先に起きていたらしい三津さんに出くわした。


「おはようございます。朝食はいつごろ召し上がりますか」


 早朝のぼんやりを感じさせない所作。元々の性質なのか、職業上のプロ意識なのか。


「おはようございます。いつでも大丈夫ですが、じゃあ、八時ごろで」


「かしこまりました」


「あの、三津さん」


「はい」


「……いえ、なんでもないです。あとで聞きます」


「はい」


 昨夜目撃した誠一郎さんの奇行について尋ねようとしたが、本人に聞かれると気まずいな、と思い留まった。もっとこっそりした場所で話すとしよう。


 そのうち誠一郎さんが、少し遅れて古戸さんも起きてきた。八時になったところで一緒に朝食を摂る。私は熱い味噌汁をすすりつつ、対面に座る老人の様子を窺ったが、なにかを隠している様子もなければ、私を避けているような風もない。


「横浜の辺りは雪がひどくなりそうですね」


 窓の外に目を遣りながら、誠一郎さんが言った。このあたりは降雪が極端に少なく、積もるようなことはめったにないそうだ。


「今日の午後あたりピークでしょうか」


 帰路のことが心配だ。予報によれば、都心部でも夜までに十五センチ以上の積雪があるという。片倉邸での仕事が終わるころには、あちらこちらで車が立ち往生するような事態になっているかもしれない。


「今日も泊っていくといいですよ。無理に帰ることはない」


 天候によっては、厚意を受けるのがいいかもしれない。事故の危険や疲労を押して運転するより、ゆっくり仕事をして翌日のんびり帰る方が楽に決まっている。


「いやあ、悪いですねえ」


 古戸さんの気持ちも宿泊に傾いているようだ。三食つきの生活が早くも板についてきている。栄養のあるものを口にしているからか、心なしか肌艶もよい。


 もちろん食ってばかりというわけにはいかない。私たちは少々の休憩を挟んでから、本の査定を再開することにした。


 残された本の量から考えると、今日中に終わるかどうかは微妙なところだ。せっかく誠一郎さんもああ言っていることだし、明日の午前中ぐらいまでを見込んで計画を立てる方がいいだろう。


 しかしなにはともあれ、確かめておきたいことがある。昨晩、誠一郎さんが書庫に持ち込んだ生肉の所在だ。


 そのままなにもせず自室に帰ったということは考えづらい。たとえ寝ぼけていただけだとしても、朝起きて枕元に生肉があったら、もっと騒ぐなり笑うなりしてもよさそうなものだ。


「どうしたの楠田さん」


「ええと、実は……」


 特に隠す必要もなかろうと考えた私は、昨晩目撃した出来事を古戸さんに話して聞かせた。


「ふーん」


 彼は意味ありげに鼻を鳴らし、天井を見上げた。


「もし同じことが何回も起こってるなら、三津さんは知ってるだろうね。食材を買ってるのも彼女なら、料理をしてるのも彼女だ。冷蔵庫にあるものを把握してないはずがない」


 それはその通りだ。今朝に限っては、偶然気づかなかったということも考えられるが。


 順番に棚を見ていくが、肉はどこにも置かれていなかった。床を舐めるように見てみても、欠片一つ落ちていない。しかし脚立に乗って高い場所から眺めたとき、部屋の角に置かれた棚の上に、白い発泡スチロールの破片があるのを見つけた。


「なんかあった?」


 私は脚立を移動させ、改めて棚の上を確かめた。


 砕かれ、ちぎれた発泡スチロール。乾いた汁が付着していることから、書籍の梱包に使われたものではなく、肉の入っていたパックに違いないと分かる。しかしここに中身はなく、容器も一部しか残っていない。


 棚の上は三津さんの手によるものか、よく掃除され埃も積もっていない。それでも丹念に調べていくと、わずかな痕跡が見つかった。


 それはカタツムリやナメクジがのたくったあとのような、乾いた分泌物か粘液のような痕跡だった。棚の上から続き、壁を這い、天井の奥へと消えている。


「古戸さん、昨日、天井裏になにがいるって言ってました?」


 私は尋ねた。


「ハクビシン?」


「そうでなくて、巨大ナメクジがどうとか。なんでそう思ったんですか」


「音だよ。四足で歩く生き物と、軟体生物が移動する音は違う。ナメクジいたの?」


「……この分だと、いるかもしれません」


 数百グラムの生肉を餌にするナメクジ。そんなものが日本にいるとは思えない。多分東南アジアにもアフリカにもアマゾンにもいないだろう。百歩譲ってそういう突然変異の生物がいたとして、なんだって誠一郎さんはそんなものを飼っているのか。


 私が痕跡を辿りつつ、天井板の一部に手をかけたとき、書庫の扉がノックされ、三津さんが姿を現した。


「もうお気づきになられたようですね」


 滑り込むように入ってきた彼女は、こちらを見ながら常と変わらぬ平板な口調で言った。彼女は私が見つけたもの、存在を疑っているものについて、明らかになにかを知っているようだった。


「三津さん、さっき聞こうと思ってたことなんですが」


 私は脚立から降りて、手に持った発泡スチロールの破片を示した。


「はい。可能な範囲でお答えいたします」

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