種を探す
迷宮の中で、廊下が動いた。
さっきまで右にあった曲がり角が、今は左にある。
足もとの石が、生き物の背中みたいに、ゆっくり波打っていた。
◇
朝五時。三丁目の角の家。
黒須さんは、昨日のうちに市へ「緊急管理」の届けを出していた。所有者の同意があり、探索者資格を持つ者が付き添えば、立ち入り禁止の建物にも管理のために入れる。湧き法の、小さな抜け道だった。
「同意する」
源さんは、それだけ言って、届けにサインした。
わたしは、借り物のヘルメットをかぶった。
ヘッドライト。軍手。方眼ノートと、黒・青・赤の三色ペン。
腰のベルトには、布にくるんだ源さんの鑿。
「半日じゃ」
ヨルが、フードを深くかぶったまま言った。
「わしが家を空けていられるのは、それが限度じゃ。それまでに見つけよ」
「はい」
作業部屋の床には、ぽっかりと穴があいていた。三か所、床が抜けたうちの一つだ。
黒須さんが先にロープで降り、わたしとヨルが続いた。
◇
迷宮の中は、暗かった。
苔の光が、ほとんどない。あっても、ちらちらと消えかけている。ヨルの家の、あのやわらかい白い光とは、まるで違う。
壁は湿って、ところどころから土がこぼれていた。
わたしは目を細めた。
青い線が、重なる。
――そして、ほどけていく。
廊下が、伸びては縮む。部屋が、膨らんではしぼむ。
あの夜と同じだ。描こうとしても、描けない。
「柚木さん」
「待ってください。今、見てます」
焦るな、と自分に言い聞かせた。
線の一本一本を追うから、描けないのだ。
一本ずつではなく、全体を見る。
間取り図を初めて見るとき、わたしはいつも、部屋より先に、廊下の流れを見る。人がどこから入って、どこへ向かうのか。家の、血の流れのようなものを。
でたらめな線の、流れを見た。
ねじれた廊下。宙で終わる階段。扉のない部屋。
どれも、ばらばらに見える。
でも。
「……曲がり方が、全部同じです」
「同じ?」
「どの廊下も、ねじれるとき、少しずつ同じ方向に曲がってるんです。右回りに」
浴槽の栓を抜いたときの、水の渦を思い出した。
水は、ばらばらに動いているように見えて、全部、一つの穴に向かって回っている。
「排水口みたいに。線が全部、一点に向かって流れてるんです」
「その一点は」
わたしは、渦の中心を探した。
見つけた。
「家の真下です。通し柱の、ちょうど真下」
湧いた夜、石喰いが群がっていた柱だ。
◇
中心に向かって、歩き始めた。
廊下が動くたびに、わたしは流れを読み直した。
黒須さんが先頭に立ち、ヨルがいちばん後ろを歩いた。
「次の角、右です。……いえ、今、左になりました。左です」
「左」
黒須さんは、一度も聞き返さなかった。
わたしの言った方へ、迷わず足を出した。
三つ目の角を曲がったとき、それが来た。
キイ、キイ、キイ。
とがった鳴き声が、壁という壁から湧き出した。
苔ネズミの群れだった。
十匹、二十匹。目が、赤く光っている。
「下がって」
黒須さんが、モップの柄を構えた。
「清掃に入ります」
刃が、低く、短く振られた。
一匹目が壁に当たって転がる。二匹目、三匹目。黒須さんは、ほとんど足を動かさない。来たものから順に、払い落としていく。
でも、数が多すぎた。
払い落とした向こうから、次の群れが押し寄せてくる。
そのとき、ヨルが前に出た。
何もしなかった。
ただ、フードを下ろして、群れの前に立っただけだ。
金色の目が、暗い廊下で、静かに光った。
苔ネズミたちの動きが、止まった。
一匹、また一匹と、赤い目の光が揺らぐ。壁ぎわに後ずさり、やがて、来た道を逃げ出していった。
「……主の前では、行儀よくするものじゃ」
ヨルは、ふう、と息をついた。
額に、汗が浮かんでいた。
「長くはもたん。急げ」
◇
渦の中心は、小さな部屋だった。
壁が、脈打っていた。
どくん、どくん、と、心臓みたいに。
床の真ん中に、黒い石が埋まっていた。
くるみくらいの大きさ。表面から、細い根のようなものが、四方の床にびっしりと伸びている。
根の一本が、天井の、通し柱の根元まで這い上がっていた。
「これが、種」
「触れるな。根を全部断ってから、抜け」
ヨルが言った。
わたしは、膝をついた。
腰のベルトから、源さんの鑿を抜く。布をほどくと、刃が、ヘッドライトの光を白く跳ね返した。
根に、刃を当てた。
硬い。石みたいだ。
でも、鑿の刃は、吸い込まれるように入っていった。
この家の柱は、全部それで刻んだ。
――俺の家だ。そいつが一番、よく知ってる。
一本。二本。三本。
根を断つたびに、壁の脈が、少しずつ弱くなる。
「天井」
黒須さんの低い声。
見上げると、天井に、赤黒い点が群がっていた。
石喰いだ。
通し柱の根元に、まだ取りついている。
「柚木さん、そのまま」
黒須さんが、わたしの頭の上に、モップの柄を差し出した。
ばらばらと、石の粒が降ってきた。
わたしは、最後の根に刃を当てた。
断った。
種が、ぐらりと揺れた。
軍手の手で、つかんで、引き抜いた。
部屋の脈が、止まった。
しん、と静かになった。
廊下のうねりが止まり、壁からこぼれていた土が止まり、石喰いの群れが、ぽろぽろと天井から落ちて動かなくなった。
青い線が、止まった。
初めて、迷宮の形が、描ける形になった。
「やった……」
「まだじゃ」
ヨルの声が、鋭かった。
足もとで、ぴしり、と音がした。
床に、ひびが走っていた。
「荒れは止まった。じゃが、まとめる者もおらん。空っぽの家は、崩れるだけじゃ」
「どのくらい、もちますか」
「今日、明日はもつ。じゃが、長くはない」
黒須さんが、わたしの腕を取った。
「出ます」
◇
地上に出ると、朝の光がまぶしかった。
規制線の外で、源さんが待っていた。
一晩じゅう、そこに立っていたらしい。
「どうだった」
「荒れは、止めました」
わたしは、鑿を布にくるみ直して、源さんに返した。
「この鑿が、全部やってくれました」
源さんは、鑿を受け取って、刃を朝日にかざした。
刃こぼれ一つ、なかった。
「……当たり前だ」
そう言って、源さんは、少しだけ笑った。
わたしは、軍手の中の種を、明るいところで見た。
くるみくらいの、黒い石。根を断たれて、もう、ただの石のようだった。
石の表面に、何かが巻きついていた。
ちぎれた、青いビニールテープ。
水道工事で、配管の目印に巻くテープだ。
泥をぬぐうと、白い文字が浮かび上がった。
三倉設備。




