取り壊しまで三十日
取り壊しまで、あと二十九日。
源田源治さんは、自分の家の前に止めた軽トラックの荷台で、寝起きしていた。
避難所には、行かないと言う。
◇
「この家は、俺が建てた」
荷台の上で、源さんは湯のみを両手で包んでいた。
タエさんの煮物を持っていったら、黙って全部食べてくれた。
「四十年前だ。女房と二人で、図面を引いて、木を選んで、休みの日に少しずつ。柱の一本一本まで、全部覚えてる」
源さんは、規制線の向こうの家を見た。
前庭の地割れは、昨日より少し広がっていた。
「壊すなら、俺ごと埋めればいい」
「そんなこと言わないでください」
「本気だよ」
源さんの声は、静かだった。
静かなぶん、本気だと分かった。
わたしは、何も言えなかった。
かわりに、思い出していた。
十二年前のことを。
◇
わたしの実家は、隣の市の、川沿いの町にあった。
大工の父が、自分で建てた家だった。
十歳の春、その家の地下に、湧きが出た。
まだ「湧き」という言葉も、湧き法もなかったころだ。
市の人たちが、毎日のように来た。
危ないから、と言った。前例がないから、と言った。
夏の終わりに、重機が来た。
父は、庭の端に立って、自分の建てた家が崩されるのを見ていた。
泣きもしなかったし、怒りもしなかった。
ただ、わたしの手を握って、こう言った。
「家は、住む人がいれば直せる」
直せなかった。
住む人が、追い出されたから。
父は、その五年後に病気で亡くなった。
あの日の父の顔を、わたしはまだ、うまく描けない。
◇
「主を、迎えればいい」
その夜、一丁目の平屋で、ヨルはこたつの天板にあごを乗せて言った。
タエさんのがんもどきを、三つ食べたあとだった。
「種を抜けば、荒れは止まる。じゃが、それだけでは足りぬ」
「どうしてですか」
「抜いたあとの迷宮は、空っぽじゃ。まとめる者がおらん。放っておけば、そのまま崩れる」
ヨルは、指で天板に円を描いた。
「だから、主を迎える。新しい主が入れば、迷宮は家になる。家になれば、もう崩れぬ」
「ヨルが、入ることは」
「わしは、この家の主じゃ」
ヨルは、首を振った。
「主は、一つの家にしか住めぬ。半日くらいなら出歩けるが、それ以上は無理じゃ」
「じゃあ、ほかに主は」
ヨルは、しばらく黙っていた。
「……心当たりが、ひとつある」
「本当ですか」
「家をなくして、流れておる年寄りじゃ。腕はいいが、気難しい。わしが頼んでも、来るかどうか」
「でも、その前に」
わたしは、ノートを開いた。
描けなかった、源さんの家のページ。青い線が何本も、途中で途切れたまま散らばっている。
「種を、見つけないといけないんですよね。あの、でたらめな迷宮の中から」
「そうじゃ」
「種の場所が分かるのは」
ヨルが、わたしを見た。
「おぬしの目だけじゃろうな」
◇
「だめだ」
翌朝、事務所でタエさんは即答した。
「あんたは不動産屋だよ。探索者じゃない。資格もない、保険もない。入社一か月の新人を、暴れてる迷宮に入れられるもんか」
「でも、このままだと、源さんの家が」
「源さんの家は、源さんのもんだ。あんたが命をかける筋合いはない」
正しかった。
タエさんは、いつも正しい。
わたしは、ノートを握りしめた。
十二年前、わたしは何もできなかった。
十歳だったから。何も見えなかったから。
今は、見える。
「俺が行きます」
黒須さんが、口を開いた。
いつもの、短い言い方だった。
「迷宮の中は、俺が守ります」
「蓮、あんたまで」
「でも、俺には種の場所が分かりません」
黒須さんは、わたしのほうを見なかった。
見ないまま、続けた。
「柚木さんがいないと、俺は、迷宮の中で迷うだけです」
タエさんが、黙った。
わたしは、一歩前に出た。
入社してから、ずっと、言われたことをやってきた。
自分から何かをしたいと言ったことは、一度もなかった。
「やらせてください」
声は、思ったよりまっすぐ出た。
「十二年前、わたしの家は、壊されました。直せたかもしれないのに。……もう、壊させたくないんです」
タエさんは、長いこと、わたしの顔を見ていた。
それから、深いため息をついた。
「帰ってこなかったら、宅建の申込書は、私が代わりに書いとくからね」
「……え」
「七月締め切りだよ。忘れてないだろうね」
それが、タエさんの「行っておいで」だった。
その日の昼休み、事務所の裏で、黒須さんが道具の手入れをしていた。
モップの柄の刃を、砥石で一本ずつ研いでいる。
「黒須さん。さっきは、ありがとうございました」
「何がですか」
「わたしがいないと迷う、って」
「事実です」
黒須さんは、刃を光にかざして、また砥石に戻した。
「迷宮の中で迷うのは、もう嫌なんです」
もう、という言葉が、少しだけ引っかかった。
黒須さんは、それ以上は何も言わなかった。
わたしも、聞かなかった。
ヨルのときと同じだ。人には、まだ言えない間取りがある。
◇
夕方、源さんに話をしに行った。
種のことは、うまく説明できなかった。
ただ、「迷宮の中に、荒れている原因がある。それを取り除けば、家を残せるかもしれない」とだけ言った。
源さんは、軽トラックの荷台から、黙って道具箱を下ろした。
ふたを開け、布にくるまれた一本を取り出す。
鑿だった。
柄は手の脂で黒く光り、刃は、鏡のように研がれていた。
「持ってけ」
「でも、これ、大事な」
「大事だから、貸すんだ」
源さんは、わたしの手に鑿を押しつけた。
ずしりと重かった。
「この家の柱は、全部それで刻んだ。……俺の家だ。そいつが一番、よく知ってる」
アパートに帰って、ノートを開いた。
描けなかったページの次の、まっさらなページ。
右上に、黒いペンで書く。
物件番号11 源田邸。
その下に、赤いペンで、小さく書き足した。
取り壊しまで、二十八日。




