引っ越しの日
四月二十八日。
春日さん一家の、引っ越しの日。
そして、篠宮さんの地図で、三丁目の角の家に赤丸がついていた日だ。
◇
朝、わたしは事務所に寄る前に、三丁目へ回った。
角の家は、瓦屋根の古い二階建てだった。
縁側の前で、白いタオルを頭に巻いたおじいさんが、植木の枝を切っていた。七十代半ばくらい。腕が、驚くほど太い。
「何か用かい」
「いえ、あの……いい松ですね」
「だろう」
おじいさんは、ぱちん、と枝を一本落とした。
「女房が好きだったんだ」
おじいさんは、切った枝を足もとにまとめながら、ぶつぶつと続けた。
「先月なんざ、市の委託だとかいう水道屋が来て、勝手に庭を掘り返していきやがった。古い管を替えるとか言ってな。松の根を傷めやしないかと、気が気じゃなかったよ」
「水道屋さん、ですか」
「青い作業着の若いのが三人。愛想だけはよかった」
わたしは目を細めた。
青い線が重なる。家の下には、何もない。土と、古い水道管と、最近替えたらしい新しい水道管が一本あるだけ。
何も起きていない。
ほっとして、それから少し、恥ずかしくなった。
地図の日付を、本気で信じかけていた自分が。
「湧きの予定なんて、天気予報じゃあるまいし」
事務所でそう話すと、タエさんは鼻で笑った。
「三倉の連中は、湧きそうな古い家に印をつけて、先回りして買う気なんだろ。いやらしい商売だよ」
そうなのかもしれない。
わたしは、ノートの赤丸から目をそらした。
◇
昼前、引っ越しのトラックが、四丁目の家の前に止まった。
湧き物件の前に引っ越しのトラックが止まるのを、わたしは初めて見た。
近所の人たちが、遠巻きに見ている。
「冷蔵庫、どこに置きますか」
黒須さんが、大きな冷蔵庫を一人で抱えて立っていた。
引っ越し屋さんが二人がかりで運ぼうとしていたのを、黙って持ち上げたのだ。
「だ、台所の、あの角に」
「はい」
健一さんが、口を開けて見送った。
荷物が片づくと、黒須さんは庭に大鍋を据えて、豚汁を作り始めた。
タエさんが、近所に声をかけて回った。
「湧き物件に、家族が越してきたんだ。温泉開きだよ。食べにおいで」
最初は、だれも来なかった。
豚汁の匂いが路地に流れていくと、一人、二人と、門の前に人が立ち始めた。
車椅子の、品のいいおばあさんも来た。
介護施設の職員さんに押されて。
「島田さん」
タエさんが手を上げた。
この家の大家さんだ。
島田さんは、庭を走り回る陽太くんと結菜ちゃんを、長いこと見ていた。
「……うちの子たちも、ああやって走ってたのよ」
それだけ言って、ハンカチを目に当てた。
そのとき、門の陰から、黒いフードがのぞいた。
「……タエの匂いと、豚汁の匂いがする」
「ヨル」
ヨルは、わたしのそばまで来ると、大鍋をじっと見上げた。
「わしの分は」
「黒須さんに頼んでください」
黒須さんは、無言でお椀に豚汁をよそい、ヨルに渡した。
慣れた手つきだった。たぶん、こういうことは初めてじゃない。
「だれ?」
結菜ちゃんが、ヨルの前に立っていた。
内見のときは、お兄ちゃんの背中に隠れていた子だ。
ヨルは、豚汁をすすってから答えた。
「魔王じゃ」
結菜ちゃんの目が、まんまるになった。
「お兄ちゃん! 魔王がいる!」
陽太くんが飛んできて、ヨルはあっという間に、子ども二人に両手を引かれていった。
「待て、わしはまだ食べて……おい、引っぱるな」
抗議の声は、だんだん遠ざかって、最後は笑い声に変わった。
◇
夕方、家族と一緒に、温泉の部屋に下りた。
ヨルもついてきた。
ヨルは、丸い部屋の真ん中に立つと、だれもいない天井に向かって、小さく頭を下げた。
「よかったのう。客が来たぞ」
わたしは目を細めた。
青い線が、ほんの少しだけ、明るくなった気がした。
図面の線が明るくなるなんてことは、ないはずなのに。
「ヨル。この家の主さんは、今、どこに」
「おるぞ。ずっと、そこの天井のあたりに」
ヨルは、湯気の向こうを、あごでしゃくった。
わたしには、苔の光しか見えなかった。
「人間には見えぬ。見えぬでよい。主は、客の暮らしを見ておれば、それで満足なのじゃ」
ヨルは、湯船のそばの、いちばん低い腰かけに座った。
三歳の湊くんのための高さだと、そのとき気づいた。
「十二年待って、五人も来た。今夜は、あやつ、眠れぬじゃろうな」
湯船に手を入れた結菜ちゃんが、美咲さんのスマホで写真を撮った。
橙色の苔の光と、湯気と、湯船の縁に並んだ小さな手。
美咲さんは、その場で、その写真をSNSに載せた。
短い一文をつけて。
『引っ越した家の地下に、温泉が湧いてた件』
庭に戻って、豚汁の鍋が空になるころには、知らない人たちの言葉が、その下にずらりと並んでいた。
『湧き物件ってダンジョン付き事故物件でしょ? 大丈夫なの?』
『普通に住みたい』
『家賃三万で温泉付きは草』
『うちの近所の湧き物件も、地下に何かあるのかな』
『どこの不動産屋?』
タエさんの携帯電話が、鳴った。
事務所の電話を、転送してあるのだ。
切った途端に、また鳴った。
「はい、ひだまり不動産です。……はい、湧き物件の。……はい、ございます」
タエさんは、電話を切って、しばらく画面を見ていた。
「うちの電話が、こんなに鳴るのは、十年ぶりだよ」
それから、手提げ袋から小さな紙の箱を出して、わたしの前に差し出した。
「今日渡そうと思って、持ってきてたんだ。遅くなったけどね」
箱の中には、名刺が入っていた。
ひだまり不動産 柚木ひかり。
三倉都市開発の内定通知と一緒に届くはずだった名刺は、結局、一枚も刷られなかった。
わたしの名前が印刷された名刺は、これが初めてだった。
「ありがとう、ございます」
声が、少しだけ震えた。
ここで、働いていいんだ。
この町で、湧き物件を、だれかの家にしていいんだ。
その日、わたしは庭に集まった人たちに、名刺を十二枚配った。
三丁目のことは、すっかり忘れていた。
◇
夜の十時過ぎ。
アパートでノートを広げていると、スマホが鳴った。
タエさんからだった。
「ひかり、起きてるかい」
タエさんの声の向こうで、サイレンが鳴っていた。
「三丁目の源さんの家だ。地面が割れてる」
わたしは、ノートを開いたまま立ち上がった。
開いたページには、あの赤丸の地図がある。
三丁目の角。四月二十八日。
今日は、まだ四月二十八日だった。
三丁目の角の家が、篠宮さんの地図の日付どおりに、湧いた。




