相続会議の内見
「この家、五十万円で売ってしまおうと思うんです」
お姉さんのほうが、そう言って、茶の間の畳に目を落とした。
テーブルの向こうでは、篠宮さんが、売買契約書の束をそろえていた。
◇
本町二丁目。木造二階建て。
この家に一人で住んでいた高梨ふみさんは、この冬、八十八歳で亡くなった。
相続したのは、二人の娘さんだ。
姉の高梨千秋さんと、妹の野々村夏美さん。二人とも、もう別の町に家庭がある。
家は、五年前に湧いた湧き物件だった。
「母が、タエさんにはお世話になったから。売る前に一度、見てもらいなさいって、親戚に言われて」
夏美さんが、申し訳なさそうに言った。
つまり、わたしは「売る前に一度見た」という手続きのために来たのだ。タエさんの代わりに。
「三倉さんからは、五十万円でと言われていて」
「解体費は当社が持ちます。お二人の手元に、五十万円が残ります」
篠宮さんが、淡々と補った。
「ほかに買い手は、まず見つかりません。湧き物件ですから」
千秋さんが、小さくうなずいた。
今度、篠宮さんに会ったら言い返そう。そう思っていた言葉は、一つも出てこなかった。
茶の間の壁に、カレンダーが掛かっていた。
去年の十二月のまま、めくられていない。
台所の窓辺には、空の植木鉢が三つ並び、冷蔵庫には、町内会のごみ当番の表が、マグネットで留めてあった。
ふみさんが、ついこのあいだまで、ここで暮らしていた家だ。
「篠宮さん」
「はい」
「解体したあと、この土地は、どうするんですか」
「当社で更地にして、まとめて再開発します。この一帯は、駅から近いので」
「まとめて、ですか」
「ええ。一軒ずつ古い家が残っているより、そのほうが、町のためになります」
篠宮さんの答えに、迷いはなかった。
本気でそう思っている人の、声だった。
わたしは、篠宮さんの鞄を見た。
あの中に、まだ、赤丸の地図が入っているのだろうか。
「……あの、地下を見せていただいても、いいですか」
篠宮さんが、ちらりと腕時計を見た。
「どうぞ。十分で済むなら」
十分で済ませる気は、なかった。
◇
地下への入り口は、二階の押し入れの床にあった。
階段を下りると、黒須さんが先に「清掃」を済ませて待っていた。苔ネズミが二匹。いつもどおりの、小さな湧きだ。
一層だけのダンジョン。
短い通路の両側に、小さな部屋が三つ。どれも四畳半くらいの、何もない岩の部屋だった。
「ご覧のとおりです」
後ろから下りてきた篠宮さんが言った。
「何もありません」
わたしは目を細めた。
青い線が、視界に重なっていく。
通路。三つの部屋。
三つとも、奥の壁が、少しだけ手前にある。
部屋の形に、違和感があった。
四畳半なら、奥行きはもう少し深いはずだ。三つの部屋が、どれも同じだけ、奥を削られている。
削られた分を足すと、どうなるか。
図面の上で、線をつなぐ。
三つの部屋の奥に、細長い部屋が、ちょうど一つ入る。
「篠宮さん。この三部屋、奥行きがそろって四十五センチ浅いんです」
「それが?」
「四十五センチは、本棚の奥行きです」
篠宮さんが、黙った。
「三つの部屋の奥に、本棚を並べた細長い部屋がある。奥の部屋に入るなら、入り口はたぶん、真ん中の部屋の――」
黒須さんが、もう真ん中の部屋の奥の壁に、手を当てていた。
「ここですか」
「はい。そこです」
黒須さんが押すと、岩の壁が、横に滑った。
ひやりとした、乾いた空気が流れてきた。
古い紙の匂いがした。
◇
細長い部屋の壁は、一面、岩を削った棚になっていた。
棚には、物が並んでいた。
片方だけの手袋。ボタン。ビー玉。錆びた鍵。折り紙の鶴。黄ばんだ年賀状。耳の取れたうさぎのぬいぐるみ。
それから、いちばん奥の棚に、背表紙のそろった大学ノートが、ずらりと。
「……なに、これ」
千秋さんの声がした。
いつの間にか、姉妹も地下に下りてきていた。
千秋さんが、棚の一つに手を伸ばした。
小さな、赤い毛糸の手袋。
「これ、私の」
千秋さんの指が、震えていた。
「小学二年のとき、なくしたの。母が編んでくれたやつで、片方なくして、泣いて、母に怒られて……」
「お姉ちゃん、これ」
夏美さんが、ビー玉を一つ、手のひらに載せていた。
中に、青いねじれ模様が入っている。
「私が、床下に落としたやつだ」
黒須さんが、ぽつりと言った。
「床下に落ちた物が、流れてきたのかもしれません」
本当に、そうだろうか。
床下に落ちた物が、迷宮の中を流れて、この部屋に集まった。
それなら、棚の上で、こんなふうに並ぶはずがない。
手袋は手袋どうし、ビー玉はビー玉どうし。年賀状は、年の順に。
だれかが、並べたのだ。
わたしは、ヨルの言葉を思い出していた。
主は、客を待つ。だから、客間を作る。
この家の主は、家族がなくした物を、拾っておいてくれたのだ。
いつか、取りに来るだろうと思って。
夏美さんが、奥の棚の大学ノートを一冊、抜き出した。
表紙に、丸い字で「日記 ふみ」とある。
「母の日記……。去年の分が、どこにもなかったの。遺品整理のとき、ずっと探してたのに」
夏美さんが、最後のページを開いた。
二人で、のぞき込んだ。
しばらく、だれも何も言わなかった。
やがて千秋さんが、声に出して読んだ。
「――家の下に、だれかいる気がする。怖くはない。なくし物が、ときどき戻ってくるから」
千秋さんの声が、そこで一度、止まった。
「――私がいなくなっても、この家には、だれかに住んでほしい」
◇
茶の間に戻ると、姉妹は長いこと、日記を挟んで話し合っていた。
篠宮さんは、売買契約書を手にしたまま、黙って待っていた。
「柚木さん」
千秋さんが、顔を上げた。
「この家、貸すことはできますか。ひだまり不動産さんで」
「……はい。できます」
「売るのは、やめます。母の、最後の頼みなので」
夏美さんが、うなずいた。
篠宮さんは、契約書を静かに鞄にしまった。
「感情で判断されると、あとで後悔されることが多いのですが」
「後悔しても、いいです」
千秋さんが、赤い手袋を握ったまま言った。
「五十万円より、こっちのほうが、ずっと高いから」
篠宮さんは、何も言わなかった。
かわりに、茶の間を見回した。
古い柱。日に焼けた畳。地下へ続く押し入れ。
篠宮さんの目が、かすかに見開かれた。
スキルを使っている顔だ、と分かった。
何かの数字を、見ている。
「……おかしいな」
篠宮さんが、だれにともなくつぶやいた。
「五十万円、じゃない」




