資産価値ゼロ円
「査定額は、ゼロ円です」
紺のスーツの男の人は、春日さんの家の写真を指さして、そう言った。
契約書にハンコを押す、ほんの五分前のことだった。
◇
その日の午後、ひだまり不動産の小さな応接テーブルには、春日さん一家が並んでいた。
健一さんと美咲さん。陽太くんと結菜ちゃんは、事務所の隅でタエさんにもらった飴をなめている。湊くんは、ベビーカーで眠っていた。
「では、重要事項の説明をします」
タエさんが、老眼鏡をかけ直した。
宅建士証を胸の前に掲げる。重要事項説明は、宅建士にしかできない。わたしは、お茶を出すだけだ。
「本物件は、迷宮湧出建物の取引に関する特別措置法、いわゆる湧き法に定める『湧き物件』に当たります。地下に迷宮があることを、ここでお伝えします」
タエさんの声は、いつもより低くて、ゆっくりだった。
「迷宮の管理は、三か月に一度、探索者資格を持つ者が行います。費用は家賃に含まれます。管理を怠った場合、市が危険迷宮建物に指定し、取り壊しを命じることがあります」
美咲さんの手が、膝の上で小さく握られた。
「当社は、管理を怠ったことは、四十五年で一度もありません」
タエさんが、ほんの少しだけ笑った。
美咲さんの手が、ほどけた。
ああ、と思った。
これが、宅建士の仕事なんだ。
書類の読み上げじゃない。
この人に任せていい、と思ってもらうための時間なんだ。
そのとき、ガラス戸のベルが鳴った。
「失礼します」
入ってきたのは、三十歳くらいの男の人だった。
紺のスーツに、銀の社章。社章の形には、見覚えがあった。
三倉都市開発。
「管理会社のひだまり不動産さんですね。四丁目の物件の所有者、島田様に、当社から買い取りのご提案をお持ちしました」
男の人は、応接テーブルの春日さんたちに気づくと、軽く頭を下げた。
「ご契約中でしたか。お邪魔して申し訳ありません。ですが、ちょうどいい。入居される方にも、知っておいていただいたほうがいいでしょう」
男の人は、テーブルの上の物件資料の写真を、指先で軽く叩いた。
「昨日、外から拝見しました。私のスキルで」
そして、言ったのだ。
「査定額は、ゼロ円です」
事務所が、静かになった。
「湧き物件には、国の評価基準で『迷宮控除』がかかります。地下が湧いた時点で、土地と建物の価値は、ほぼゼロになる。解体費を引けば、マイナス三百万円です。当社なら、二百万円で引き取ります」
「……取り壊すんですか」
健一さんの声が、かすれた。
「いずれは、どの湧き物件もそうなります。皆さんの安全のためです」
男の人の言い方は、丁寧だった。
丁寧なぶん、反論のしようがなかった。
それから男の人は、お茶のお盆を持ったまま固まっているわたしに、目を留めた。
「……柚木さん?」
「ご無沙汰しています、篠宮さん」
三倉都市開発、用地取得部の、篠宮透さん。
半年前、わたしの内定取り消しの面談をした人だ。
「E判定の。こちらにいらしたんですね」
篠宮さんの声には、嘲りも同情もなかった。
事実を確認しているだけ、という声だった。
「建物の間取りが分かるだけのスキルでは、うちの仕事にはなりませんでした。失礼ですが、ここでも同じでは」
言い返したかった。
言い返す言葉を探して、口から出たのは、これだけだった。
「あの家には、温泉があります」
「存じています。温泉付きの湧き物件です」
篠宮さんは、まばたきもしなかった。
「査定は変わりません。湧き物件の価値は、地下の中身では決まらない。湧いたかどうか、それだけです」
お盆の上で、湯のみが小さく鳴った。
ガタン、と椅子の音がした。
タエさんが立ち上がっていた。
「島田さんには、伝えとくよ」
「ありがとうございます」
「返事は、分かってるけどね」
タエさんは台所に消え、すぐに戻ってきた。
手には、食卓塩の瓶。
「ひかり、戸、開けて」
「え、あの、それは」
「開けて」
篠宮さんは、塩の瓶を見て、ほんのわずかに眉を動かした。
それから、春日さんたちに丁寧に一礼して、くるりと背を向けた。
ガラス戸に向かうその足に、陽太くんが走っていった。
飴の袋を落として、拾いに行こうとしたのだ。
ぶつかった。
篠宮さんの脇に抱えていたファイルが落ちて、書類が床に散らばった。
「ごめんなさい!」
「いいよ。怪我は?」
篠宮さんが陽太くんを立たせているあいだに、わたしは書類を拾い集めた。
その中の一枚に、目が吸い寄せられた。
本町の地図だった。
住宅地図の上に、赤い丸がいくつも打ってある。丸の横には、日付。
見出しには、こうあった。
【湧出予定日】
湧き物件の地図ではない。
ひだまり不動産が管理している二十四軒は、どれも丸がついていない。
赤丸がついているのは、まだ湧いていない家だ。
三丁目の角の家にも、赤丸。日付は、四月二十八日。
「社外秘です」
篠宮さんの手が、わたしの手から、その一枚をすっと抜き取った。
表情は、少しも変わっていなかった。
「失礼しました」
ガラス戸が閉まった。
タエさんが、閉まった戸に向かって、本当に塩をまいた。
◇
春日さんたちは、それでも契約書にハンコを押した。
「島田さんはね、売らないよ」
タエさんは、陽太くんの頭をなでながら言った。
「あの家で、子どもを三人育てた人だ。家が空っぽで寂しいって、ずっと言ってた。あんたたちが住むって聞いたら、喜んで泣くよ」
美咲さんが、やっと笑った。
春日さんたちが帰ったあと、わたしは方眼ノートの余白に、さっき見た地図を描いた。
覚えているかぎりの、赤丸の位置。
十八個。
どの丸も、駅の南側に固まっている。
ヨルが、いやな匂いがすると言った方角だ。
「タエさん。湧きって、いつ湧くか、分かるものなんですか」
「分かるわけないだろ。地震と同じだよ」
タエさんは、煮物の鍋を火にかけた。
「分かるって言うやつがいたら、そいつは占い師か、詐欺師だね」
わたしは、ノートの赤丸を見下ろした。
三丁目の角。四月二十八日。
今日は、四月二十一日。
最初の日付は、来週だった。




