聴聞
三倉の封筒は、開けずに返した。
それが、わたしの答えだった。
十月二十八日。県庁の、第五会議室でのことだ。
◇
聴聞の会議室は、思っていたより狭かった。
正面に、県の職員が三人。真ん中の年配の男の人が、聴聞を取り仕切る「主宰者」だ。
右側の机に、三倉都市開発の弁護士が二人。その後ろに、三倉専務が座っていた。
左側の机に、わたしと、タエさん。
タエさんは、昨日、退院したばかりだった。
顔色はまだ白いけれど、背筋は、まっすぐ伸びていた。
「宅建士が来ないで、どうするんだい」
今朝、迎えに行ったとき、タエさんはそう言った。
傍聴席には、春日さん夫婦、高梨さん姉妹、源さん、柳瀬荘の学生さんたち。
宇佐美さんも、休みを取って来てくれていた。
聴聞が始まる前に、わたしは、三倉専務の席まで歩いていった。
「お返しします」
封筒を、机の上に置いた。
封は、切っていなかった。
「中身も見ずに、ですか」
「見たら、迷うと思ったので」
三倉専務は、封筒を見て、それから、わたしを見た。
「残念です」
声は、やはり穏やかだった。
「ですが、柚木さん。十二月になれば、あなたにも分かりますよ。この町に、何が必要か」
十二月。
背中が、冷たくなった。
十二月一日。わたしが、やぐらの上で読んだ日付だ。
この人は、知っている。根が育ちきる日を。
◇
「申し立ての内容を、確認します」
主宰者が、書類を読み上げた。
「本年四月二十一日、ひだまり不動産において、宅地建物取引士でない柚木ひかり氏が、賃貸借契約の重要事項の説明を行った疑い。証拠として、申立人から映像の提出があります」
スクリーンに、あの三分の動画が映った。
お盆を持ったわたし。
『あの家には、温泉があります』
うなずく春日さん。契約書に手を伸ばす健一さん。
傍聴席から、小さなざわめきが起きた。
「日比野社長。意見を」
「はい」
タエさんが、ゆっくりと立ち上がった。
「重要事項の説明は、すべて、宅建士の私がしました。証拠を出します」
タエさんは、鞄から、古いカセットテープを一本、取り出した。
「四十五年、重要事項説明は全部、お客さんの同意をもらって、録音しています。これは、四月二十一日の、春日様の分です」
会議室の、古いラジカセから、タエさんの声が流れ始めた。
『では、重要事項の説明をします。本物件は、迷宮湧出建物の取引に関する特別措置法、いわゆる湧き法に定める……』
低くて、ゆっくりした声。
あの日、わたしがお茶を出しながら聞いていた声だった。
主宰者が、時計を見ながら、テープを聞いていた。
五分。十分。二十分。
タエさんの説明は、途切れなかった。湧き法の告知。管理の説明。家賃と費用。解約の条件。
三十八分のところで、ガラス戸のベルの音が入った。
篠宮さんの声。『査定額は、ゼロ円です』。
四十一分。タエさんの声。『島田さんには、伝えとくよ』。
「十分です」
主宰者が、手を上げた。
「日比野社長が説明を行ったことは、確認しました」
「異議があります」
三倉の弁護士が、立ち上がった。
「日比野社長が説明を行ったことは、否定しません。しかし、提出映像のとおり、柚木氏も説明に加わっています。温泉の存在という、物件の重要な事項について、柚木氏が説明している。録音は、それを否定するものではありません」
会議室が、静かになった。
タエさんが、唇をかんだ。
病院で言っていたとおりだった。録音で、タエさんの説明は証明できる。でも、わたしが説明していないことまでは、証明できない。
「――主宰者」
わたしは、手を挙げていた。
「映像を撮影した人に、話を聞いていただけませんか」
◇
篠宮さんが会議室に入ってきたのは、それから一時間後だった。
主宰者が、職権で、参考人として呼んだのだ。
三倉の弁護士は、強く反対した。でも、主宰者は首を横に振った。
「映像の撮影者に事情を聞くのは、当然です」
篠宮さんは、紺のスーツを着ていた。
参考人の席に座ると、まっすぐ、主宰者を見た。
三倉専務の席のほうは、一度も見なかった。
「この映像は、あなたが撮影したものですか」
「はい。私の営業記録用のカメラで、撮影しました」
「この映像は、編集されていますか」
会議室じゅうが、篠宮さんを見ていた。
「はい」
篠宮さんは、少しも迷わなかった。
「私が撮影した元の映像は、五分四十秒です。提出された映像は、三分八秒です。日比野社長が映っている場面は、すべて削られています。編集は、私が行ったものではありません」
三倉の弁護士が、立ち上がりかけた。
主宰者が、手で制した。
「元の映像で、柚木氏は、重要事項の説明を行っていましたか」
「いいえ」
篠宮さんは、わたしのほうを、ちらりと見た。
「元の映像で、柚木さんが話したのは、一言だけです。『あの家には、温泉があります』。……それは、春日様への説明ではありません。私に対する、反論でした」
傍聴席から、息をのむ音がした。
「私が、あの家の査定額をゼロ円だと言ったので。柚木さんは、それに言い返したんです」
篠宮さんは、少しだけ、口の端を上げた。
「そのときの私は、反論になっていないと思いました。……でも、今は、あの一言が正しかったと思っています。あの家の現在の査定額は、一千二百万円です」
「参考人。査定額は、本件と関係ありません」
「失礼しました」
篠宮さんは、軽く頭を下げた。
「聞かれたことには、答えます。数字も、事実も」
◇
聴聞は、それで終わった。
主宰者が、最後に言った。
「本件については、処分の必要なし、との報告書をまとめる方向で検討します」
傍聴席で、陽太くんが、立ち上がって手を叩きかけた。
美咲さんが、慌てて口をふさいだ。
タエさんが、椅子に座り込んだ。
それから、わたしの手を、ぎゅっと握った。痛いくらいに。
「……よくやった」
小さな声だった。
「私は、何もしてません。タエさんのテープと、篠宮さんが」
「あんたが、呼んだんだろ。篠宮を」
タエさんは、目を細めた。
「人を見る目も、間取りと一緒だね。あんたは、ちゃんと筋の通ったところを見てる」
会議室を出ると、廊下の窓ぎわに、篠宮さんが立っていた。
「篠宮さん。ありがとうございました」
「事実を言っただけです」
「でも、会社は」
「明日、辞表を出します」
篠宮さんは、窓の外を見た。
「数字に嘘がつけない人間は、あの会社にはいられない。……父に、少し似てきたかもしれません」
その横顔は、思っていたよりも、ずっと晴れやかだった。
三倉専務は、いつの間にか、いなくなっていた。
◇
帰りの電車の中で、スマホが震えた。
宇佐美さんからだった。
同じ電車の、隣の車両に乗っているはずだ。
『今、市から緊急連絡が』
メッセージが、続けて届いた。
『本町の三か所で、同時に湧きが始まっています』
『二丁目、五丁目、六丁目』
『予測リストにない家です』
顔を上げると、隣の車両から、宇佐美さんが走ってくるのが見えた。
窓の外に、本町の町並みが近づいてくる。
駅前のやなせプラザの上の空が、夕焼けの中で、少しだけ、黒くかすんで見えた。




