篠宮の選択
数字は、嘘をつかない。
篠宮透は、三十一年間、そう信じて生きてきた。
その数字に、嘘をつけと言われたのは、初めてだった。
◇
三倉都市開発の本社ビル、二十八階。
専務室の窓からは、柳瀬市の町並みが、模型のように小さく見えた。
「本町の湧き物件、全件の査定書だ」
三倉恭一郎は、机の上の書類の束を、指先で叩いた。
「市に提出する。警戒区域の指定の、根拠資料になる。全件、ゼロ円で頼む」
篠宮は、書類の一番上の一枚を見た。
本町四丁目、春日邸。
「四丁目の春日邸の現在の査定額は、一千二百万円です」
「迷宮控除がある」
「迷宮控除を適用したうえで、一千二百万円です。私のスキルが、そう示しています」
「篠宮くん」
三倉は、穏やかに微笑んだ。
「君のスキルは、A判定だ。会社は、君の目を信じて、高い給料を払っている。……その目が、湧き物件に一千二百万円の値をつけるなら、目のほうが疲れているのではないかね」
「疲れていません」
「では、もう一つ」
三倉は、引き出しから、小さな黒いカメラを取り出した。
篠宮が、いつも胸ポケットに挿していた、営業記録用のカメラだった。
「来週、県の聴聞がある。ひだまり不動産の件だ。君には、当社の証人として出てもらう。提出した映像に、編集はない。そう証言してくれればいい」
篠宮は、カメラを見た。
五分四十秒の映像が、三分に縮められ、日比野社長の姿が消されていた。
自分は、編集に一切関わっていない。映像を提出したことすら、通知書の写しを見るまで知らなかった。
「専務。あの映像は」
「篠宮くん」
三倉の声は、少しも変わらなかった。
「君のお父さんの店のことは、聞いている。情で判断して、全部を失った。……君は、そうならないために、数字の仕事を選んだんだろう」
篠宮は、黙った。
「会社の数字を守るのも、数字の仕事だよ」
◇
その日の夕方、篠宮は、用地取得部から、資料管理室への異動を言い渡された。
査定書には、一枚もサインしなかった。
聴聞の証人も、断った。
資料管理室は、地下二階の、窓のない部屋だった。
篠宮は、段ボールに私物を詰めながら、ノートパソコンを開いた。
社内サーバーの、営業記録のフォルダ。
四月二十一日。ひだまり不動産。五分四十秒。
原本は、まだ残っていた。
篠宮は、しばらく、そのファイル名を見ていた。
それから、パソコンを閉じた。
会社の記録を、勝手に外に出すことはできない。
それは、数字を偽るのと、同じことだ。少なくとも、自分にとっては。
父の店の、最後の日を思い出した。
シャッターに貼られた、閉店のお知らせ。買い手の会社が提示した、最初の値段と、最後の値段。
あのとき父に、正しい数字を、正しく見せてくれる人がいたら。
篠宮は、目を閉じた。
自分にできるのは、たぶん、それだけだ。
◇
「篠宮さんが、異動に?」
手術が終わって三日目のタエさんは、ベッドの上で、ゼリーを食べていた。
手術は、うまくいった。明日には、退院できるらしい。
「宇佐美さんから聞きました。用地取得部から、外されたって」
「査定書を、断ったんだろうね」
タエさんは、スプーンを置いた。
「あの男は、数字に嘘がつけない。商売人としちゃ損な性分だ。……嫌いじゃないよ」
その日の閉店間際、ひだまり不動産のガラス戸のベルが鳴った。
白いシャツに、ジーンズ。
篠宮さんだった。
「突然、申し訳ありません」
「……どうぞ」
わたしは、応接テーブルにお茶を出した。
篠宮さんは、一口飲んで、湯のみを置いた。
「担当から、外れました。もう、本町の物件を査定する立場にはありません」
「聞きました」
「それを、お伝えしに来ただけです」
わたしは、聞きたかったことを、聞いた。
「聴聞の動画、篠宮さんのカメラの映像ですよね」
「はい」
「元の映像は、ありますか」
「あります。社内のサーバーに」
「それを――」
「お渡しすることは、できません」
篠宮さんは、まっすぐ、わたしを見た。
「会社の記録を、外に出すことはできない。それは、私にとっては、数字を偽るのと同じことです。……すみません」
わたしは、うなずいた。
この人は、そういう人なのだ。
「ただ」
篠宮さんは、湯のみを両手で包んだ。
「もし、聴聞の場で、証人として呼ばれれば。聞かれたことには、答えます」
篠宮さんは、立ち上がった。
「数字は、聞かれたら答える。それが、私の仕事なので」
ガラス戸が閉まった。
わたしは、篠宮さんの湯のみを、しばらく見ていた。
聴聞で、篠宮さんを証人として呼ぶ。
呼べるのだろうか。三倉の社員を、こちら側から。
◇
次の日の昼。
ガラス戸のベルが、また鳴った。
「失礼します」
グレーのスーツ。銀の社章。
三倉専務だった。秘書らしき男の人を、二人連れていた。
「日比野社長は、ご入院中と伺いました。柚木さんに、お話があって参りました」
わたしは、立ち上がった。
膝が、少し震えた。
「どうぞ」
三倉専務は、応接テーブルに座ると、事務所の中を、ゆっくりと見回した。
色あせた物件のチラシ。奥の台所の、煮物の鍋。こたつ。
「いい事務所ですね。古き良き、町の不動産屋だ」
「ありがとうございます」
「単刀直入に申し上げます」
三倉専務は、鞄から、一通の封筒を取り出した。
見覚えのある、三倉都市開発のロゴ入りの封筒。
「柚木さん。うちに入りませんか」
「……え」
「あなたの《間取り》は、当社の判断の誤りでした。地下の構造を読み、隠し部屋を見つけ、迷宮の安定を見極める。これほど、再開発に役立つ力はない」
三倉専務は、封筒を、わたしの前に滑らせた。
「新しく作る、『湧き物件再生事業部』の責任者として、お迎えしたい。給与は、ここの三倍は出しましょう」
「条件が、あるんですよね」
「察しがいい」
三倉専務は、微笑んだ。
「明日の聴聞で、あなたが重要事項の説明に加わったと、認めていただく。ひだまり不動産は、業務停止になる。日比野社長は、ご高齢で、ご病気だ。ちょうどいい引き際でしょう」
息が、詰まった。
「それから、本町の再開発に、あなたの目を貸していただく。プラザの地下を、あなたなら、きっと読める」
三倉専務は、知っているのだ。
プラザの地下が、黒く塗りつぶされていることを。
自分たちには、そこが読めないことを。
「ひだまり不動産がなくなれば、本町の湧き物件の管理は、当社が引き継ぎます。春日さんも、源田さんも、学生さんたちも、悪いようにはしない」
三倉専務は、ゆっくりと立ち上がった。
「お返事は、聴聞の日まで、お待ちします」
ガラス戸の前で、三倉専務は、一度だけ振り返った。
「柚木さん。内定は、取り消しを、取り消します」




