試験の日
十月十八日、日曜日。
宅地建物取引士試験。午後一時から三時まで、二時間。五十問。
三回目の、本番だった。
◇
朝、スマホが鳴った。
「起きてるかい」
タエさんだった。
八月の終わりの検査で、心臓に病気が見つかって、タエさんはまだ入院している。来週、手術を受ける予定だった。
「起きてます。もう、ずっと前から」
「寝られなかったんだろ」
「……少しは寝ました」
「嘘をつくときに語尾が小さくなるのは、試験じゃ直らないよ」
電話の向こうで、タエさんが笑った。
少し、息が苦しそうだった。
「いいかい、ひかり。分からない問題は、飛ばす。最後に戻る。四択で迷ったら、最初に選んだほうを信じる」
「はい」
「それから、権利関係の第十二問あたりで、毎年、借地借家法のひっかけが出る。あんたが二回とも落としたところだ」
「付箋に書いてありました」
「なら、いい」
少しの沈黙。
「……あんたが受かったら、最初の重要事項説明は、あんたにやってもらうからね」
「タエさんの手術が終わってから、です」
「生意気だね」
電話が切れた。
わたしは、しばらく、スマホを握ったまま座っていた。
家を出ようとしたとき、アパートのドアの郵便受けが、かたん、と鳴った。
のぞくと、小さな紙包みが一つ、落ちていた。
広げると、中から、親指の先ほどの、白い小石が出てきた。
小石は、ほんのりと光っていた。
ヨルの家の地下の、白い苔の光と、同じ色だった。
包み紙に、筆ペンで、大きな字が書いてあった。
字は読めるけれど、意味は分からない、と言っていたヨルの字だ。
【おまもり わしの家の灯り なくすでないぞ】
わたしは、小石を、筆箱の中の、消しゴムの隣に入れた。
◇
試験会場は、柳瀬市の私立大学だった。
小野寺くんたちが通う大学だ。
正門をくぐると、受験生が、長い列を作っていた。
スーツの人、ジャージの人、年配の人、高校生くらいの人。
受付の手前で、肩を叩かれた。
「柚木」
岸本くんだった。
三倉設備の青い作業着ではなく、チェックのシャツを着ていた。
「岸本くんも、受けるの」
「会社の命令。三倉グループの社員は、全員受けろってさ。落ちたら、査定に響く」
岸本くんは、受験票を見て、ため息をついた。
「俺、勉強、全然してない。夜の仕事が忙しくて」
「水道工事、まだやってるの」
「いや。工事は、九月で全部終わった」
岸本くんは、少し声を落とした。
「最近は、運搬ばっか。駅前の、やなせプラザ。知ってる?」
「閉店した、ショッピングセンター」
「そう。あそこの地下に、毎晩、箱を運んでる」
「箱?」
「工事のときに使ってた『部材』の箱。重くて、冷たくて、開けるなって言われてる。水道の継ぎ手の下に、一つずつ入れてたやつ」
背中が、すっと冷たくなった。
「それを、今は、プラザの地下に?」
「うん。毎晩、トラック一台分。……なんで、ショッピングセンターの地下に、水道の部材が要るんだろうな」
岸本くんは、本当に不思議そうに首をかしげた。
「岸本くん」
「ん?」
「その箱、絶対に、開けないでね」
岸本くんは、きょとんとしたあと、笑った。
「開けないよ。開けたら、クビになる」
受付の係の人が、わたしたちを呼んだ。
わたしは、ポケットの中のノートを、ぎゅっと握った。
やなせプラザ。
宇佐美さんの手帳の、四十一個の赤丸が、固まっていた場所。
今は、考えない。
今日は、試験の日だ。
◇
午後一時。
「始めてください」
試験官の声と同時に、教室じゅうで、問題用紙をめくる音がした。
第一問。民法。
第二問。民法。
三回目なのに、手が震えた。
去年も、おととしも、この震えのまま、最初の十問で時間を使いすぎた。
分からない問題は、飛ばす。
第五問を飛ばした。第八問を飛ばした。
第十二問。借地借家法。
――ひかりが絶対まちがえるところ。
付箋の字が、目に浮かんだ。
読み直す。もう一度、読み直す。
ひっかけは、問題文の最後の一行にあった。
去年のわたしなら、選んでいた選択肢を、選ばなかった。
第二十問を過ぎたあたりで、震えが止まった。
宅建業法。
わたしが一番時間をかけて勉強した分野だ。タエさんの付箋が、いちばん多かったところ。
第三十四問。
【重要事項の説明に関する次の記述のうち、正しいものはどれか】
問題文を読んだ瞬間、景色が浮かんだ。
ひだまり不動産の、小さな応接テーブル。
老眼鏡をかけ直す、タエさん。
膝の上で、ぎゅっと握られていた、美咲さんの手。
――当社は、管理を怠ったことは、四十五年で一度もありません。
あの一言で、美咲さんの手が、ほどけた。
重要事項説明は、書類を読み上げることじゃない。
この人に任せていい、と思ってもらうための時間だ。
春日さんの家族の顔が浮かんだ。
ふみさんの日記を抱えた、千秋さんと夏美さん。
星の部屋に寝転んだ、ことはちゃん。
鍋を囲む、柳瀬荘の学生さんたち。
作業台に額をつけて泣いていた、源さん。
あの人たちに、いつか、わたしの言葉で、説明をする。
正しい選択肢に、印をつけた。
◇
午後三時。
「やめてください」
鉛筆を置いた。
手ごたえは、分からなかった。
去年よりは、解けた気がする。でも、去年も、そう思っていた。
飛ばした問題は、最後に全部戻って、埋めた。
四択で迷ったら、最初に選んだほうを信じた。
タエさんに言われたことは、全部やった。
それで十分だ、と思うことにした。
答案が回収されて、教室じゅうが、ざわざわと動き出した。
岸本くんが、遠くの席で、机に突っ伏していた。
廊下に出て、スマホの電源を入れた。
着信が、十二件あった。
黒須さん。宇佐美さん。源さん。小野寺くん。黒須さん。黒須さん。
メッセージも、何件も届いていた。
開こうとしたとき、窓の外から、音がした。
低く、長く、うねるような音。
町じゅうに、響いている。
防災無線だった。
『こちらは、柳瀬市役所です。本町地区、駅前周辺で、道路の陥没が発生しました。付近の皆さんは、近づかないでください。繰り返します――』
わたしは、廊下を走った。
大学の正門を出ると、駅の方角の空に、土ぼこりのような、白いもやが上がっていた。
駅前。
やなせプラザの、すぐ前だった。




