わたしのおうち
ヨルが目を覚ましたのは、三週間後だった。
そのあいだに、タエさんは入院し、ひだまり不動産は、契約を一件も結べなくなった。
宅建士が、一人もいなくなったからだ。
◇
「過労だよ。年寄りの冷や水ってやつさ」
病院のベッドの上で、タエさんは、点滴の管を邪魔そうに払った。
「医者は大げさなんだ。三週間も寝てろなんて」
「寝ててください」
「事務所は」
「管理の仕事は、黒須さんと回してます。新しい契約は、全部お待ちいただいてます」
タエさんが、天井を見上げた。
「……重要事項説明が、できないからね」
わたしは、うなずいた。
内見の申し込みは、毎日のように来た。
ゴウさんの動画のあとから、湧き物件に住みたいという人は、増える一方だった。
隠し部屋を見つけることはできる。
その家の良さを、いくらでも話すことはできる。
でも、最後の一押しが、できない。
「試験まで、あと二か月だよ」
タエさんが、わたしを見た。
「あんたが受からなきゃ、うちは本当に、店じまいだ」
問題集は、三冊とも、付箋で膨らんでいた。
◇
八月の半ば。お盆の入りの日だった。
わたしは、タエさんに頼まれた書類を探して、事務所の古いキャビネットを開けていた。
管理物件の、契約書の綴り。
一丁目の平屋の契約書は、薄かった。
契約者の欄に、タエさんの字で、「魔王」と書いてある。
それだけだった。住所も、生年月日も、連絡先もない。保証人の欄には、なぜか「日比野タエ」と書いて、ハンコが押してあった。
入居は、今年の一月。家賃は三万円。滞納の記録は、その月から一度も途切れていない。
管理費の記録は、ゼロ。
わたしは、契約書の「魔王」の字を、指でなぞった。
ヨルには、ヨルという名前がある。
子どもたちが、表札まで作ってくれた。
ちゃんとした契約書を、作り直そう。
そう思って、契約書を抱えて、一丁目へ向かった。
ヨルが眠ってから、毎日、様子を見に行っていた。
和室のこたつは、ずっと空っぽだった。
その日、玄関の引き戸を開けると、こたつ布団が、もぞりと動いた。
◇
「……腹が減った」
黒いフードの中から、かすれた声がした。
「ヨル」
わたしは、靴を脱ぎ捨てて、和室に駆け込んだ。
ヨルは、こたつに肩まで潜り込んでいた。
顔色は、まだ少し淡い。でも、輪郭は、もう朝の光に溶けたりしていなかった。金色の目が、ちゃんと、灯りを映していた。
「タエの煮物は」
「タエさんは、入院中です」
「……そうか」
ヨルは、少しだけ目を伏せた。
「わしが寝ておるあいだに、いろいろあったようじゃな」
「いろいろ、ありました」
わたしは、こたつの横に正座した。
膝の上に、父の図面帳を置いた。
ヨルが、図面帳を見た。
それから、わたしを見た。
「……ついてまいれ」
◇
地下のいちばん奥に、その部屋はあった。
客間ではなかった。
白い苔の光が、ほんの少しだけ灯っている、小さな部屋。何もない岩の床の真ん中に、古い木の箱が一つ、置いてあった。
「主の部屋じゃ。人を入れたのは、おぬしが初めてじゃ」
ヨルは、箱のふたを開けた。
ビー玉。赤い靴下の片方。星形のシール。
ヨルは、底のほうから、四つに折りたたまれた画用紙を取り出した。
広げた。
色鉛筆で描かれた、家の間取り図だった。
定規を使わずに引いた、ゆがんだ線。玄関、台所、居間、子ども部屋。
家の下に、階段。その先に、小さな部屋が一つ。
小さな部屋の中に、黒い服の女の子の絵。
【ヨルちゃんのへや】
右下に、大きめの字で。
【4年2組 ゆずき ひかり】
わたしは、画用紙に手を伸ばして、途中で止めた。
指が、震えていた。
「……わたしが、描いた」
「そうじゃ」
「十歳の夏に。地下の、女の子に、あげた」
「わしにな」
ヨルは、画用紙を、わたしの手のひらに載せた。
「おぬしは、毎日、わしの家に下りてきた。止められても、叱られても。そして、毎日、わしの家の間取りを描いた。廊下が何歩、部屋がいくつ、階段が何段。わしが作り直すたびに、目を輝かせて、描き直しおった」
思い出した。
湿った石の階段。白い苔の光。
「この廊下、昨日より長くなってる」と言うと、黒い服の女の子が、得意そうに笑った。
「おぬしのために、伸ばしてやったのじゃ」
「主の家を、毎日見て、毎日描いた人間の子は、目が変わる」
ヨルは、わたしの目を、まっすぐに見た。
「おぬしの《間取り》は、わしの家で育った目じゃ」
◇
「どうして、言ってくれなかったんですか」
声が、上ずった。
「最初に会ったときから、分かってたんでしょう。わたしだって」
「分かっておった。タエの店に、柚木という名の娘が入ったと聞いたときから」
「なら」
「言えなんだ」
ヨルは、膝を抱えて、うつむいた。
「わしは、おぬしの家を守れなんだ」
小さな声だった。
「人間たちが、重い機械で、上の家を崩し始めたとき、わしは地下で、必死に支えた。崩れぬように。おぬしの家族が、戻ってこられるように。……じゃが、人間たちは、地下まで掘り返した。わしの家の核を、砕いた」
ヨルの肩が、震えていた。
「家を守れなんだ主など、思い出さぬほうがよい。おぬしが忘れておるなら、それでよいと思うた。……あの夏のことは、夢じゃったと思うておれば、おぬしは、壊された家のことで、苦しまずに済む」
わたしは、図面帳を開いた。
最後のページ。
鉛筆で描き足された、地下の間取り。
「父が、書いてました」
ヨルが、顔を上げた。
「階段、十三段。廊下、二間半。崩れる気配なし。……地下は危なくない。あの子がいるから」
鉛筆の字を、一つずつ、指でたどった。
「父は、市に、何度も説明しに行ったそうです。地下は危なくない、直せば住める、って。ヨルのことを、守ろうとしてたんです」
ヨルが、父の字を見つめていた。
「守れなかったのは、ヨルだけじゃない。父も、わたしも、だれも守れなかった。……でも、ヨルが支えてくれてたこと、父は、ちゃんと知ってた」
金色の目から、ぽろりと、一粒、何かがこぼれた。
主も、泣くのだと思った。
「ヨル」
わたしは、色鉛筆の間取り図を、図面帳の最後のページの隣に並べた。
十歳のわたしが描いた、ヨルの部屋。
父が描いた、ヨルの部屋。
「いつか、ヨルの部屋を、また作ろう。今度は、壊させない家に」
ヨルは、しばらく何も言わなかった。
それから、パーカーの袖で、ごしごしと目をこすった。
「……約束じゃぞ」
「約束です」
「破ったら、家賃を取り立てに行くぞ」
「それ、こっちのセリフです」
二人で、笑った。
笑いながら、二人とも、泣いていた。
◇
その夜、新しい契約書を作った。
入居者の欄に、「ヨル」と書いた。
家賃の欄は、三万円。その横に、但し書きを足した。
――ただし、地下の管理をもって、家賃の支払いに代える。
タエさんに見せたら、きっと「最初からそう書けばよかったね」と笑うだろう。
事務所に戻ると、郵便受けに、一通の封筒が入っていた。
分厚い、茶色の封筒。差出人は、県の、宅地建物取引業の担当課だった。
封を切った。
【聴聞通知書】
ひだまり不動産が、宅地建物取引士でない者に、重要事項の説明をさせた疑い。
申し立て人は、三倉都市開発株式会社。
業務停止処分を前提とした、聴聞を行う。
同封の紙に、証拠として、動画の静止画が何枚も印刷されていた。
春日さんの家の、契約の日の事務所。
お茶のお盆を持って立つ、わたし。
その下に、太い字で書かれていた。
聴聞の期日は、十月二十八日。
宅建試験の、十日後だった。




