三軒同時
ヨルに、聞かなければならないことがあった。
でも、その夜、わたしはヨルの家にたどり着けなかった。
本町の三か所で、同時に、地面が鳴り始めたからだ。
◇
源さんの家を出たのは、夜の九時過ぎだった。
父の図面帳を胸に抱えて、わたしは一丁目へ向かって歩いていた。
ヨルの部屋。あの子。ひかりの友だち。
頭の中で、鉛筆の文字がぐるぐる回っていた。
スマホが鳴った。
宇佐美さんからだった。
「柚木さん。予測リストが、更新されました」
宇佐美さんの声は、いつになく早口だった。
「三倉から、市のシステムに、さっき。湧出予定日が、三軒、前倒しになっています」
「いつに、ですか」
「今夜です」
足が、止まった。
「二丁目の佐藤さん、五丁目の山根さん、六丁目の空き家。三軒とも、今夜、日付が変わる前後」
この六週間で、わたしと黒須さんは、戸川さんの家を入れて、表の家のうち三軒の庭から、種を掘り出していた。
所有者が同意してくれた家だけだ。断られた家もあった。三倉に、もう売ってしまった家もあった。
予測は、何度も外れた。
三倉が、気づかないはずがなかった。
「……先回りされるのが嫌だから、早めたんですね」
「そうとしか思えません」
宇佐美さんの声が、悔しそうに揺れた。
「三軒とも、住民の避難は私がやります。でも、湧いてしまったら、私には、指定の紙を書くことしかできない」
「止めます」
わたしは、もう走り出していた。
◇
三軒は、本町の三つの通りに、ばらばらに散らばっていた。
一人では、回りきれない。
事務所に電話をかけると、タエさんがすぐに出た。
事情を話し終える前に、タエさんは言った。
「蓮は五丁目に向かわせる。源さんにも電話する。あんたは、一番見通しのいい場所に立ちな」
「見通しの、いい場所」
「あんたの目は、一軒ずつしか見えないのかい」
はっとした。
わたしは、本町の真ん中にある、小さな公園へ走った。
すべり台のてっぺんに登る。
目を細めた。
青い線が、重なる。
いちばん近い、五丁目の山根さんの家。その下で、黒い結び目が、もう根を広げ始めていた。
もっと。
もっと遠くまで。
目の奥が、じんと熱くなった。
青い線の網が、少しずつ、少しずつ広がっていく。五丁目の通り。その向こうの路地。六丁目の、空き家。
二軒、同時に見えた。
頭が割れそうだった。
でも、見えた。
「黒須さん、五丁目の山根さんの家、玄関の右手の植え込みの下、一メートル。もう根が出てます。急いでください」
電話の向こうで、スコップが土に入る音がした。
「六丁目の空き家は……」
空き家の下で、黒い結び目が、どくん、と脈打った。
根が、もう、家の基礎に届きかけていた。
間に合わない。
「六丁目は、わしが行く」
すべり台の下から、声がした。
ヨルだった。
いつの間にか、黒いフードが、公園の暗がりに立っていた。
「タエが、知らせに来た」
「でも、ヨル、もう夜です。家を空けたら」
「半日はもつと言うたじゃろう」
ヨルは、もう走り出していた。
「芽が出かけた種なら、わしが抑えておける。おぬしの目が要るのは、掘る者のほうじゃ」
◇
その夜のことは、ところどころしか覚えていない。
五丁目の山根さんの家で、黒須さんが種を掘り出した。
二丁目の佐藤さんの家には、源さんが軽トラックで駆けつけた。モグさんが、源さんの家の地下から、ほんの少しだけ顔を出して、ついていったらしい。「年寄りを夜中に働かせおって」と、ぶつぶつ言っていたそうだ。
柳瀬荘の学生さんたちが、懐中電灯とスコップを抱えて、路地を走り回っていた。
わたしは、すべり台のてっぺんで、三軒の下を、交互に見続けた。
「源さん、もっと北です。物干し台の、真下」
「黒須さん、根が二本残ってます。左に」
「ヨル……」
六丁目の空き家の下で、黒い結び目が、何度も何度も、脈打とうとしていた。
そのたびに、何かが、それを押さえつけていた。
小さな、金色の光が、結び目のすぐそばに見えた気がした。
「黒須さん、五丁目が終わったら、六丁目へ。ヨルが、一人で押さえてます」
午前三時。
六丁目の空き家の庭で、黒須さんが、最後の種を掘り出した。
わたしは、すべり台のてっぺんに座り込んだ。
目の奥が、焼けるように痛かった。
三軒とも、湧かなかった。
◇
空が白み始めたころ、六丁目の空き家に駆けつけた。
庭の真ん中に、黒須さんがしゃがみ込んでいた。
その腕の中に、ヨルがいた。
「ヨル!」
ヨルの体が、薄かった。
透けている、というのとは少し違う。
輪郭が、朝の光に溶けかけている。パーカーの黒も、髪の黒も、どこか色が抜けていた。
「……家を、空けすぎた」
ヨルが、目を開けた。
金色の目も、いつもより、ずっと淡かった。
「眠る。……しばらく、起こすな」
「しばらくって、どのくらい」
「わからん。……家に、連れて帰れ」
黒須さんが、ヨルを抱き上げた。
軽い、と黒須さんがつぶやいた。
わたしは、ヨルの小さな手を握った。
冷たかった。
「ヨル。聞きたいことが、あるんです」
ヨルの目が、ゆっくりと、わたしを見た。
「……ひかり」
かすれた声だった。
「あの帳面を、見たのじゃな」
息が、止まった。
ヨルは、それ以上、何も言わなかった。
目を閉じて、黒須さんの腕の中で、静かに眠っていた。
◇
ヨルを一丁目の平屋に寝かせて、事務所に戻ったのは、朝の六時だった。
表の残りは、十一軒。
断られた家と、三倉に売られた家と、まだ日付の来ていない家。
ガラス戸の鍵は、開いていた。
事務所の明かりが、ついたままだった。
タエさんは、一晩じゅう、ここで電話を受けていたはずだ。
住民からの問い合わせ。市からの連絡。源さんや学生さんたちとのやりとり。
「タエさん、ただいま戻りました。三軒とも……」
言いかけて、声が止まった。
応接テーブルの横に、電話の受話器が、ぶら下がっていた。
ツー、ツー、という音が、小さく鳴り続けていた。
その下の床に、タエさんが倒れていた。




