父の図面帳
父が最後に描いた間取り図は、わたしの家だった。
十二年前に壊された、川沿いの家。
その地下に、わたしの知らない部屋が、鉛筆で描き足されていた。
◇
源さんの家の地下の作業場は、木の香りがした。
ぶ厚い一枚板の作業台。壁の木の釘には、鉋や鑿や鋸が、きちんと並んで掛かっている。
台の上には、近所の子どもたちと作りかけの、小さな椅子が三つ。
源さんは、作業台の端に、一冊の帳面を置いた。
布張りの表紙は、角がすり切れて、色が抜けていた。
表紙に、黒いマジックで、名前が書いてある。
柚木修一。
父の字だった。
角ばっていて、右肩上がりで、「柚」の木へんだけが、妙に小さい。
「北村工務店って、知ってるか」
「……父が、勤めてたところです」
「俺もだ。三十年な」
源さんは、作業台の前の丸椅子に、どっかりと腰を下ろした。
「修一は、俺の三十下の弟子だった。高校を出てすぐ、うちの工務店に来た。不器用でな。最初の三年は、鉋もろくにかけられなかった」
知らない父だった。
わたしが知っている父は、どんな木でも、まるで紙を撫でるように削る人だった。
「でも、あいつは、家を直すのがうまかった」
源さんは、帳面の表紙を、指でとんとんと叩いた。
「新しく建てるより、古い家を直すほうが好きだった。雨漏りの家、傾いた家、だれも住まなくなった家。そういう家の図面を、自分で描き起こして、どこを直せば住めるようになるか、何日も考える。……変わったやつだった」
「家は、住む人がいれば直せる」
わたしが言うと、源さんは、ゆっくりうなずいた。
「あいつの口癖だ」
◇
「十二年前、あいつの家が湧いた」
源さんの声が、低くなった。
「あいつは、市に何度も掛け合った。地下は危なくない、直せば住める、ってな。図面まで描いて持っていった。……でも、だれも取り合わなかった。湧きなんて言葉もなかったころだ。前例がない、危険だ、の一点張りでな」
わたしは、重機の音を思い出していた。
庭の端に立って、自分の建てた家が崩されるのを見ていた、父の背中を。
「家が壊されたあと、あいつは工務店を辞めた」
「……え」
「もう家を建てる気になれない、って言ってな。最後に、この帳面を俺に預けていった。捨てられないから、持っててくれって」
知らなかった。
父は、わたしには、「会社の都合で辞めた」と言っていた。それから工場に勤めて、五年前に、病気で亡くなった。
「返そうと思ってたんだ。ずっと」
源さんは、帳面を、わたしのほうへ押し出した。
「でも、お前らは引っ越して、連絡もつかなくなった。……審査会で、お前があの図面を広げたとき、そっくりだと思ったよ。描き方が。線の引き方が。あいつと、同じだった」
わたしは、帳面を両手で受け取った。
ずしりと重かった。源さんの鑿と、同じくらい。
◇
帳面には、家が詰まっていた。
一ページに、一軒。
父が建てた家、直した家の、間取り図。
鉛筆の下書きの上に、黒いペンで清書してある。柱の位置、梁の太さ、使った木の種類。余白には、細かい字で、メモがびっしりと書き込まれていた。
――南の窓を広げる。おばあちゃんが日なたで編み物をするので。
――階段の手すりは、低いほうにもう一本。孫が来るから。
――この柱は残す。施主のお父さんが、背比べの線を刻んだ柱だから。
どの家にも、住む人の名前が書いてあった。
間取り図に、住む人のことを書く。
わたしが、方眼ノートの余白に、内見のお客さんのことを書きつけているのと、同じだった。
知らなかった。
わたしは、父から、何も教わらなかったと思っていた。
ページをめくる手が、止まった。
最後の一軒だった。
【柚木邸】
見覚えのある間取りだった。
玄関から入って、右に台所。その奥に居間。階段を上がって、子ども部屋。
わたしが、十歳まで住んでいた家だ。
子ども部屋の余白に、小さな字があった。
――ひかりの部屋。机は窓ぎわに。この子は、外を見ながら絵を描くのが好きだから。
視界が、にじんだ。
ページの下半分に、黒いペンの清書とは違う線があった。
鉛筆だった。
清書されないまま、何度も消しては描き直したあとが残っている。
家の下。台所の床下から、階段が下りている。
階段の先に、短い廊下。廊下の突き当たりに、小さな部屋が一つ。
湧いたあとに、描き足したのだ。
地下の迷宮の、間取りを。
廊下の線は、まっすぐだった。
筋が、通っていた。
主のいる迷宮の、間取りだった。
◇
鉛筆のメモが、余白に散らばっていた。
――階段、十三段。廊下、二間半。崩れる気配なし。
――市に説明。取り合ってもらえず。
――地下は危なくない。あの子がいるから。
あの子。
――ひかりが、毎日地下に下りている。止めても聞かない。友だちができたと言う。
――ひかりの描いた間取り図を、あの子にあげたらしい。
わたしは、息を止めた。
十歳の夏。
湧いた家の地下に、わたしは毎日のように下りていた。
父には止められ、母には怒られた。それでも、下りた。
地下に、だれかがいた。
黒い服の、女の子。
わたしより少し小さくて、古い言葉で話して、目が、灯りを映したような色をしていた。
ずっと、夢だと思っていた。
家が壊されて、引っ越して、だれに話しても信じてもらえなくて。そのうち、自分でも、夢だったと思うようになった。
でも、父は、知っていたのだ。
あの子のことを。
廊下の突き当たりの、小さな部屋。
鉛筆の線で囲まれた、その部屋の中に、父の字で、名前が書いてあった。
清書されることのなかった、最後の間取り図。
描き足された部屋の名前は、
――ヨルの部屋。




