↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
13/26

篠宮の査定

「一千二百万円」


 湯気の向こうで、篠宮さんがつぶやいた。

 スーツではなく、白いシャツにジーンズ。手には、春日さんちのタオルを持っていた。

 日曜日の夕方、四丁目の家の、地下の温泉の前だった。




◇




 七月に入って、最初の日曜日だった。


 その日、わたしは春日さんの家に、夕ごはんに呼ばれていた。

 宅建試験の申し込みを済ませた、と話したら、美咲さんが「じゃあお祝いね」と言ってくれたのだ。まだ、何にも受かっていないのに。


 玄関のチャイムが鳴ったのは、手巻き寿司の準備をしていたときだった。


「三倉都市開発の篠宮です。……今日は、仕事ではありません」


 玄関先で、篠宮さんは、少し居心地が悪そうに頭を下げた。


「五月の審査会のあと、ずっと気になっていて。お宅の温泉を、一度、見せていただけないでしょうか」


 健一さんと美咲さんは、顔を見合わせた。

 三倉の人だ。この家を二百万円で買い取ると言いに来た会社の人だ。


 でも、健一さんは、少し考えてから、言った。


「どうぞ。うちの自慢なんで」




◇




 篠宮さんは、温泉の部屋に入ると、しばらく黙って立っていた。


 橙色の苔の光。湯船の縁に並んだ、高さの違う腰かけ。

 今は、腰かけの横に、子ども用の小さな桶とアヒルのおもちゃが置いてある。


 篠宮さんの目が、かすかに見開かれた。

 スキルを使っている顔だ。


「一千二百万円」


 篠宮さんは、もう一度、つぶやいた。


「四月に外から見たときは、ゼロでした。迷宮控除で、ゼロ。それが今、一千二百万円になっている」


「上がった、ってことですか」


「上がった、どころではありません」


 篠宮さんは、首を振った。


「この辺りの、湧いていない普通の家と同じか、それ以上です。……でも、理由が分からない。建物は何も変わっていない。リフォームもしていない。変わったのは」


 篠宮さんは、湯船の横のアヒルを見た。


「人が、住み始めたことだけです」


 わたしは、言葉を選んだ。


「家は、住む人がいて、初めて家なんだと思います」


「査定に、そんな項目はありません」


 篠宮さんの声は、少しだけ硬かった。


「立地、面積、築年数、構造、周辺相場。私のスキルは、それを数字にするだけです。住んでいる人の気持ちなんて、どこにも入っていない」


「でも、数字は上がってます」


「……ええ」


 篠宮さんは、黙った。




◇




 手巻き寿司は、篠宮さんの分も用意された。

 篠宮さんは断ろうとしたけれど、美咲さんがもう、皿を並べてしまっていた。


「おじさん、さてい、ってなに?」


 結菜ちゃんが、篠宮さんの隣に座って聞いた。


「物の値段を、見ることです」


「じゃあ、これは?」


 陽太くんが、携帯ゲーム機を差し出した。

 篠宮さんは、少し困った顔で、ゲーム機を見た。


「……中古で、八千四百円」


「えー、もっと高いと思ってた!」


「画面に傷があります」


 陽太くんがむくれて、みんなが笑った。


 そのとき、庭に面した窓が、からりと開いた。


「タエの匂いはせんが、酢飯の匂いがする」


 黒いフードが、窓枠から顔を出した。

 ヨルだった。春日さんの家には、もう、自分の家のように出入りしている。


「ヨル、勝手に入っちゃだめ」


「結菜が、窓の鍵を開けておいてくれた」


 結菜ちゃんが、えへへ、と笑った。


「おじさん、ヨルの値段も見て!」


「え?」


 篠宮さんは、窓の外のヨルを見た。

 ヨルは、まぐろの巻物を一本、ひょいとつまんだところだった。


 篠宮さんの目が、また、かすかに見開かれた。


 そして、そのまま、固まった。


「……査定、できません」


「え?」


「数字が、出ない」


 篠宮さんは、こめかみを押さえた。


「人を査定するのは、もともと好きではありませんが、こんなことは初めてです。……あの子は、どなたですか」


「近所の子です」


 わたしは、とっさに言った。


「魔王じゃ」


 ヨルが、巻物をくわえたまま言った。


 篠宮さんは、冗談だと思ったのか、小さく笑った。

 笑ったのを見るのは、初めてだった。




◇




 帰り道、駅までの道を、篠宮さんと並んで歩いた。


 黙って歩くのも気まずくて、わたしは聞いた。


「篠宮さんは、どうして、数字なんですか」


「どうして、とは」


「人の気持ちは、査定に入らないって。……数字が、好きなんですか」


 篠宮さんは、しばらく答えなかった。


「父が、商店街で、小さな文房具屋をやっていました」


 街灯の下で、篠宮さんは、まっすぐ前を見ていた。


「店が古くなって、客が減って。いい値段で買いたいという話が、何度も来ました。父は、全部断った。祖父の代からの店だから、と。……最後は、借金で店を手放しました。買いたいと言われていた値段の、三分の一で」


「……」


「情で、古い家にしがみついて、ローンや借金で潰れていく人を、私は仕事でも、たくさん見てきました。数字は、冷たいですが、嘘をつきません。数字で判断すれば、少なくとも、父のようにはならない」


 わたしは、何も言えなかった。

 篠宮さんが、湧き物件を買い叩くのは、意地悪だからではなかったのだ。


「だから、分からないんです」


 篠宮さんは、立ち止まった。


「あの家の数字が、どうして上がったのか。数字が嘘をつかないなら、あの家は、本当に一千二百万円の価値があることになる」


 わたしは、ずっと聞きたかったことを、聞いた。


「篠宮さん。三倉さんの湧き予測って、外れたことは、ありますか」


「予測は、別の部署の仕事です。私は、結果を見るだけですが」


 篠宮さんは、少し考えた。


「……ありません。一度も」


「二丁目の戸川さんの家は、湧きませんでした」


 篠宮さんの足が、止まった。


「予定日の夜、わたしは、戸川さんの家の前にいました。朝まで。何も起きませんでした」


「そんなはずは」


 篠宮さんは、鞄からタブレットを出して、指で画面をたどった。

 表のような画面の、一行。


 【本町二丁目 戸川邸 湧出:未確認】


 その行だけ、赤い文字になっていた。


「初めて、外れた」


 篠宮さんの声が、低くなった。


「……柚木さん。あなた、何をしたんですか」


「何も」


 わたしは、首を振った。


「湧く前に、庭に埋まっていたものを、取り除いただけです」


 篠宮さんは、長いこと、わたしの顔を見ていた。

 何かを言いかけて、やめた。


 駅の改札の前で、篠宮さんは、タブレットの画面を、もう一度見た。

 今度は、表ではなかった。


 春日さんの家の、写真。その横に、数字が一つ。


 ¥12,000,000


 篠宮さんは、その数字を、長いこと見ていた。

 それから、静かに画面を消した。


「この数字は、上には出せない」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。