篠宮の査定
「一千二百万円」
湯気の向こうで、篠宮さんがつぶやいた。
スーツではなく、白いシャツにジーンズ。手には、春日さんちのタオルを持っていた。
日曜日の夕方、四丁目の家の、地下の温泉の前だった。
◇
七月に入って、最初の日曜日だった。
その日、わたしは春日さんの家に、夕ごはんに呼ばれていた。
宅建試験の申し込みを済ませた、と話したら、美咲さんが「じゃあお祝いね」と言ってくれたのだ。まだ、何にも受かっていないのに。
玄関のチャイムが鳴ったのは、手巻き寿司の準備をしていたときだった。
「三倉都市開発の篠宮です。……今日は、仕事ではありません」
玄関先で、篠宮さんは、少し居心地が悪そうに頭を下げた。
「五月の審査会のあと、ずっと気になっていて。お宅の温泉を、一度、見せていただけないでしょうか」
健一さんと美咲さんは、顔を見合わせた。
三倉の人だ。この家を二百万円で買い取ると言いに来た会社の人だ。
でも、健一さんは、少し考えてから、言った。
「どうぞ。うちの自慢なんで」
◇
篠宮さんは、温泉の部屋に入ると、しばらく黙って立っていた。
橙色の苔の光。湯船の縁に並んだ、高さの違う腰かけ。
今は、腰かけの横に、子ども用の小さな桶とアヒルのおもちゃが置いてある。
篠宮さんの目が、かすかに見開かれた。
スキルを使っている顔だ。
「一千二百万円」
篠宮さんは、もう一度、つぶやいた。
「四月に外から見たときは、ゼロでした。迷宮控除で、ゼロ。それが今、一千二百万円になっている」
「上がった、ってことですか」
「上がった、どころではありません」
篠宮さんは、首を振った。
「この辺りの、湧いていない普通の家と同じか、それ以上です。……でも、理由が分からない。建物は何も変わっていない。リフォームもしていない。変わったのは」
篠宮さんは、湯船の横のアヒルを見た。
「人が、住み始めたことだけです」
わたしは、言葉を選んだ。
「家は、住む人がいて、初めて家なんだと思います」
「査定に、そんな項目はありません」
篠宮さんの声は、少しだけ硬かった。
「立地、面積、築年数、構造、周辺相場。私のスキルは、それを数字にするだけです。住んでいる人の気持ちなんて、どこにも入っていない」
「でも、数字は上がってます」
「……ええ」
篠宮さんは、黙った。
◇
手巻き寿司は、篠宮さんの分も用意された。
篠宮さんは断ろうとしたけれど、美咲さんがもう、皿を並べてしまっていた。
「おじさん、さてい、ってなに?」
結菜ちゃんが、篠宮さんの隣に座って聞いた。
「物の値段を、見ることです」
「じゃあ、これは?」
陽太くんが、携帯ゲーム機を差し出した。
篠宮さんは、少し困った顔で、ゲーム機を見た。
「……中古で、八千四百円」
「えー、もっと高いと思ってた!」
「画面に傷があります」
陽太くんがむくれて、みんなが笑った。
そのとき、庭に面した窓が、からりと開いた。
「タエの匂いはせんが、酢飯の匂いがする」
黒いフードが、窓枠から顔を出した。
ヨルだった。春日さんの家には、もう、自分の家のように出入りしている。
「ヨル、勝手に入っちゃだめ」
「結菜が、窓の鍵を開けておいてくれた」
結菜ちゃんが、えへへ、と笑った。
「おじさん、ヨルの値段も見て!」
「え?」
篠宮さんは、窓の外のヨルを見た。
ヨルは、まぐろの巻物を一本、ひょいとつまんだところだった。
篠宮さんの目が、また、かすかに見開かれた。
そして、そのまま、固まった。
「……査定、できません」
「え?」
「数字が、出ない」
篠宮さんは、こめかみを押さえた。
「人を査定するのは、もともと好きではありませんが、こんなことは初めてです。……あの子は、どなたですか」
「近所の子です」
わたしは、とっさに言った。
「魔王じゃ」
ヨルが、巻物をくわえたまま言った。
篠宮さんは、冗談だと思ったのか、小さく笑った。
笑ったのを見るのは、初めてだった。
◇
帰り道、駅までの道を、篠宮さんと並んで歩いた。
黙って歩くのも気まずくて、わたしは聞いた。
「篠宮さんは、どうして、数字なんですか」
「どうして、とは」
「人の気持ちは、査定に入らないって。……数字が、好きなんですか」
篠宮さんは、しばらく答えなかった。
「父が、商店街で、小さな文房具屋をやっていました」
街灯の下で、篠宮さんは、まっすぐ前を見ていた。
「店が古くなって、客が減って。いい値段で買いたいという話が、何度も来ました。父は、全部断った。祖父の代からの店だから、と。……最後は、借金で店を手放しました。買いたいと言われていた値段の、三分の一で」
「……」
「情で、古い家にしがみついて、ローンや借金で潰れていく人を、私は仕事でも、たくさん見てきました。数字は、冷たいですが、嘘をつきません。数字で判断すれば、少なくとも、父のようにはならない」
わたしは、何も言えなかった。
篠宮さんが、湧き物件を買い叩くのは、意地悪だからではなかったのだ。
「だから、分からないんです」
篠宮さんは、立ち止まった。
「あの家の数字が、どうして上がったのか。数字が嘘をつかないなら、あの家は、本当に一千二百万円の価値があることになる」
わたしは、ずっと聞きたかったことを、聞いた。
「篠宮さん。三倉さんの湧き予測って、外れたことは、ありますか」
「予測は、別の部署の仕事です。私は、結果を見るだけですが」
篠宮さんは、少し考えた。
「……ありません。一度も」
「二丁目の戸川さんの家は、湧きませんでした」
篠宮さんの足が、止まった。
「予定日の夜、わたしは、戸川さんの家の前にいました。朝まで。何も起きませんでした」
「そんなはずは」
篠宮さんは、鞄からタブレットを出して、指で画面をたどった。
表のような画面の、一行。
【本町二丁目 戸川邸 湧出:未確認】
その行だけ、赤い文字になっていた。
「初めて、外れた」
篠宮さんの声が、低くなった。
「……柚木さん。あなた、何をしたんですか」
「何も」
わたしは、首を振った。
「湧く前に、庭に埋まっていたものを、取り除いただけです」
篠宮さんは、長いこと、わたしの顔を見ていた。
何かを言いかけて、やめた。
駅の改札の前で、篠宮さんは、タブレットの画面を、もう一度見た。
今度は、表ではなかった。
春日さんの家の、写真。その横に、数字が一つ。
¥12,000,000
篠宮さんは、その数字を、長いこと見ていた。
それから、静かに画面を消した。
「この数字は、上には出せない」




