ヨルの客間
「水道管だよ。見りゃ分かるだろ」
岸本くんは、投光器の光の中で、困ったように笑った。
手袋の手に、青いビニールテープの巻きを持っていた。
◇
岸本航くん。
去年の秋、三倉都市開発の内定者研修で、わたしの隣の席に座っていた同期だ。
「本社の配属じゃなかったんだ。スキルの再判定でC判定でさ。子会社の三倉設備に回された」
「わたしは、E判定で内定取り消し」
「知ってる。研修の最後の日、いなかったもんな」
岸本くんは、アスファルトの切れ目を、ちらりと振り返った。
「夜中の工事は、急ぎの指示が出たんだって。俺らは、手順書どおりにやるだけ」
「この家、市の工事の予定表に、載ってなかったけど」
「え?」
岸本くんが、きょとんとした。
「おい、岸本! 手ぇ止めんな!」
トラックの陰から、年配の男の人の怒鳴り声がした。
岸本くんは、慌てて頭を下げた。
「ごめん、またな」
また、という言葉が、妙に軽かった。
たぶん岸本くんは、本当に、水道管を埋めているつもりなのだ。
◇
翌朝、黒須さんと、その家を見に行った。
表札は、外されていた。
ポストには、チラシが詰まっている。空き家だった。
門に、小さな看板がかかっていた。
【管理物件 三倉都市開発株式会社】
「……三倉が、もう買ってる」
「自分の土地なら、何を埋めても自由です」
黒須さんが、静かに言った。
わたしは、目を細めた。
青い線の向こう。新しい水道管の継ぎ手の下に、小さな黒い結び目が、もう見えていた。
見えているのに、手が出せない。
宇佐美さんの表に載っているのは、三倉が市に「予測」として出した家だけだ。
三倉が自分で買った家に埋めた種は、どこにも載っていない。
残り十六軒。
その数字は、たぶん、もう正しくなかった。
◇
「雨漏りじゃ」
その週の土曜日、ヨルは和室の真ん中で、たらいを抱えて座っていた。
天井の染みから、ぽたん、ぽたんと、雨粒が落ちてくる。
六月。梅雨に入って、三日目だった。
「わしの家が、濡れておる」
「主の力で、どうにかならないんですか」
「わしが守っておるのは、地下じゃ。上の家は、人間の家じゃ。人間が直せ」
「そういう分担なんですね……」
タエさんに相談すると、話はあっという間に広がった。
源さんが、軽トラックに瓦と板を積んでやってきた。
黒須さんが、はしごを担いできた。
春日さんちの陽太くんと結菜ちゃんが、「魔王の家を直す」と聞いて、勝手についてきた。
「わしの家に、人間がこんなに……」
ヨルは、縁側で膝を抱えて、困った顔をしていた。
困った顔のわりに、追い返そうとはしなかった。
源さんは、屋根の上で、割れた瓦を一枚ずつ取り替えていった。
「いい家だ。六十年たって、梁が一本も狂ってねえ」
源さんの声が、屋根の上から降ってくる。
「地下に、よっぽどいい主が住んでるんだろうよ」
ヨルが、縁側で、ふん、と鼻を鳴らした。
耳が、少し赤かった。
黒須さんは、台所で昼ごはんを作っていた。
冷や汁と、焼きなすと、だし巻き卵。
ヨルは、三杯おかわりをした。
午後、雨がやんだ。
陽太くんと結菜ちゃんは、源さんにもらった端材で、何かを作っていた。
のこぎりを引いて、やすりをかけて、マジックで字を書く。
「できた!」
結菜ちゃんが、ヨルの前に、板きれを差し出した。
手のひらほどの、四角い板。
真ん中に、子どもの字で、大きく。
【ヨル】
「表札」
陽太くんが、得意げに言った。
「魔王の家、名前が出てないから。郵便屋さんが困るでしょ」
「……郵便など、来ぬ」
ヨルは、板きれを受け取って、しばらく黙って見ていた。
「わしに、名を書いた板をくれるのか」
「うん。ヨルの家だから」
ヨルは、何も言わなかった。
ただ、板の縁を、指で何度もなぞっていた。
◇
夕方、片づけをしながら、わたしはヨルに聞いた。
「ヨルは、前の家のこと、覚えてますか」
ヨルの手が、止まった。
「……覚えておる」
「どんな家でしたか」
「川のそばの町じゃった。人間の大工が建てた、まっすぐな家での。わしは、その下に住んでおった」
ヨルは、縁側から、暮れていく空を見上げた。
「十二年前、壊された。わしの家も、その上の人間の家も、まとめてな。あのころは、主のことなど、だれも知らなんだ。わしのような主が、あちこちで家を追われた」
「わたしの実家も、川沿いでした」
何気なく、そう言った。
ヨルが、ほんの一瞬、わたしを見た。
金色の目が、何かを言いかけて、やめた。
「……川沿いの町など、いくらでもある」
ヨルは、立ち上がって、パーカーのフードをかぶった。
「腹が減った。タエのところへ行くぞ」
◇
その夜。
一丁目の平屋に、ひとりの主が帰ってきた。
主は、玄関の柱に、子どもたちがくれた板きれを、そっと立てかけた。
釘を打つ道具は、持っていなかった。明日、あの大工の年寄りに頼もうと思った。
それから、地下へ下りた。
白い苔の光の中を歩いて、いちばん奥の部屋に入る。
客間ではない。だれにも見せたことのない、主だけの部屋だ。
部屋の真ん中に、古い木の箱が置いてあった。
主は、ふたを開けた。
中には、宝物が入っている。
丸いビー玉。片方だけの赤い靴下。色あせた、星形のシール。
それから、四つに折りたたまれた、一枚の画用紙。
主は、画用紙を、そっと広げた。
色鉛筆で描かれた、家の間取り図だった。
定規を使わずに引いた、少しゆがんだ線。玄関、台所、居間、子ども部屋。
家の下には、階段が描かれ、その先に、小さな部屋が一つ。
小さな部屋の中に、黒い服の女の子の絵。
隣に、字が添えてある。
【ヨルちゃんのへや】
画用紙の右下には、少し大きめの字で、名前が書かれていた。
【4年2組 ゆずき ひかり】




