湧く前に
明後日、戸川さんの家の地下に、ダンジョンが湧く。
それを知っているのは、この町で、わたしと宇佐美さんと、タエさんと黒須さん。
それから、種を埋めた人間だけだ。
◇
「警察に、持っていけないんですか」
閉店後の事務所で、わたしは宇佐美さんに聞いた。
応接テーブルの上には、十七行の表と、源さんの家から掘り出した黒い石。青いテープの切れ端が、まだ巻きついている。
「何の罪で、ですか」
宇佐美さんは、静かに聞き返した。
「予測が当たるのは、罪ではありません。三倉設備が水道工事をしたのも、市の正式な委託です。この石が『種』だということも、主という存在がいることも、学会の仮説でしかない」
「でも」
「私も、悔しいです」
宇佐美さんは、表の一行目を指でなぞった。
「だから、今できることをしましょう。湧く前に、止める」
「湧く前に、止められるんですか」
わたしは、ヨルのほうを見た。
こたつ――事務所に持ち込まれたままのこたつだ――から、黒いフードが顔を出した。
「芽が出る前の種なら、ただの石じゃ。掘り出せば、それで終いじゃ」
「場所は、分かりますか」
「わしには分からん。土の中までは見えぬ」
ヨルは、金色の目をわたしに向けた。
「おぬしは、一度、種に触れたな」
「はい」
「なら、もう見えるはずじゃ。一度触れた匂いは、忘れぬものじゃ」
タエさんが、煮物の鍋をかき混ぜる手を止めた。
「戸川さんは、頑固だよ。うちの庭を掘らせてくださいなんて言ったら、塩どころか、水をまかれるね」
◇
本当に、水をまかれそうになった。
「湧くなんて、縁起でもない」
戸川茂さんは、八十四歳。玄関先に仁王立ちして、ホースを握っていた。
奥さんの和子さんが、その腕を後ろから押さえている。
「三倉さんからも、同じことを言われたよ。お宅は湧く予測が出ているから、今のうちに売ったほうがいい、とな」
「三倉さんが、もう」
「売る気はない。だが、庭を掘り返されるのも、ごめんだ」
茂さんの後ろの庭には、きれいに手入れされた花壇があった。
紫陽花が、ちょうど色づき始めている。
わたしは、言葉を探した。
種のことを、どう説明すればいいのか。主のことを、どう話せばいいのか。
話せることが、何もなかった。
「おい、茂」
背中のほうから、声がした。
源さんだった。
軽トラックを路地に止めて、首にタオルをかけて立っている。わたしが、朝のうちに電話をしておいたのだ。
「源治か」
「俺の家は、湧いた」
源さんは、ホースを持った茂さんの前まで、ずかずかと歩いていった。
「水道屋が庭を掘った、ひと月後だ。あの晩、地面が割れて、柱がかじられて、市の紙を突きつけられた。この子がいなけりゃ、今ごろ俺の家は瓦礫だ」
茂さんの手から、少しだけ力が抜けた。
「お前んとこにも、来たんだろう。水道屋が」
「……先月な」
「庭の、どこを掘っていった」
茂さんは、黙って、紫陽花の花壇の端を指さした。
「なら、掘らせてやれ。花は、俺が植え直してやる」
和子さんが、そっと夫の腕から手を離した。
「茂さん。源田さんが、こう言ってるんだから」
茂さんは、長いこと、源さんの顔をにらんでいた。
それから、ホースを地面に置いた。
「花壇の、端だけだぞ」
◇
わたしは、花壇の前にしゃがんだ。
目を細める。
青い線が、重なる。
戸川さんの家の間取り。その下の、土と石と、水道管。
古い鉄の管と、新しい樹脂の管。新しいほうは、花壇の端で、継ぎ手を挟んで曲がっている。
その継ぎ手の、すぐ下。
青い線の中に、小さな黒い結び目が見えた。
見えた、というより、分かった。
源さんの家の地下で、軍手越しにつかんだ、あの石の感触。冷たくて、重くて、どこか脈打っているような。
それと同じものが、そこにある。
結び目から、髪の毛ほどの細い線が、何本か伸び始めていた。
「ありました」
声が、少しかすれた。
「新しい水道管の継ぎ手の、真下。深さは、一メートル二十くらい。根が、もう出始めてます」
「掘ります」
黒須さんが、スコップを土に入れた。
近所の人たちが、垣根の向こうから、遠巻きに見ていた。
源さんの家のことを知っている人もいれば、知らない人もいる。ひそひそ声が聞こえる。
「あと二十センチ。……少し、左です」
スコップの先が、こつん、と硬いものに当たった。
黒須さんが手で土を払った。
青いビニールテープが、土の中から顔を出した。
テープに巻かれた、くるみくらいの黒い石。
表面から、白い糸のような根が、四方の土に伸びかけていた。
源さんが、腰の道具袋から、あの鑿を抜いた。
黙って、わたしに柄を差し出す。
わたしは、細い根を、一本ずつ断っていった。
源さんの家のときよりも、ずっと柔らかかった。まだ、育ちきっていないのだ。
最後の一本を断って、石を土から持ち上げた。
冷たかった。
でも、もう、脈打ってはいなかった。
「……これが、うちの庭に」
茂さんが、わたしの手の中の石を、じっと見ていた。
ホースを握っていたときとは、違う顔だった。
「明後日、何も起きなければ、それが答えです」
わたしは、石をハンカチに包んだ。
「何も起きないことを、確かめに来ます」
和子さんが、盆にお茶と、おはぎを載せて出てきた。
源さんが、約束どおり、紫陽花を元の場所に植え直した。
茂さんは、最後まで、ありがとうとは言わなかった。
かわりに、帰りぎわ、おはぎの残りを包んで、わたしの手に押しつけた。
◇
帰り道、商店街の掲示板の前で、足が止まった。
町内会のお知らせに混じって、色あせた一枚の紙が貼ってあった。
【水道管更新工事のお知らせ】
施工:三倉設備株式会社(柳瀬市委託)
工事の予定地として、通りの名前がずらりと並んでいる。
二丁目、三丁目、五丁目、六丁目。
ノートを開いて、宇佐美さんの表と見比べた。
十七行の住所は、全部、この工事の予定地の中にあった。
わたしは、スマホで掲示板を撮った。
手が、少し震えていた。
◇
二日後の夜。
わたしと黒須さんは、戸川さんの家の前に立っていた。
予定日の、夜十時。
十一時。十二時。
何も起きなかった。
縁側の明かりが消えて、家の中から、茂さんの大きないびきが聞こえてきた。
「……勝った、んでしょうか」
「勝ちました」
黒須さんが、短く言った。
黒須さんがそう言うなら、そうなのだと思えた。
初めて、湧く前に止めた。
だれの家も、壊させずに済んだ。
残り、十六軒。
帰り道、少し遠回りをして、五丁目の通りを歩いた。
表の三行目にある家の、近くだ。
深夜なのに、通りの先に、明かりが見えた。
工事用の投光器だった。
道路の端に、カラーコーンが並んでいる。小型のトラックの荷台に、青いロゴ。
三倉設備。
表の三行目の家ではなかった。
その、二軒隣の家の前だった。表には、載っていない家だ。
青い作業着の若い男の人が三人、アスファルトを切っていた。
そのうちの一人が、投光器の光の中で、ふと顔を上げた。
目が、合った。
「……柚木?」
声に、聞き覚えがあった。
三倉設備の青い作業着を着ていたのは、去年の秋、三倉都市開発の内定者研修で、わたしの隣の席に座っていた同期だった。




