宅建士じゃない新人
「お父さん。この家、暗い」
八歳の女の子が、玄関の土間で足を止めた。
それきり、一歩も上がろうとしなかった。
◇
話は、その日の朝にさかのぼる。
「重要事項説明は、宅建士にしかできない」
タエさんは、事務所の応接テーブルに、分厚い問題集を三冊、どすんと置いた。
「あんたが審査会で何を言おうと、どれだけ隠し部屋を見つけようと、契約の最後の一押しは、私がやるしかない。分かってるね」
「……はい」
「試験は十月。申し込みは七月。今年落ちたら、あんたは一生アシスタントだよ」
問題集の表紙には、付箋がびっしり貼られていた。
タエさんの字で、「ここ毎年出る」「ひっかけ注意」「ひかりが絶対まちがえるところ」。
「最後のは、何ですか」
「あんたが二回とも落とした分野だよ。調べればすぐ分かる」
ぐうの音も出なかった。
六月。
審査会から、三週間がたっていた。
源さんの家は、元どおりになった。いや、元どおり以上だ。地下の作業場で、源さんは毎日、近所の子どもたちに木の椅子の作り方を教えている。
ひだまり不動産の電話は、あれから一日も鳴りやまなかった。
湧き物件に住みたい、という電話。湧き物件を貸したい、という電話。
そして、湧き物件を見に行く仕事が、毎日あった。
「借地借家法とは、なんじゃ」
事務所の隅のこたつ――六月なのに、ヨルが一丁目から運ばせたのだ――から、声がした。
ヨルが、わたしのお古の宅建テキストを開いていた。
「ヨル、それ、読めるんですか」
「字は読める。意味が分からん」
「わたしも、半分くらい分かりません」
「では、わしと同じじゃな」
「同じにしないでください」
タエさんが、鍋をかき混ぜながら笑った。
「今日の内見は、五丁目だよ。お父さんと娘さんの二人暮らし。急いでるんだってさ」
◇
佐野達也さんは、三十二歳。駅の向こうの工場で、夜勤をしている。
娘のことはちゃんは、小学二年生。
「妻は、二年前に病気で」
佐野さんは、それだけ言って、言葉を切った。
「今のアパートが取り壊しになるんです。学区を変えたくなくて、この辺りで探してるんですけど、夜勤だと言うと、どこも……。それに、家賃も」
夜勤の父と、二人暮らしの小学生。
夜のあいだ、ことはちゃんは、一人で眠ることになる。
そして、ことはちゃんは、玄関の土間から動かなかった。
「暗いの、苦手なんです」
佐野さんが、困った顔で頭をかいた。
「妻がいなくなってから、電気を消すと眠れなくて。夜勤の日は、朝まで電気をつけっぱなしで寝てるみたいで」
その家は、築五十年の小さな二階建てだった。
北向きで、窓が少ない。昼間でも、廊下は薄暗い。
そのうえ、地下には、ダンジョンがある。
暗いのが怖い子には、いちばん向かない家だった。
わたしは、目を細めた。
青い線が、重なる。
二階建ての間取り。その下に、一層だけの、小さな迷宮。
主のいる迷宮だった。
線がまっすぐで、筋が通っている。でも、変わった間取りだった。
通路の天井が、途中からがくんと低くなっている。
大人なら、腰をかがめないと通れない高さ。
その先に、線で囲まれた、丸い空白があった。
「佐野さん。ことはちゃん」
わたしは、土間にしゃがんで、ことはちゃんと目の高さを合わせた。
「この家の地下に、ちょっと変わった部屋があるみたいなの。見に行ってみない?」
「……暗い?」
「たぶん、暗くない」
嘘ではなかった。
嘘ではないと、いいなと思った。
◇
黒須さんが先に下りて、「清掃」を済ませた。
苔ネズミは一匹だけだった。それも、黒須さんを見るなり逃げていったらしい。
地下の通路は、白い苔の光で、ぼんやり明るかった。
ことはちゃんは、佐野さんの手を両手で握って、一段ずつ階段を下りた。
通路の途中で、天井が低くなった。
黒須さんが、窮屈そうに体を折り曲げた。佐野さんも、わたしも、腰をかがめた。
ことはちゃんだけが、まっすぐ立ったまま歩けた。
「この先です」
わたしは、低い通路の突き当たりの壁を指さした。
黒須さんが、かがんだまま手を伸ばして、押した。
壁が、内側に開いた。
中は、真っ暗だった。
ことはちゃんの手に、ぎゅっと力が入るのが分かった。
でも、次の瞬間。
天井に、光が灯った。
ひとつ。ふたつ。
小さな、青白い光の粒が、天井一面に、ぽつぽつと灯っていく。
光る苔だった。
でも、壁を覆う白い苔とは違う。米粒ほどの小さな株が、天井のあちこちに、ばらばらに散らばっている。明るいもの、暗いもの。集まっているところ、まばらなところ。
丸い部屋の、丸い天井。
星空だった。
「……プラネタリウム」
ことはちゃんが、つぶやいた。
「お母さんと、行ったやつみたい」
佐野さんが、息をのむのが聞こえた。
ことはちゃんは、父親の手を離した。
部屋の真ん中まで歩いていって、仰向けに寝転んだ。床の苔が、やわらかい敷物みたいになっていた。
「お父さん。ここ、怖くない」
黒須さんが、腰から巻き尺を出して、通路の天井の高さを測っていた。
メモを見て、わたしに見せた。
百二十二センチ。
ことはちゃんの背丈と、ほとんど同じだった。
この家の主は、ずっと、この子のような客を待っていたのだろうか。
それとも、この子が来ると分かって、天井を合わせたのだろうか。
どちらでも、いいと思った。
「ここに、します」
佐野さんの声が、少しかすれていた。
◇
その日の夕方、事務所で、タエさんが佐野さんに重要事項説明をした。
わたしは、お茶を出して、隅の席に座っていた。
タエさんのゆっくりした声を聞きながら、問題集の付箋を一枚ずつ数えた。
あの説明を、いつか、わたしがする。
隠し部屋を見つけるだけじゃなく、最後の一押しまで、自分の言葉で。
佐野さんが帰ったあと、ノートを開いた。
物件番号13。五丁目、佐野邸。黒い二階建ての下に、青い通路。その先に、赤い丸い部屋。
赤い部屋に、ペン先で、小さな点をいくつも打った。
ガラス戸のベルが鳴ったのは、閉店間際だった。
「失礼します。……柚木さん、いますか」
宇佐美さんだった。
市役所の作業服ではなく、私服だった。手に、茶封筒を一つ持っている。
「これは、本来、外に出せないものです」
宇佐美さんは、茶封筒を、わたしの前に置いた。
「三倉都市開発が、市に提出している湧き予測のリストです。本町の分だけ」
「どうして、わたしに」
「審査会のあと、あなたの図面を、ずっと考えていました」
宇佐美さんは、まっすぐわたしを見た。
「私は十二年間、湧き物件を壊す書類を書いてきました。壊さなくてよかった家が、あったのかもしれない。……もう、黙って書類だけ書くのは、嫌なんです」
封筒の中には、一枚の表が入っていた。
住所と、所有者の名前と、日付。
十七行。
あの地図の、赤丸の数と同じだった。
いちばん上の行を、指でなぞった。
本町二丁目、戸川さんの家。
ご夫婦とも、八十を過ぎていると聞いたことがある。
湧出予定日の欄に、日付が書かれていた。
壁のカレンダーと、見比べる。
明後日だった。




