エピソード3-1
相変わらず、この街には人が溢れている。
完全に陽が落ちた街は、昼間とはまた違う表情を見せていた。
繁華街のメインストリートを駅へ向かって歩く。
明日はバイトが休みだった。
こんなことになるなら、明日もシフトを入れておけばよかった。
別に悲しいわけじゃない。
ただ、少しだけ寂しかった。
歩きながらケイタイを取り出す。
人にぶつからないよう歩く速度を少し落とし、画面を開いた。
アドレス帳からヒデアキの名前を探し出し、番号とメールアドレスを削除する。
ついでに着信履歴と発信履歴も消した。
それからヒデアキから届いたメールも――。
涙がこぼれそうになったけれど、私はそれを飲み込んだ。
行き交う大勢の人の存在が、私を少しだけ強気にさせてくれた。
ケイタイを閉じてバッグへ放り込む。
ふと顔を上げると、見慣れない細い路地が目に入った。
こんな場所に路地なんてあっただろうか。
気がつけば私は、その路地へと足を向けていた。
メインストリートから一本入るだけで、人影は一気に少なくなる。
人にぶつかる心配も、あの息苦しさもなくなった。
私は小さな解放感を覚えながら、奥へと進んでいく。
進むほどに人は減り、街灯と店の裏口から漏れる灯りだけを頼りに歩いた。
やがて人の姿が完全になくなったところで、私は足を止めた。
薄暗い路地。
遠くからかすかに聞こえる人の声や音が、まるで別の世界の出来事のように感じられる。
見上げた空には、霞のかかった月が弱く光っていた。
……まるで私みたい。
「住む場所が変わったくらいじゃ、輝けないのかな……」
ぽつりと呟く。
霞んだ月が揺れて見えた。
目頭が熱くなり、頬をなにかが伝う。
その時だった。
路地のさらに奥から物音がした気がした。
野良猫だろうか。
私は音のした方へと歩き出した。
数歩進み、角を曲がる。
そこは行き止まりだった。
街灯もなく、光の届かない薄暗い場所。
暗闇に目を凝らす。
瞬きも忘れたまま見つめていると、少しずつ輪郭が浮かび上がってきた。
人影のようなものが見える。
私はゆっくりとそれに近づいた。
近づくほど、それが人だという確信が強くなる。
距離が一メートルほどになったところで足を止めた。
その人は地面に直接座り込み、建物の壁にもたれていた。
片膝を立て、その上に腕を乗せたまま顔を伏せている。
暗闇の中でも、投げ出された足が長いことは分かった。
蹲る身体つきも、私とはまるで違う。
「……大丈夫ですか?」
私はおそるおそる声をかけた。
普通に声をかけたつもりだった。
けれど、思ったより小さく震えていた。
具合が悪いのだろうか。
ふと視界に入った大きな肩が、規則正しく上下している。
「……あのっ……」
二度目の声は、自分でも驚くほど大きかった。
その声に反応するように、相手の身体がぴくりと動く。
ゆっくりと顔が上げられる。
暗闇の中でも分かる。
鋭く冷たい目だった。
その視線が私を捉えた瞬間、あまりの威圧感に私はその場へ座り込んだ。
腰が抜けた。
黙ったまま私を見つめる男。
座り込んだまま動けない私。
……どうしよう。
この人、怖すぎる。
その人は、私が今まで関わったことのない種類の人間だった。
繁華街では決して珍しくない。
特に夜になるとよく見かける、独特の空気をまとった人たち。
日が沈むとどこからともなく現れ、夜の街で生きている人たち。
だけど、私には縁のない存在だと思っていた。
生きる世界が違う。
そう思って遠くから眺めていた人種が、今は目の前にいる。
そして、その目には間違いなく私が映っていた。
……逃げた方がいいよね?
鋭い視線に危険を感じた私は、頭の中で緊急脱出計画を立て始めた。
……まずは「私は敵じゃないです」って伝えないといけない。
両手を上げる?
いや、ダメだ。
それだと警察と犯人みたいになってしまう。
どう考えても、この人に警察役は似合わない。
もしそのミスマッチさに吹き出してしまったら――私の人生は本当に終わってしまうかもしれない。
……どうしよう。
あっ、笑顔とか?
どんな悪人だって、笑いかけてくる相手をいきなり攻撃したりしない気がする。
もしかしたら、『あれ? こいつは知り合いだったか?』なんて思ってくれるかもしれない。
そうなれば儲けものだ。
相手が考え込んでいる隙に私は全力で逃げればいい。
……よし、完璧。
相変わらず、その人は鋭い目で私を見ている。
……怖っ!!
……じゃなくて。
笑わなきゃ。
私は目を逸らしたくなる衝動を必死にこらえながら、バイトで身につけた営業スマイルを向けた。
すると、その人の表情がわずかに動いた。
どうやら作戦は成功したらしい。
少なくとも、もう警戒はされていない。
その証拠に――目の前の人は、もう私を睨んでいなかった。
鋭い眼差しを細め、厳つい顔を崩して笑っている。
楽しそうな声まで上げていた。
逃げ出すには絶好の機会のはずだった。
その人の笑顔を見ているうちに、恐怖で強張っていた身体にも少しずつ力が戻ってくる。
私はゆっくりと地面から腰を浮かせ、立ち上がった。




