エピソード7-2
怖い。
震えがさらに強くなったとき、マサトさんは背中へ回した腕に力を込め、私の身体を強く引き寄せた。
真っ暗な視界の中で聞こえるのは、マサトさんの心臓の音だけ。
私はその音に意識を集中させ、ほかの音を聞かないようにした。
何度か衝撃のようなものを感じた。
それは私の身体へ直接伝わったものではなく、マサトさんの腕や足を通して伝わってきたものだった。
そのたびに、低いうめき声のようなものが聞こえた気がする。
マサトさんの声ではなかったから、多分、男の子たちのものだったのだと思う。
「ヒナ、走るぞ」
呼吸ひとつ乱れていない声でそう言われ、私はようやく我に返った。
数を数えられなくなってから、その声を聞くまで。
私にはとてつもなく長い時間に感じられた。
けれど実際は数秒だったのかもしれない。
もし私が数え続けていたなら、本当に十を数える間にすべて終わっていたのかもしれない。
強い力で腕を引かれ、ようやく身体が動く。
目の前の大きな背中を見失わないように。
力強い腕からはぐれないように。
そして、この状況から逃げるように。
私はもつれそうになる足で必死に走った。
「おい、神楽!! 逃げてんじゃねぇぞ」
「てめぇ、次会ったらただじゃ済ませねぇからな」
「お前のチーム、絶対ぇ潰してやるから覚悟しろよ」
背後から飛んでくる怒鳴り声は、耳を塞ぎたくなるようなものばかりだった。
あの人たちは、次にマサトさんへ会ったらなにをするつもりなんだろう?
チームってなに?
潰すってどういう意味?
……てか、マサトさんって一体何者なの?
次々と疑問が浮かぶ。
だけど、まだ消えきれていない恐怖と、走り出したばかりなのに酸欠気味の頭では、とても答えを見つけられなかった。
完全に混乱している私の半歩前を走っていたマサトさんが、不意に足を止めた。
「マ……マサトさん?」
早く逃げなきゃっ!
立ち止まってる場合じゃないって。
そう言いたかった。
けれど乱れた呼吸のせいで言葉にならない。
足を止めたマサトさんはゆっくり振り返ると、私の後ろを見据えながら、
「上等だ」
不敵な笑みを浮かべた。
◇◇◇◇◇
どれくらい走ったのか分からない。
どの道を通ったのかも分からない。
今、自分がどこにいるのかも分からない。
全力で走った私は、マサトさんと一緒に細い路地裏にいた。
「ヒナ」
力尽きて地面へ直接座り込んだ私の顔を、マサトさんが覗き込む。
「大丈夫か?」
そう尋ねるマサトさんの呼吸は、まったくと言っていいほど乱れていなかった。
どうしてマサトさんは、こんなに平然としていられるのだろうか?
私が必死に呼吸を整えていると、
「飲むか?」
差し出されたのはペットボトルのお茶だった。
「……これって……」
「さっき飲むって言っただろ?」
「……あっ……ありがとうございます……」
私は受け取ったお茶の蓋を開け、そのまま喉へ流し込んだ。
乾いた土が水を吸うように、カラカラだった喉が潤っていく。
「……ふぅ……」
一気にペットボトルの半分ほどを飲み干し、大きく息を吐く。
「……なんとか、生き返った」
思わず漏れた言葉に、
「なんだ? 死にそうになってたのか?」
マサトさんは苦笑した。
「……久々に走ったから」
「久々?」
「学生の頃に比べたら、走る機会ってあんまりないでしょ?」
「……そうなのか?」
「えっ?」
その返事に小さな違和感を覚えた。
……なんだろう? この感じ……。
まるでマサトさんは……。
「確かに社会人になったら走る機会は減るかもしれねぇな」
「あ……あの」
「ん?」
「マサトさんって、何歳?」
「俺? 十八だけど」
「十八? ……あぁ、十八歳ね……うん、そっか。十八歳……」
「ヒナ?」
「……はぁ?」
「……え?」
「十八歳?」
「……おい?」
「十八歳って……私より年下じゃない」
「……あぁ、そうだけど?」
あまりにも冷静な返答に、私は言葉を失った。




