エピソード5-3
まだ勤務時間の残っている他のバイトの子たちの羨ましそうな視線が気になる。
けれど、体力はとっくに限界を越えていた。
私は最後の力で笑みを作る。
「お先に失礼します」
『お疲れ様~』
その声に見送られ、私は受付カウンターを離れた。
スタッフルームで制服を脱ぎ、私服へ着替える。
それからもう一度だけ明日のシフトを確認し、私はふらつく足取りのままスタッフルームを後にした。
◇◇◇◇◇
スタッフ専用の出入り口を抜け、細い路地から繁華街のメインストリートへ向かう。
店内があれほど慌ただしかっただけあって、街にはいつも以上の人が溢れていた。
どれだけ疲れていても、夜の繁華街には不思議と気持ちが弾む。
楽しそうな笑顔や笑い声を眺めていると、それだけで少し気分が軽くなる。
メインストリートへ出ると、カラオケボックスの入り口には大勢の人が集まっていた。
店から出てくる人達。
これから店に入ろうとしている人達。
その人達に声を掛けている人達。
ただその場にたむろしている人達。
まだまだ忙しさが落ち着く気配はない。
「……みんな、頑張って」
私は小さく呟き、店内を走り回っているであろうバイト仲間達にエールを送った。
それから駅へ向かって歩き出した、その時だった。
「……ヒナ」
誰かが私の名前を呼んだ気がした。
低くて甘い声。
週末の繁華街にはさまざまな音が溢れている。
決して大きな声ではないのに、その声だけは雑踏に埋もれることなく耳に届いた。
反射的に声のした方を振り返り、私はすぐに後悔した。
そこにいたのは、どう見てもガラの悪い集団だった。
深夜の繁華街では珍しくない人種。
若い男達は鋭い目つきと独特の空気をまとっている。
見慣れた存在ではあるけれど、私とは別世界の人達だ。
同じ場所にいても、私と彼らの間には見えない境界線がある。
私も彼らも、その線を越えることはないはずだった。
住む世界の違う人間が同じ街で共存するための、暗黙の了解みたいなものだ。
……だけど今、その視線は私へ向けられていた。
私は慌てて目を逸らした。
名前を呼ばれた気がしたけれど……きっと気のせいだ。
たまたま私の方を見ていただけに違いない。
きっと疲れているんだ。
よし、帰ろう。
私は現実から目を背けるように足を踏み出した。
「ヒナ」
再び誰かが私の名前を呼んだ。
幻聴?
私、幻聴が聞こえるほど疲れてるの?
うん、疲れているんだ。
だから、誰かに呼ばれている気がするのも……。
その声が、見るからにタチの悪そうなお兄さん達の集団の中心から聞こえた気がするのも……。
その集団から誰かが近付いてきている気配を背中で感じる気がするのも……。
全部、私が疲れているせいに違いない。
完全に現実逃避モードへ入りかけた、その瞬間だった。
私の肩になにかが触れた。
触れたというより、掴まれたと言った方が近いかもしれない。
その感覚だけで、現実へ引き戻されるには十分だった。
むしろ十分すぎた。
私は大きく肩を震わせ、口からは「ひぃっ!」という情けない声にならない音が漏れた。
それだけの反応をしたにもかかわらず、私は原因を確かめることも、振り返ることもできない。
その場に固まったまま動けずにいた。
肩に置かれた手に力が加わったと気付いた次の瞬間。
私の身体は半回転していた。
視界が勢いよく入れ替わり、目の前に現れたのは――。
「マ……マサトさん?」
「なんでシカトしてんだよ?」
不機嫌そうな顔をしたマサトさんだった。
「シ……シカト?」
小心者の私がマサトさんをシカトなんてできるはずがない。
いくら私がバカでも、そんな勇気があるわけがない。
そんなことをしたらどうなるかくらい想像できる。
シカトする勇気なんて、私にはないのに……。
目の前のマサトさんは、不機嫌そうな目で私を見下ろしている。
……まずい。
この状況はかなりまずい気がする。
早く誤解を解かないと、私の命が危ない。
だって今、頭の中には新聞の見出しが浮かんでいる。




