エピソード5-1
暗い闇の中だった。
なにも見えない。そのことがひどく心細い。
足元も、周囲も見えない。
それでも歩けているのは、誰かが私の手を引いてくれているからだった。
……一歩、一歩……。
私は慎重に足を前へ出す。
どこへ行きたいのか。
どこへ向かおうとしているのか。
それすら自分では分からない。
それでも――私は立ち止まれなかった。
なぜなのかは分からない。
ただ、止まってはいけない気がした。
真っ暗な視界の中で、気持ちだけが先を急ぐ。
前へ進もうとするほど――足がもつれそうになる。
見えない壁にぶつかりそうになる。
足取りが重くなる。
唯一の頼りだった手。
その手が、不意に消えた。
一瞬で押し寄せる不安と絶望。
……もう歩けない。
そう思って足を止めかけた瞬間、再び誰かが私の手を掴んだ。
視界は相変わらず真っ暗なまま。
けれど、その手はさっきの手とは違っていた。
大きくて、温かくて、力強い。
胸を締めつけていた不安と絶望が、ゆっくりと安心へ変わっていく。
おそるおそる歩いていたはずなのに、気づけば当たり前のように前へと進んでいた。
暗闇の中に、かすかな光が差し込む。
前を歩くその人の顔を光が照らし出そうとした瞬間――……。
◇◇◇◇◇
視界に飛び込んできたのは、見慣れた白い天井だった。
「……夢か……」
夢の中で感じた大きな安心感は、目が覚めたあとも胸に残っていた。
あの人は誰だったのだろう。
不思議な安心感と同時に、ひとつの謎だけが残る。
もう少しで分かりそうだったのに。
もう一度眠れば、続きを見られるだろうか。
そんなことを考えながら再び目を閉じようとした時、耳に音楽が飛び込んできた。
大好きなミュージシャンの、大好きな曲。
……誰?
私は手を伸ばして携帯を掴み、液晶画面を覗き込んだ。
寝起きのせいか、なかなか焦点が合わない。
目を細めて確認すると、表示されていたのはバイト先のカラオケボックスの店名と番号だった。
私はもそもそと身体を起こし、スマホを耳に当てる。
「……もしもし?」
相手は店長だった。
今日シフトに入っている子が体調を崩し、出勤できなくなったので代わりに入ってほしい。
用件はそれだけだった。
今日の休みは、昨夜ヒデアキと約束があったから取ったものだ。
でも、そのヒデアキとは昨日別れた。
もう必要のない休みだった。
今日は週末だ。
店も忙しいはず。
ひとりで家にこもっているより、慌ただしく働いていた方が気は紛れるかもしれない。
「……分かりました」
そう答えて電話を切った。
時計を見ると十四時。
出勤まであと二時間。
「……起きようかな」
私は大きく息を吐き、ベッドを離れた。
目を覚ますためにシャワーを浴び、朝食とも昼食ともつかない食事を口にした。
それから着替えを済ませ、メイクをして髪を整える。
一年近くほぼ毎日繰り返している作業だから、今では考えなくても身体が動く。
引き出しからハンカチを取り出した時、ふとなにかが頭を過った。
だけど私は、その続きを追わなかった。
支度を終えるとスマホを確認する。
時間を見るするふりをしながら、着信やメールが来ていないかを確かめる。
出勤三十分前。
私はいつものように玄関の鏡で全身を確認し、ヒールの高いサンダルに足を通した。
本来の目線より少し高い場所に立つと落ち着く。
「……よしっ」
自分に言い聞かせるように声を出し、部屋を後にした。
◇◇◇◇◇
その日は予想していた以上の忙しさだった。
制服に着替えて受付カウンターへ向かうと、すでに満室で、ロビーには順番を待つ客があふれていた。
いつも顔を合わせるバイト仲間への挨拶もそこそこに、私は早速山積みになった仕事に取りかかる。
カウンター業務に、お部屋への案内、オーダーの受付。
営業スマイルを崩さないまま慌ただしく動き回っているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。




