エピソード4-5
「……ヒナ」
その人は小さく声に出して繰り返した。
「ヒナ、ヒナ……」
何度か呟いてから頷く。
「……よし、覚えた」
そう言って浮かべた笑顔は、どこか無邪気だった。
「ヒナ、家はこの辺か?」
「……はい?」
言われて辺りを見回し、私はようやく気づいた。
見慣れた駅前だった。
……いつの間に?
考え事に気を取られすぎていて、まったく気づかなかった。
私はここから見えるマンションを指差した。
「あ……あそこです」
私の指先を追うように、その人の視線がマンションへ向く。
「あそこなら、ここで大丈夫か」
その言葉でようやく状況を理解した。
どうやら、この人は私を家の近くまで送ってくれたらしい。
「すっ……すみません。ありがとうございます」
勢いよく頭を下げる。
その拍子に肩へ掛けていたバッグが傾き、中身が足元へ散らばった。
「……あ……」
しまった。
やってしまった。
ここは繁華街の駅前だ。
大勢の人が行き交う場所で、私は盛大にバッグの中身をぶちまけてしまった。
通り過ぎる人たちの視線が気になる。
顔が熱くなるのが自分でもわかった。
私はその場にしゃがみ込み、散らばった物を拾い始める。
なんでこうなるんだろう。
情けなさが込み上げてきた、その時だった。
なにかが動く気配を感じた。
顔を上げると、その人も同じようにしゃがみ込み、散らばった携帯やメモ帳を拾ってくれていた。
「……すみません」
「別に……」
その人は落ちていた物をすべて拾い集め、私に差し出した。
そして立ち上がると、私の腕を軽く掴んで引き上げる。
その力に引かれるようにして、私は立ち上がった。
「マサト」
不意に、その人が口を開く。
「……えっ?」
「俺の名前」
「マサト……さん?」
「あぁ」
マサトさんは小さく笑った。
なんで今、このタイミングで自己紹介なんだろう。
そう思いながらも、彼のその笑顔につられて私も笑みを返す。
その時だった。
『マサトさん!!』
……マサトさんって、この人だよね。
マサトさんの視線は私の頭の上を越え、その先へ向けられていた。
振り返ろうとした時だった。
それを制するように、マサトさんの手が私の頭に乗せられる。
右手をポケットに入れたまま、左手だけを私の頭に置き、マサトさんは腰を屈めた。
視線の高さが揃う。
「ヒナ」
「はい?」
「明日、ハンカチを持っていくから」
「はい」
「じゃあな」
「はい」
私が頷くと、マサトさんは頭を軽くぽんぽんと叩き、笑みを浮かべた。
そして、そのまま手を離す。
頭から離れた手は再びポケットの中へ収まった。
私は小さく頭を下げ、その場を離れる。
少し歩いたところで、自分の心臓の音がやけに大きいことに気づいた。
頭の上には、まだ温もりが残っている気がする。
頬に触れると熱かった。
さっき聞いた低い声が、何度も頭の中で繰り返される。
『明日、ハンカチを持っていく』
……明日も会えるのかな。
そう思うと、自然と口元が緩んだ。
けれど、ふと疑問が浮かぶ。
マサトさんは、どこにハンカチを持ってくるつもりなんだろう。
どうやって私に渡すつもりなんだろう。
約束なんてなにもしていない。
場所も。
時間も。
……あぁ、そうか。
あれは社交辞令だったんだ。
この広い繁華街で。
これだけの人が行き交う中で。
場所も時間も決めていない私とマサトさんが、また会える可能性なんてほとんどない。
浮き立っていた気持ちが、すっと引いていく。
……私はなにを期待しているんだろう。
マンションの入口まで来た私は、振り返った。
さっきまでいた場所に、まだマサトさんはいる。
その傍には、同じような格好をした男の人が二人と、女の人がひとり。
女の人は少し派手な雰囲気の綺麗な人だった。
私とはまるで違う。
あの人たちと同じ場所に立つ人だ。
マサトさんの表情も、さっきとは違っていた。
優しげな顔ではない。
厳つい顔のまま、真剣な眼差しを向けている。
鋭い目で煙草の煙を吐き出す姿を見て、思った。
あぁ、あの人は、別の世界の人なんだ。
私は視線を外し、そのままマンションへ駆け込んだ。
シャワーを浴びると、すぐにベッドへ潜り込む。
……忘れよう。
今日のことは全部。
そう言い聞かせながら、私は目を閉じた。




