温もり
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『……ヌリス?……いないの?……ヌリスっ、どこぉ……』
『……もうこの屋敷にはおりません』
『ど、して……?』
『……お嬢様に害を加えたからです』
『ちがう……ちがうっ!ヌリスはっ……ヌリスは私のおねがいを聞いてくれただけよっ!……ヌリスをかえしてっ!』
『……申し訳ありません。旦那様のお決めになられたことです』
『あ……ぁ……ひっ、……ヌリス……ごめ、なさい……』
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「……め……なさ……っ……」
「——君、…………チッ……落ち着きなさい……」
夜明けが近づいた頃、ベッドから聞こえて来た泣き声にヴィクトルは天蓋を開けた。
彼女を苦しめた過去の大人たちに対する苛立ちを含んだ舌打ちを零し、リュシルを見下ろす。
ヴィクトルの脳裏にも断片的に流れ込んで来ていた。
……幼いうちに乳母まで取り上げられたのか……
ヴィクトルは眠りながら涙を流し、謝罪の言葉を繰り返すリュシルの手を握った。
そこから、自分の魔力を流していく。
水属性のもつ、純粋で清らかな、穏やかな魔力。
リュシルの魔力を刺激しないように、ゆっくりと少しずつ馴染ませて心を落ち着けていく。
「……ぁ……ヴィク、トルさん……?」
新しい涙が見えなくなった頃、ゆっくりとブルーグレーの瞳が開かれた。
魔力を流すことに集中していたヴィクトルはリュシルの微かな声に瞳を開ける。
「……起きたか」
「わ、たし……?」
とても悲しい夢を見ていた気がするけれど、思い出せない。ただ、繋がれた掌から伝わる心地の良い魔力に、荒れ狂う心が凪いでいく感じがするだけだった。
「嫌な夢でも見ていたのだろう。暴走することのないように僕の魔力を流していた」
「そうだったのですね……ありがとうございます。……お手を煩わせてすみません……」
瞬きをすると瞳に溜まっていた涙が零れ落ちた。
ヴィクトルは繋いでいた手を離し、その袖口で零れた涙を拭ってやる。
「……まだ起きるには早い。眠れるなら寝てなさい」
「わかり、ました……」
ヴィクトルは彼女の目元を拭い、ズレた掛け布団を直すと頭をひと撫でして、再び天蓋を閉じる。
あっという間の出来事に、リュシルは遠ざっていく足音を聞くことしか出来なかった。
「…………」
数回瞬きをして、今起きていたことを思い返す。
とても手早く、無駄なく、本当に一瞬の出来事だったように思う。
また……ヴィクトルさんの前で泣いてしまいました……泣いてばかりで……恥ずかしい……
自分の目元に触れ、昨日も同じようにしてくれた事を思い出す。その前はヴィクトルの胸の中で泣いていた事も連鎖的に蘇り、誰も見ていないのに両手で顔を覆ってしまった。
涙なんて何年も流していなかったのに、ここに来て毎日のように泣いているではないか。
一体自分はどうしてしまったのだろうかと顔を覆ったまま溜息をついた。
そっと顔から手を離し、ヴィクトルに握られていた手を見つめる。とても穏やかで優しい魔力を感じた。普段、体温のない冷たいはずの彼の手が自分と同じ温度に感じられたのは、それだけ長く握ってくれていたということなのだろう……。
リュシルにとって、ヴィクトルはいつも優しさでいっぱいだと思いながら再び瞳を閉じた。
ヴィクトルさんは……危険なんかじゃ、ない……
ゆっくりと眠りに落ちていく。
リュシルが寝た気配を感じ取り、ヴィクトルはベッドの方へ視線を移した。すっかり冷めてしまったコーヒーを一口飲み、溜息が零れた。
脳裏に映った彼女は四~五歳程だろうか……
人気の無い屋敷を、乳母を呼びながら一人で歩いていた。
……彼女の願いを聞いた乳母が、解雇されるとはどういう事だ。
弟があのくらいの頃はしょっちゅう抱き抱えていた記憶があるが……この子は、そんな頃から一人だったのか……?
公爵家の一人娘が、何という扱いだ。
自分には関係ない。……そう切り捨てられるのならどんなに楽だろうか。
思いがけず、主の過去を覗くことになるとは……
自分の過去を見られることに抵抗は無い。自分が見たくないだけで、無価値な記憶に興味は無い。
だが……彼女の記憶を見るのは想定外だ。
相互作用があるなど知らなかった。そもそも共感記憶自体が初めてなのだ。
こんなにも親和性の高い契約者など今まで居なかった。
……幸い、彼女は夢を覚えてはいないようだった。
それならば……僕が知らないフリをすればいい、か……
「……なぜ、僕がそこまでする必要が……」
自分の考えに自分で問う。
しかし、答えは分かりきっていた。
——主だから。貴重な魔力源だから。研究しがいのある魔力だから。純度の高い魔力だから——
取り繕うように理由を思い浮かべる。しかし、腑に落ちない。
「……彼女の、ために……」
無意識に口をついて出た言葉に、ハッと自ら口を押さえる。思いがけない本音に、自分自身で激しく困惑した。
「はっ……馬鹿馬鹿しい……」
自嘲するように笑い、短く息を吐く。
感情論など非合理的な思考に自分が陥るなんて、と眼鏡を外し目頭を軽く揉んだ。
そんなことよりも今は天秤の琥珀と精霊の問題が優先だ。
眼鏡をかけ直すと、脳内で優先順位を付け直す。
精霊についてが第一。次に彼女の体力。そして魔法練習だ。彼女の過去など、今は問題ではない。やっと子供らしく振る舞えるようになってきたのだ。掘り返す必要はない。
ヴィクトルはカップに残るコーヒーを飲み干し、思考を切り替えた。
夜明けまでもう少し。
ヴィクトルは再び本を開く。精霊樹について少しでも情報を集めたかった。しかし手持ちの書物では限度がある。
……図書館に行く機会があれば……
「……はぁ……」
思いの外、大きな溜息が漏れた。
ヴィクトルは窓辺へ向かい、少しだけ窓を開く。外気が冷え込んでいないことを確認すると、さらに窓を開け放ち、桟に腰掛けた。
丁度、朝日が昇ってくるところだった。
眩い光に目を細め、外を眺める。前方に温室。右側に校舎。図書館の奥に薬草園の入口も見えた。
早朝の空気は好きだった。澄んだ空気が思考もクリアにしてくれる。
ふと眼下に動く人影。視線を向ければローランが居た。薬草園に行くようだ。扉に手を掛けて、ふと視線がこちらに向いた。
「……ほう」
ローランはこの距離で気付いたらしい。ヴィクトルに向かって軽く手を振ると薬草園に入って行った。
教師としてはやる気が無さそうだが、薬草管理には真面目なようだ。
ベッドから衣擦れの音が聞こえて、ヴィクトルは視線をそちらに移した。その時、精霊が窓際に飛んできてクルクルと回る。何事かと精霊を見れば、その奥に温室へ続く並木から一人の人物が姿を現した。
ヴィクトルはハッとして、その人物をじっと見つめる。
白銀の長髪に薄緑のローブが朝の風に揺らめく。ヴィクトルの生きていた頃から何一つ、姿の変わらない人物。
学園長だ。
彼もヴィクトルが居ることに気付くと、こちらへ向かって小さく手を振ってきた。
『話は聞いたよ。放課後に学長室においで』
声の届く距離ではないのに、すぐ隣に居るように鮮明に耳に響く。
……風の精霊か……
ヴィクトルは僅かに姿勢を正して頭を下げた。
顔を上げればもう姿はない。無意識に止めていたらしい息を吐き出し、窓を閉めた。
いつの間にか、リュシルがいつも起きる時間を迎えていた。変な時間に寝直したせいか、まだ起きてこない。
ヴィクトルは天蓋を開き、眠るリュシルの肩をそっと揺する。
「君、起床の時間だ」
「……んん……」
珍しくリュシルの眉間に皺が寄る。まだ寝足りないようだ。しかしこのまま寝かせては授業に間に合わない気がして、ヴィクトルはもう一度肩を揺すった。
「……ぅ……ん、……?」
やっと、ぼんやりと瞳が開いた。ヴィクトルは肩から手を離すとリュシルの手首を掴む。
……脈は正常。ぼんやりしているのは二度寝をしたせいか。
「君、支度をしなさい。授業に遅れる」
「あ……はい。……おはようございます、ヴィクトルさん」
軽く目元を擦り、身体を起こした。どうにか意識がはっきりしてきたリュシルはヴィクトルに朝の挨拶をして微笑んだ。
「……おはよう。少し急ぎなさい」
嘆息して挨拶を返し、そっと頭を撫でると腕輪へ消えていく。
いつもより優しく前髪を揺らされて、リュシルの頬が緩んだ。そんなリュシルの目の前を、精霊がどこか楽しげに行ったり来たりする。
「ふふ……精霊さんも、おはようございます」
精霊はリュシルの鼻に一瞬止まり、ふわりと離れた。その仕草に嬉しそうに目を細めて、リュシルは支度を始める。
顔を洗って鏡を覗き込めば目元が少し赤かった。
泣いてしまったのだから仕方がないと半ば諦めて、着替えて髪を結った。レナからの髪飾りを忘れずに付けると部屋を出る。
いつもより少し遅れてしまったが、まだ食事の時間は十分にあった。談話室への扉を開ければ週末の静けさが嘘のように、全学年が入り交じって賑わっている。人の多さに少し圧倒されながら、リュシルは食堂を目指した。
「……あれがフォンテーヌの——……」
「兄の脚を——……」
「捨てられたも同然の——……」
「公爵家が動かないなら——……」
「……バレなきゃ——……」
リュシルが通り過ぎた後ろから、上級生の下卑た笑い声が談話室の一角から漏れ聞こえていた。
そのすぐ後ろで、バサバサッと数冊の本が落ちる音が響く。
「あ。……すみません、失礼しました」
下品な話題で盛り上がっていた上級生に、笑顔で謝罪するジークの姿があった。
上級生よりも背の高いジークは、口元こそ笑っていたが、その眼差しには得体の知れない威圧感が漂っていた。たまらず、上級生達は逃げるようにその場を後にする。
「……リュシル……」
本を拾い集めながら、ジークはなぜ彼女があんな事を言われなきゃいけないのかと強い憤りを感じた。
わざと落とした本を亜空間BOXに仕舞い込むと、足早に食堂へ向かう。
食堂に足を踏み入れると、リュシルは何を食べようかと朝食を選んでいた。
小さなパンとサラダ、オムレツとフルーツを取って会計に向かう。
その後ろ姿を見つけたジークは、自分も手早く朝食を選んでリュシルを追いかけた。
本当は談話室で昨日の書き込みについてお礼を言いたかった。しかし、上級生の声が耳に入ってきたのだ。
女性を軽んじるような、何とも不快な言葉たちに理性を保つのがやっとだった。
ヴィクトルが付いているのだから、危害を加えられることはないとは思うが……それでも、ヴィクトルに教えておいた方がいいだろう。
「——リュシルっ」
会計が終わりどこに座ろうかと食堂を見渡すリュシルに声を掛ける。
「ジークさん、おはようございます」
「おはよう。一緒してもいいか?」
「もちろんです。待ってますね」
「ありがとう」
同席の許可も取れ、安堵してジークは会計を済ませた。
「待たせてすまない。リュシルは今日もアイリスのように美しいな」
「ふふっ……ありがとうございます」
北部特有のスマートな挨拶に微笑んで、一緒に空いている席へと移動した。
ジークはさり気なく辺りを見回して、先程の上級生が居ないことを確認する。どうやら近くには居ないようだ。
リュシルと向かい合わせに座ると、手を合わせて食事を始めた。
「……そうだ。昨日の書き込み、ありがとうな。通信機で親父に連絡したら凄く喜んでてさ。今度、ドルイドの里長に挨拶に行くって言ってた」
「そうなんですね!ヴィクトルさんも上手く付き合っていけば北部は今より楽になるって言っていました」
「あぁ、そうなることを願うよ。……あと、さ……少しヴィクトルと話がしたいんだが、教室に行く前に時間を貰うことは出来るか?」
何だか言いにくそうに眉を下げるジークに、リュシルは笑顔で頷いた。
その後は他愛ない話をしながら食事を進め、リュシルが食べ終えるのを待って食堂を後にした。
寮を出るとジークはバンディを顕現し、リュシルの傍に居るように命じる。
「悪い、すぐに済むから少しだけ待っててもらえるか?」
「はい、大丈夫ですよ。……ヴィクトルさん、出てきてください」
リュシルの体力を考慮し、寮の裏手に回って出て来たヴィクトルと少しだけリュシルから離れた。
「ドルイドの情報、助かった。ありがとう。それと……さっき、談話室で……」
言い淀むジークに、首を傾げる。
「……なんだ?」
「……上級生が、リュシルに対してあまり良くない発言をしてたんだ……アンタがいれば大丈夫だとは思うんだが、その……四、五人で下世話な事を言っていたから、気をつけてやって欲しい……」
「……なるほど。獣以下の奴らがいるのか」
「言ってただけで、実行するかは分からない。けど……リュシルが傷付くことは起きて欲しくない、から……」
「言われずとも、そのような輩は排除する。だが……情報には感謝する」
それだけ言って、ヴィクトルは腕輪へと戻っていった。ヴィクトルの言葉に安堵して、ジークはバンディを撫でているリュシルの元へ戻った。
「……ありがとう、リュシル。バンディも護衛ありがとうな」
「ふふっ……どういたしまして。お話は大丈夫でしたか?」
「あぁ、おかげさまで」
バンディの首元をわしゃわしゃと撫でて、腕輪に戻す。ジークは少し不安げな表情でリュシルを見つめ、ぽんと頭を撫でると一緒に校舎に向かった。
ジークはリュシルを中距離クラスまで送ってから、近接クラスへ行く。リュシルはこの日も挨拶に返事は貰えず、一人で後方の席に着いた。
手持ち無沙汰に教科書を取り出し、昨日途中で寝てしまった戦術案を考える。
えっと……次は、戦闘中に援軍が来てしまった時ですね……援軍に気付いた時点で、そちらを足止め出来る何か……私の武器は針の形だけど糸があるわけでは無いから縫い止めることは出来ない……
……水を糸のようにする事は出来るのかしら……?
例えば水を糸のようにして、縫い止めて一瞬で凍らせたり出来たら……もし出来れば、攻撃の汎用性は高くなりますね……魔力操作は難しそうですが、試してみる価値はありそう……
今日は魔法練習があるでしょうか……色々試してみたい……
少しワクワクとしながら授業が始まるのを待っていると、もうすぐ始業開始になる頃にサシャとイネスが一緒に教室に入って来た。
イネスがクラスメイトの女の子に呼ばれてそちらに向かい、サシャは迷わずリュシルの隣に座った。
「おはよう、リュシルさん」
「おはようございます、サシャさん」
「…………」
「…………?」
挨拶をしたまま、サシャが何かを探るような目で、じっとリュシルを見つめてくる。その視線に、リュシルはどうしたのかと小首を傾げた。
「……何か、違う……」
「え?」
ポツリと呟いたサシャの言葉はリュシルの耳には届かず、瞬きを繰り返す。
……どうしたのでしょうか?
『……まさか……』
『? どうしました?』
『その男、魔力が見えてるのか……?』
『えっ?……ヴィクトルさん、みたいに……?』
『いや……ヤツは僕と同じ眼ではない……どういう事だ……』
『そういえば……図書館でお会いした時に、魔力のゆらぎが気になって来たと仰っていましたね……』
『ゆらぎ……感覚で捉えているという事か……?』
ヴィクトルの言葉が言い終わらないうちに、サシャはふわりと表情を緩めた。
「ごめんね。なんでもない。……目元が少し赤い気がするけど、大丈夫?」
「え……あ……だ、大丈夫ですっ」
「……ヴィクトル様に泣かされたとかじゃ、ない?」
「そんなこと有り得ませんっ」
思いの外、大きな声が出てしまった。
リュシルは慌てて口を押さえて、小さく謝罪の言葉を零す。
「す、すみません……でも、本当に……ヴィクトルさんはとても優しい方です」
そう言いながらリュシルはとても、綺麗な笑顔を見せた。




