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空蝉  作者: ゆいまる
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夏の終わり 6

 軽くノックすると、すぐに返事が返ってきた。

 その声は静かで、透明だ。

 僕の心臓は途端に跳ね上がり、内側からそれが僕を強く打ち始める。

 僕の中にはないけど、もう確信できる。4年前も僕は同じ気持ちだった。もどかし くて、恥ずかしくて、でも、それ以上に彼女の事が大切で……。

 それはたった6歳の僕にはなんの事かわからなかったはずだ。でも、今ならわかる。


「入るよ」


 僕はそう言うと、扉を横にひいた。なんの抵抗もなく開かれたドアの向こうには、さらなる深い闇が広がっていて、正面に星空を背負った彼女が白く揺れているのが見えた。


「翼君」


 彼女は窓際に立っていた。僕と目が合うと、小さく微笑んで身を反転させ星空を見上げた。僕はその隣に立って、彼女の視線を辿るように、やはり空を見上げる。


「八雲に、会ったのね?」


 暗闇に落とされた声は、水鏡に響く波紋のようだ。僕は静かに首を縦に振った。


「八雲さんの事は、覚えていられるの?」


 アヤメは苦笑いして頷くと「目覚めるとね、あの人がいるの。そして、名乗って。私を世話している事、20時間後には記憶が無くなること、皆教えてくれるわ。この4年間。彼は毎朝、そうやってきたみたい」

 目覚める度に自分の事を忘れる人間と、毎日顔を合わせるのはどういう気持ちなんだろう。4年、彼らはずっと一緒にいたのに、きっと八雲さんは彼女の事を思ってずっとやって来たのに、彼女の中には何一つ残ってはいない。二人の思い出や時間はない。それは……。

 僕は八雲さんのあの優しげな目を思い出した。

 大人の事情はよくわからないけど、八雲さんは本当に彼女の父親になりたかったのかな。そう思った。


「翼君に会えて、凄く嬉しかったの」


「え?」


 アヤメの言葉に僕は目を瞬かせると、彼女は微笑んだ。

 そして窓枠に手を添えると、じっと数万年、数億年の昔から届く光に目を向ける。


「貴方は、私の中で消えない唯一の人だったから」


 アヤメは時間を超えた何かに目を凝らすような顔をすると「ほぅ」と息をついた。


「私の中の記憶はね、私の事でいっぱいだった。私の中の私は、いつもあなたの名前を呼んでいた。そして記憶の中の私は私の名前を呼んでいた。貴方のおかげで、私は私を忘れないでいられたの」


 アヤメはそう言うと、今度は窓ガラスに映る自分を見つめた。


「一瞬だけね、貴方の顔を見える時があるの。私は、それが『翼君』なんだってわかってた。ずっと会いたかった。私を私でいさせてくれる男の子に」


 そう言うと、チラリと僕の方を見た。

 僕も両頬が熱くなるのを感じながら見つめ返す。


「私の記憶の中に少しだけあるの、翼君の顔。きっと……」


「もしかして、目の中に映った顔?」


 そう、僕の記憶の中にももう、ハッキリと見える。相手の目に映った、僕自身の顔が。

 アヤメは少し恥ずかしげに頬を緩めると「たぶん」と呟いた。

 そっと、アヤメの手が蝶の様に窓枠から飛び立ち、僕の手の上で止まった。触れた指先の感触に、僕は息苦しいほどの鼓動を感じ思わず顔を伏せる。


「記憶を……元に戻そう。私、私の記憶が欲しい」


 それは穏やかで、でも強い意志のこもった声だった。


「アヤメちゃん……」


 僕は動揺して視線の中にある彼女の手を見つめる。

 彼女の手は僕を包んだまま、僕を逃がすまいとそして、自分自身逃げまいと必死になっているように見えた。


「もう、忘れたくないの。でも今日の事も、このままだときっと朝が来たら私は忘れてしまっている。でもね……でも、本当に。私は……」


 結ばれた僕らの手の上に温かな雫が落ちた。

 僕はそっと顔をあげた。


「でも、もし記憶を戻しても、元には戻らないかもしれない。それに忘れた方がいいことだってあるかもしれないよ?」


 せっかく忘れられた記憶が戻ってしまうかもしれない。嫌な記憶はもどり、20時間の呪いは解けない、そんな可能性だってあるんだ。

 だったら……。

 でも、彼女は悲しそうな顔をして僕をじっと見た。


「やっぱり、私、4年前に何か、したのね?」


「……それは」


「私の中のあなたの記憶が、酷く動揺しているの。動揺して、怖がって、でも……私の手を握っている」


 きっと、それは儀式後の記憶だ。もしかしたら僕と同じように、儀式後の記憶が欠片になって残っているのかもしれない。


「私、知りたい! どんな事でも。もし、私が何か酷い事をしたのだとしたら……八雲は言ってた、私は錯乱して暴れる事があるから一人じゃ行動しない方がいいって。でも、私、どうしても知りたかったの。覚えているうちに。貴方の事、昔ここで起こった事」


「で、今朝、八雲さんを?」


「私のためにって用意していたお薬で眠らせちゃった。神社にいた男の子も」


 それはきっと光の事だ。そうか、アヤメは今朝までは昨夜の記憶があった。今は昨夜の記憶はないけど今朝の記憶は残っている。彼女なりに、そうやって消えていく記憶を繋いでいるんだ。


「どうしても……知りたいの?」


 僕はじっと彼女の瞳を見つめた。

 彼女の眼の中の僕は僕を見つめている。

 彼女もきっと、僕の中の彼女を今、向き合っているのだろう。ゆっくりと顎を引いた。


「何を錯乱状態の中で起こしたとしても、それは私の罪だと思う。私は私でいたい。私は、どんなに辛くてもいい。もう私を無くしたくないの」


 アヤメはそう言うと、消えていく記憶に怯えるように僕の手を手繰り寄せた。

 そして、そっと僕の胸にその額を押し当てる。


「どんどん、消えていくの。どんどん、思い出せなくなっていくの。やっと翼君に会えたのに。もう、いや。絶対に……」


「今日の記憶だけ交換するって言うのは?」


 アヤメは首を横に振った。

 そして


「八雲にも、もう辛い思いをさせたくない」


 そう呟いた。

 僕は眉をよせ、視線を落とす。

 そう、忘れる事も辛ければ、忘れられる事だってきっと物凄く辛い。だって、それは一緒にいたこと、そこに自分が生きていた事、それを否定されることになるんだから。

 それが大切な人なら、尚更だ。

 僕は目を閉じた。

 瞼の裏には父さんの顔が浮かんだ。

 でも、それは昔ほど輪郭のはっきりしたものじゃない。

 そう、僕が日立を嫌った理由は、『僕が』父さんを忘れてしまいそうで嫌だったからだ。

 新しい父さん、新しい家族。流れていく時間の中で、父さんだけが過去に取り残されていく。あんなに大好きだった父さんでも、もしかしたら過去が遠くなるにつれて、どんどんどんどん小さくなっていってしまうんじゃないか。そんな気がして……僕は僕の時間を進めたくなかったんだ。

 でも、きっとそれは違うよね。

 僕は心の中で父さんに訊いてみた。でも何にも答えは返ってこない。

 父さんはもうここにはいないんだ。

 けど、だからって僕らが一緒にいた時間までが消えるわけじゃない。

 空気が、揺れた。

 僕らの後ろで騒がしい音がして、扉が開かれた。


「翼!」


 振り返ると日立だった。

 日立はやっぱり何もかもでかい作りの顔で、僕を見つめると


「すまん。空知さんからここにいるから安心しろって言われたんだけどな。どうしても伝えないといけない事があって」


 そう捲し立てると、やや興奮した顔でこう言った。


「お前の妹が生まれたぞ」


 僕は僅かに息を飲んだ。軽く見開いた目に、日立の複雑な顔が映る。


「さっき、お前の事を伝えにナースステーションに行った時に、ちょど連絡があって。母さんも、赤ちゃんも元気なんだそうだ」


 本当は叫び出したいほど嬉しいくせに、日立は抑えた声で言った。いつものように思いっきり喜べばいいのに。そう思ったけど


「よかったね」


 そういったアヤメの顔を見て、僕はようやくわかった。日立がここにいる意味と、僕らはどうするべきかを……。

 僕は微笑むと、日立を一瞥した。

 そう、どんなに辛い事があっても、どんなに忘れたくない事があっても、どちらにしろ僕らは先に進んでいかないといけないんだ。過去は過去。消えやしないけど、それは哀しいくらいに過去でしかないのだ。

 だから。

 それからまたアヤメに視線を戻し、念を押すように言った。


「もし、これで何かを思い出しても、僕はここにいる。僕は、変わらない」


「うん」


 アヤメは力強く頷いた。

 もう、その顔はおぼろげな幽霊の様な危うさはなく、空蝉の様な虚ろさもない。

 僕は微笑むと、握った手の力を込めた。

 そして、ゆっくりと僕らはあの日の様に唇を重ねた。

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