夏の終わり 5
今は何時頃なのだろうか?
さっきの窓から見た空の色で、夜と言う事はわかったけど正確にはわからない。
ただ、病棟はひっそりとしていて、遠くに光るナースステーションだけがぼんやりと浮かび上がるように見えた。看護師が何かを手にして僕の病室に入っていくのが見えて、僕は慌てて足取りを速める。
どうしても、すぐ彼女に会いたかったからだ。
人がいるはずの場所なのに、声一つどころか気配も感じられない廊下は、少し怖い気もしたけど、僕はとにかくそんな事に怯むより彼女の元に急ぐことに集中する事にした。
カラカラと点滴棒の滑る音が廊下に響く。
僕はそれに耳を傾けながら考えた。
まず、あの夜そして河原で見た父さんの事。
あれはどうやら八雲さんだったらしい。あとで光に聞けばきっとわかると思うけど。八雲さんの推測が正しいのなら、僕はアヤメに催眠にかけられていたのだ。一度目はあの暗闇の中で、二度目は河童石の上で。僕は僕の記憶を八雲さんに投影させていたにすぎない。
父さんは……やっぱり死んだままなんだ。
生き返るはずなんかないと思いつつ、どこかで願っていた想いを僕は自分で否定した。現実でない夢はきっと苦しいだけだ。
「父さん」
それでも……僕は、少し嬉しかったよ。
一目でも会えたから。
それをアヤメにも伝えないといけない気がした。
病室の前に掲げられているプレートを見落とさないように進んでいく。
背中で看護師さんと日立が僕を探す声がした。夜だからさほど大きな声は出せないでいるようだ。
僕は追いつかれないか振り返ってみたけど、すぐに八雲さんの声がして、二人の声は止んだ。
良かった。八雲さんが何か説得してくれたようだ。
僕は胸をなで下ろすと、もう一度顔をあげた。
「あった」
思わず呟いてしまった。
さっき聞いたアヤメの病室だ。
僕はそのドアの向こうにいるはずの彼女の事を考えた。
4年前の出来事……。
それを彼女に話すべきなんだろうか?
いや、もし八雲さんの話が本当なら、それは話すべきじゃないのかもしれない。というより、もしかしたら……彼女は覚えていたくなかったんじゃないか、そういう気がした。
たぶん、4年前、僕の記憶を奪ったのは2回。儀式前と後だ。
でも、その意味合いは全く正反対。
初めは、お互いを忘れないための交換。
二回目は……。
僕は目をその時の彼女の気持ちを考えて目を閉じた。
おそらく、彼女は父親を殺したあとに逃げた。僕はそれを見ていた。そして彼女を探し、見つけた。
想像してみる。
血まみれで蹲って途方に暮れている彼女を……。
僕は僕の手をじっと見つめた。
そう、どうしたらいいかわからなくて、怖くて、怖くて震えていたんだ。
そしてら、温かく手を包んでくれた。
嬉しくて、そして悲しい涙が……。その記憶は今は僕の中にある。
彼女はこう考えたんだ。
こんな自分を忘れて欲しい。もう一度記憶を奪ったらどうか?僕の中から儀式前の自分だけを残すことはできないだろうか……って。
そして、彼女は、実行した。
僕は手を握りしめ、唇を噛んだ。
彼女がそうした結果、僕の中には儀式前の『彼女の持っていた記憶』と僅かな儀式後の『彼女の想いの欠片』が残り、彼女の中では儀式前の『僕の持っていた記憶』だけが残って、儀式後の記憶は20時間後に全てなくなった。
これが、きっと僕らの真相。
クマゼミの泣き声を聞いていた彼女はどんな気持ちだったんだろう。
僕は手をだらりと下ろすと自分の足元を見つめた。
空蝉
魂の抜け殻
記憶を全て無くす運命
それは己を失う事
まさに死に等しく
あの夏
彼女は
父親から
村人から
クマゼミの鳴き声が響く世界から
こう言われているような気がしていたんだ
シネシネシネ……と。
「こんなままで、いいはずない」
彼女はまた、20時間後に忘れてしまうのだろう。でも、彼女は言ったじゃないか、今日の思い出が欲しいって。
っていう事は
忘れたくない。
記憶を残したい。
『生きて』いたい
そういう事なんだ。
僕は息をのむとドアを睨みつけた。
行こう。
僕だって、彼女の事は忘れたくないし、忘れられたくもない。
ふと、父さんの事が浮かんだ。
死んで、どんどん遠くなっていく父さんの影。
新しい父親に新しい家族。
忘れられるのは……本当に……。
そうか、だから僕は。
僕は喉に引っ掻かていた重い溜息を吐きだすと、軽く拳を握った。




