蝉の運命 4
僕らは手をつないだまま山を降り、境内を抜けた。
あの石段に差し掛かった辺りで、僕はふと父さんの事が気になって振り返りかけた。でも……。
「ダメ!」
それまで黙っていた彼女が強く手を引いた。僕は驚いて彼女を見る。彼女は困ったような顔をして
「ここでは振り返っちゃ駄目だよ」
「あ……」
昨日、光に言われた事を思い出す。確か、ここで振り返ると【連れて行かれる】んだった。僕はそんな迷信……と思いつつも彼女があんまりに真剣なものだから、気まずくて「そうだったね」とバツが悪い顔で答えた。
階段を一段ずつ降りながら
「君もここの迷信、知ってるんだ。もしかして、光達とも友達?」
父さんの事は聞きづらくてそう話を振ってみた。
思えば聞きたい事は山ほどある。
そっと繋いだ指の先にある横顔を覗いてみた。足元を確認しながら進むその様子は、言葉を探しているようにも見えたし、僕が質問すること自体に当惑しているようにも見えた。
彼女は石段を降り切ると、足を止め、僕の方をじっと見た。そしてほとんどその唇を動かさずに、か細い声で
「質問は嫌い。今はいいでしょ? それとも、知らないと、翼君は私と一緒にいられないの?」
非難めいた口調でそう言った。僕は慌てて首を横に振った。
「そんなつもりじゃ。でも……」
「でも?」
彼女は僕の僅かな言葉の淀みを捉え、首を傾げた。僕はその視線が痛くて足もとに目を落とす。
ここまで来ても、やっぱり彼女の事は何にも思い出せていなくて、どうしても聞いておきたい事が一つだけ残っていたんだ。
確かに、死んだはずの父さんの事も聞きたい。昨日の夜の事だって聞きたい。彼女がこの村にどうかかわっているのかも聞きたい。4年前の事だって……。
でも、何より、僕が知りたかったのは。
「名前」
「え?」
ポツリといった単語に、彼女は不思議そうにその黒目がちの目を何度か瞬かせた。僕は一層バツが悪くなって、唇を一度軽く噛むと繋いでいる手を少し緩めた。
「ごめん。どうしても君の事、思い出せなくて」
「あ……」
残念そうな声色に、僕はドキリとして顔を上げた。
「違うんだ! 君の事だけじゃない。僕は……」
「知ってる」
彼女のそう言う声は、静かだった。静寂と寂しさに満ちたその声は、僕の言葉を奪う。彼女は解けかけた手を握り直すと、何かを酷く諦めた後の様な笑顔になって、僕を見つめた。
「知ってるよ」
囁くような声は、嘘をついている様子はなかった。そして
「だって、4年前も同じように、翼君の思い出は私が貰ったんだもの」
唇の間から、そんな事を漏らした。
「え?」
まるで意味がわからない。一緒に過ごした事が、忘れる理由にはならないはずだ。
蝉達が騒ぎ出す。
思い出せ思い出せ思い出せ……
鼓膜を通過して脳を直接揺さぶるその声に、僕はやりきれなくなる。
「わからないよ。言ってる事が」
思わず零れた言葉に
「いいじゃない。わからないままで」
彼女の声は優しく答えた。そして
「どうせ、今日の事も翼君は忘れちゃうんだから」
僕の手を握った。昨夜とはまるで違うか弱さに、僕の腕についた傷跡の方が不自然に見える。
「それより、行こう? 私にはそんなにたくさん時間がないの」
「門限?」
「みたいなもの。陽が落ちる前に帰らないと」
そういって彼女は真っ青な空を見上げた。眩しそうに見上げるその首筋にはらりと黒い髪の束が落ちている。それに僕は妙に動揺してしまって、目をそらせた。
心臓が昨日の夜とは違う種類の鼓動を打ち始め、同時に僕は自己嫌悪する。なにを意識しているんだ。彼女は友達。手を繋いだりはしてるし、そんな事、学校の女子とは絶対にしないけど、それでも……。
さっきまで繋いでいる事に何の違和感も感じていなかったのに、途端に恥ずかしくなって、僕は手をひっこめたい衝動にかられた。
でも、それを敏感に感じたのか、彼女の方がわずかに指先に力を込めた。そして僕に視線を戻すと
「名前……どうしてもないとダメ?」
哀しそうな顔をして訊いた。日差しに比例して黒く濃くなる木陰が僕らを揺らす。
光と影の波にたゆたう彼女の白い頬が、ほのかに紅潮しているのに僕は気がついた。
そして、小さく頷いた。
「僕は、忘れっぽいのかもしれないけど……今度は、もう、忘れないから」
「そう」
彼女は目を細めると、少し考えているようだった。
凪いでいた風が吹き、木陰が囁く。熱を帯びた空気のさざ波に彼女の声がのって、僕の耳をそっと撫でた。
「アヤメ。翼君の記憶の中ではね」
不安げな声色を誤魔化すように彼女は微笑んでいた。どうして自分の名前をそんな風に告げるのか、僕にはやっぱりわからなくて……。
「アヤメちゃん、だね」
このまま光と影の狭間に消えてしまいそうな彼女の手を握り返すと、そう呼んだ。
不思議な子。謎だらけの友達。でも、僕らに今必要なのは、名前くらいな気がした。そして、この名前は忘れちゃいけない。忘れない。僕はそう決心して、
「アヤメちゃん。行こう」
その名をもう一度口にすると、強い夏の日差しの中に彼女を連れ出した。




