蝉の運命 3
もう、僕は彼女が幽霊だとかは思えなかった。
彼女の足元には影があり、僕を掴んだ手にも確かにそこにいる感触がハッキリとしていた。彼女への恐怖心が薄れると同時に今度は湧きでてくるような罪悪感に、僕は焦り始める。
思い出さなきゃ……思い出さなきゃ……そう自分に言い聞かせ、僕は必死になって自分の頭の中のアルバムを引っぱり出し始める。
4年前。
僕は確かにこの村に来た。母さん、そして……父さんと。
父さんと母さんはこの村出身で、夏休みを利用して来たんだ。僕がこの村に来るのは赤ん坊以来だって、おじいちゃんもおばあちゃんも喜んでくれて……。
「あれ?」
そこで僕はハタと記憶のアルバムを捲るのを止めた。
父さんのおじいちゃん、おばあちゃんって? 違う、父さんの出身はここじゃない。僕が今、住んでいる町のはずだ。
「あれ?」
僕は軽いめまいを覚えて、額に手をあてた。前髪を何度が落ち着きなくかきあげ、混乱し始める頭をもう一度整理し直す。
僕は、確かのここには来た。父さんと川に行ったり、庭の野菜を勝手にもいで一緒に母さんに叱られたり、虫取りにだって行った。
そう、父さん……と?
「あれ?」
ぐらりと地面が揺れた気がした。蝉の音がさらに迫ってくる。僕は大岩に寄りかかると、気分の悪さを覚えて胸を押さえた。
おかしい。何かがおかしい。僕は父さんとここに来たはずだ。そのはずなのに
「父さんの顔が……思い出せない」
どれだけ思い出そうとしても、ベッドの上で横になる父さんばかりだ。そう、もともと父さんの体は強くはなかった。僕の一番古い記憶の中でも、父さんは書斎に座っているかベッドの上だ。
教授だった父さんは、週に数回、大学の授業に出て行くだけでやっとだったんだ。
「あれ?」
そうだ、父さんが病気したのはここに来た後じゃない。ぐっと悪くなったのはここから帰った後だけど……。
「あれ?」
どうして、父さん、あの時は僕と外であんな遊べたんだ? っていうか、本当にあれは……?
世界がぶれる。記憶の本棚が崩れ、僕のアルバムがぐちゃぐちゃになっていく。
どういうこと? 僕の記憶にはここの川は確かにある。誰かと一緒に魚をとった……はずだ。虫取りだって、本格的だった。怖がる僕の手の上に、そっと誰かは蝉を載せてくれた。
目を瞑る。蝉達が囃し立てる。
思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い……
彼女が言う蝉の声は、こう聞こえるって事だろうか?
そう思うと、クマゼミの声は本当にそう言っているようにしか聞こえなくなって来て、何にもハッキリと思いだせない僕をじりじりと焦らせる。
でも、考えれば考えるほど記憶の形が解けていく。まるでそれは水底にあるものを覗こうとしても、水面が揺らいでなかなかその形を捉える事が出来ないでいる。そんな感じだ。
「翼君」
本格的に目まいを感じた時、彼女の声がした。
彼女は僕の正面に立つ。
「あ、れ?」
この光景、どこかで見たことあるような……。
「あの時、翼君は言ってくれたよね。もし、記憶がなくなっても、また新しい思い出を作ればいいって」
それは、こないだ希が、僕に言った言葉だ。僕の言葉じゃ……。
彼女はまた空をふり仰ぐと「ほぅ」と息を漏らした。まるで今まで長い間水の中にいて、ようやく水面から顔を出したかのような溜息だ。
「私……蝉になりたかった」
「え?」
「どうせ、長くないなら、蝉のように生きたい」
僕は眉を寄せる。彼女は目を細めると、儚げに微笑んで乞うような眼差しを僕に投げかけた。そして、まるで秘密を囁くような声で言った。
「今日、一日でいい……思い出を私にくれない?」
僕は気がつくと頷いていた。
彼女の言う事はわからないことだらけだ。彼女が誰なのかもまだわからない。それどころか、僕の記憶も曖昧で昨日まで確信を持っていた想いですら、その輪郭がぼやけて見えない。でも、でも……。
「わかった。行こう」
僕は頷くと、彼女の手を僕からとった。
その手は相変わらず酷く冷たかったけど
「どこから行きたい?」
僕はぎゅっと強く握る。
彼女は一瞬驚いた顔をしたけど、嬉しそうに握り返してくれた。そして眩しそうに目を細めると
「貴方の記憶の中にある場所に……」
そう、言った。




