蝉の運命 2
その声色に、条件反射の様に心臓が動揺する。
僕は慌てて顔を上げた。
その『声』ままさしく昨夜のあの『声』で、そして……。
白い手が岩の向こうから見えた。長い黒髪が揺れ、ゆっくりとその顔が岩の向こうから僕を見つめながら現れる。
途端に、昨夜の恐怖が肌を伝い蘇る。一瞬にして鳥肌が全身に立ち、父さんのあの必死な声が耳にこだまする。
「ね。聞こえるよね?」
……あの子だった。
僕は父さんに会うはずだった場所に現れた彼女の姿を、半ば絶望的な気持ちで見つめた。
逃げられない……そう言う事か。
そんな僕は息をのむのがやっとで、とっくの昔に竦んだ足じゃ逃げられるわけもなかった。
あの子はそれがおかしいのか、くすくす笑いながら姿を見せると、背を岩に預け青空を黙って見上げた。確かにそこにいるのに、いるはずなのに、いないような危うい雰囲気。それは昨日、帽子を取ってあげた時と変わらないのに、どうしても父さんのあの声が離れなくて、僕は警戒を解く気にはなれなかった。
「ね、父さんは?」
僕はここで『父さん』と会うはずだった。この子じゃない!
僕は空を見つめたままのあの子に、不安の分だけ声を荒げた。
「父さんはどこに行ったの?僕は、ここで父さんと会う予定だったんだ!」
「お父さん……あの人が、あなたの?」
でも、あの子は怯む様子も動揺する様子もなく、すっと目を細めると独り言の様にそう言った。その声には、何の感情も見受けられず、オウム返ししているだけの様に聞こえた。
そして「ほぅ」と小さく、ため息の様な声をもらすと再びこう言った。
「蝉が私に囁いてる……」
その横顔は、怖いはずなのに同時に、やっぱり綺麗だった。
「なんて、聞こえるの?」
僕は思わず訊いてしまった。その子はようやく僕の声が心に届いたとでも言うように、視線をこちらに戻すと、にっこり微笑んだ。そして、そのか細い手を差し出すと。
「思い出してよ。翼君。私、貴方には教えたはずだわ」
そう言って、僕の手を、あの冷たい手で握った。
その手は氷の様に冷たく、僕は息を飲む。ひんやりとして柔らかい感触は胃の底を握りしめるような恐怖感とともに、妙に僕の気持ちを落ち着かせた。
まるで相反するものが同時に振って湧く感覚に、僕は戸惑ったけど、その手を見ていると、どうせ逃げられないのなら……そんな気持ちが生まれてきて、僕は手はそのままでゆっくりと顔をあげた。
「……僕は、君に会った事があるんだね?」
僕の声が蝉の音に溶けて行く。
彼女は笑みをすぅっと消すと、視線を落として力なく頷いた。その横顔は、昨夜の恐怖も、たった今覚えたばかりの薄気味悪さも忘れさせるほど頼りなくて、僕は僕が彼女を忘れてしまっている事に強い罪悪感を覚えた。
どうして、僕はここでの出来事を忘れているんだろう?
どうして、僕は皆の事を忘れてしまっていたんだろう?
どうして、僕は……。
「ごめん」
僕の声に、彼女は首を横に振ると「仕方ない事なの。わかってたの」と呟いた。
「仕方ない?」
それは、もう何年も前だからって事だろうか?
彼女は僕に頷いて見せると、泣き出しそうな顔で俯いたまま答えた。
繋いでいた手が解ける。
「私は、空蝉だから」
蝉達の声が一層騒がしくなった。
夏の日差しは肌を刺すほどの強さを帯び始めているのに、それはまるでガラス越しの出来事のように僕らを包む。
「うつ……せ、み?」
聞いた事のない単語に僕が首を傾げると、彼女溜息を落とした。
唇をきつく結ぶその横顔は、この聞きなれない単語をもう二度と口にするなと言っているようで、僕は何も聞けずに、同じように口を噤んでしまった。




