蝉の運命 1
お風呂からあがり、光の服を借りて居間に行くと、おばあちゃんが迎えに来ていた。
おばあちゃんは僕の顔を見ると、ちょっと困った顔をしたけど何にも言わなかった。代わりに、僕の頭を抑え、光の両親と光のお兄さんに「お騒がせしました」と頭を下げた。
帰り道も、おばあちゃんは何にも訊いてこなかった。ただ、じっと僕の手を握っていた。
僕は、少し気まずくて一言だけおばあちゃんに訊いてみた。
「父さんは本当に死んじゃったのかな?」
おばあちゃんは一瞬だけ足を止め、僕の事をさも可哀そうだと言わんばかりの顔をして「そうだよ」とだけ答えた。
その答えを聞いて、僕は少しだけ後悔した。
そんな答え予想できたはずなのに、どうして口にしてしまったのだろう……と。
僕は玄関をくぐる瞬間だけ、あの屋敷の方を振り向いてみた。もしかしたら、父さんの影だけでも見えるかもしれない、そう思ったからだ。けど、何も見えるはずはなく……ただ頼りない月が空に浮かんでいるだけだった。
布団に入って僕はじっと闇に眼を凝らしてみた。不思議と、もう怖さはなかった。あの体験が現実離れし過ぎていたせいか、本当に夢でも見たようだ。
昼間の疲れもあって、瞼は意外に簡単に重くなった。僕は心地よい眠りに揺れながら、ぼんやりと考えた。
明日、神社に行ってみよう……と。
眩しい光に僕は顔をしかめた。
耳には蝉の煩い鳴き声。
寝汗もかいているらしい。不快な肌感覚に僕は張りついた前髪を目を瞑ったままかきあげた。
もう、朝か……夢を見た気がまったくしなかった。
夢って言うなら、そう、それは昨日の……。
「そうだ!」
僕は飛び起きると、慌てて時計を探した。
いつもの部屋と違うと、時計がどこにあるのかすぐにわからない。もどかしさにイライラしながら、ようやく見つけた時計は7時を過ぎる時刻を指していた。
「!」
確か、昨日、父さんは6時に神社のご神体のとこにいるって言ってたんじゃないか!?
僕は着替えもそこそこ、顔も洗わずに玄関に駆け込んだ。
「翼ちゃん?」
おばあちゃんが驚いて玄関で靴を履く僕を見ていた。僕は説明も面倒で「ちょっと行ってくる!」それだけを告げると、玄関を飛び出した。
――
7時と言っても、夏の朝は早いせいか、すっかり日は昇っていた。
僕は眩しさを堪えながら石ころだらけの道を急いだ。
蝉の声が耳につく。
「ね。クマゼミの声って……」
どこかで聞いたことあるような声に、僕はぎくりとして立ち止まった。でも、そこには誰もいなくて、遠くまでやっぱり青あおとした田園が広がっているだけだ。
僕は立ち尽くす。
僕は、一体、何を忘れているんだ?
早朝と言うのに、もう陽に温められた風が僕の隣を通り過ぎた。大きな手が撫でたかのように、緑の稲が波を打つ。
「ね。クマゼミの声って……」
そうだ、僕はこんな風景を見ながら、誰かと蝉の声について話した事があった。父さん?いいや違う。もっと、胸が痛くなるような相手……。
「ね。クマゼミの声って……・って聞こえない?」
僕は耳を澄ませた。
遠くの方に、あの雑木林が見える。
この声は、あの子のモノなのか? 僕は、あの子を、あの屋敷を知っているって言うのか? でも、僕は……僕の記憶には……。
蝉の声が僕を囃し立てているようだった。あのエンドレスな歌声で、僕を責め立てる。
「ね。クマゼミの声って……」
僕は頭を振った。
思い出せない。どうしても……。
僕は息をひとつはくと、再び走り出した。とりあえず、父さんに会おう。そうすればきっと、きっと何かがわかるはず!
もう迷いもなく神社の前の石段に立つと、僕はさらに世界を、空間そのものを震わせるクマゼミの大合唱の中を一気に駆け上がった。
石段を昇りきると、昨日の祭りが嘘の様に何もそこにはなかった。本当に、何の跡かたもなく、そこにあるのはあの大きな老木のみだ。
僕はまるでその木そのものが蝉の声を響かせているかのような、青々とした天を衝くような枝葉を見上げると、溜息を一つついた。
夏の朝の日差しを透かした瑞々しい緑は、僕を優しい木陰で包んでいる。僕は乱れる呼吸を整えながら、そのひんやりとした幹に背を預けた。
クマゼミの声が、まるで波の音かテレビのノイズの様に鼓膜に直接響いてくる。
「父さん……」
まだ、いるかな?
腕時計を見た、もう8時前、約束より2時間も遅れている。しかも、昨日のあの出来事も、こんなに明るい陽の下じゃ、夢だったって言う方が信じられる気がして……。なにより、父さんは死んでいるんだ。生きて、僕を助けられるはずがない。だから、こんな約束……。
僕は息をのんで、昨夜皆と上った道を見つめた。草に隠されたその道は、まるで僕に来るなと言わんばかりに揺れている。
もしかしたら夢だったのかもしれない。そんな不安はない事はなかったけど……。
「行くしかないか!」
僕は背中を離すと、あの道なき道に近いけもの道を一歩一歩登り始めた。
蝉の声の勢いは増すばかりだ。
草が脛を切る。暑さで垂れた汗が目に染みる。何より、階段を上ったすぐ後にまた坂を上るのは、想像以上に骨が折れた。
ようやく頂上が見えてきた頃には、僕はすっかり力を使い果たしその場にしゃがみこんでしまったくらいだ。
膝の笑う足を引きずって、僕はあの岩のある広場へ這って行く。でも、そこには誰もいなかった。
「……」
やっぱりね、そんなため息交じりの声も落とせやしない。僕はがっかりすると再び腰をおろした。
やっぱり……あれは夢だったのか? それとも帰っちゃったの? せっかく会えたと思ってたのに。せっかく……。
鼻の奥がツンとしてきた。涙が出る準備ができたと僕をからかっているようだ。
でも、もう泣いてもいい気がした。昨日の事は何だったのかわからない。幽霊? お化け? わからない。
最後に見た父さんの目を思い出した。優しくて……そう、優しくて哀しそうな目だ。
父さんが僕を助けてくれたのは事実だ。
僕は僕の膝を引き寄せ、目を瞑った。
一粒だけ涙が零れ、同時に言葉も零れ落ちた。
「一人ぼっちなのも事実か」
涙が足もとに落ちた、その時だった。
「ね。クマゼミの声って囁いているように聞こえない?」
岩の向こうから『声』がした。




